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君にさよなら⑷

 八月二十一日、午後三時を回った時分。自分の部屋で、明るさの残る空の色を思い出す。元の世界線で、日南先生の火葬が終わった時間だ。

 自宅の電話、スマホにも連絡はない。悲劇の起こらない世界になったのだろう。あれ以降、おかしな夢も見ていない。

 右手でシャーペンを動かしながら、張り詰めていた神経を緩める。隣りの視線を気にしながら、僕はリスニングの回答を書き終えた。

 いけ好かないと言うように、金宮(かなみや)先生が鼻で笑う。


「上の空って感じだったけど、ちゃんと聞いてたんだ」

「一応」

「はい、また正解。なあねぇ、真面目に必要ある? この授業」


 金宮先生は、採点したノートを机にパサッと投げ置いた。


「両親の安心薬(あんしんやく)なんです。塾も家庭教師も、やっている事実に意味があるから。成績は現状維持出来れば、それで」

「ふーん、で、親の後を継いで歯科医師か。高校生のうちから、約束された将来ってわけね」

「それは……」


 違うと答えられなかった。ピアノの道へ進みたい思いと、無理だろうと思う消極的な自分がいる。

 何も考えていないように見えて、彼は僕の心境を察することが上手い。


「君には親がくれた歯科医師の道がお似合いだと思う」だなんて、皮肉を込めて言うくらいだから。

 本当に心が読めるのかと思ってしまうけど、彼から確信をつくことは何も言って来ない。


「今日も良いこと教えてあげるよ。夢ってさ、起きたとき夢かよーくそっ! ってなる夢あるよね」

「……はい」

「好みの芸能人とデートしたり、億万長者になってたり」


 何が言いたいのかと、冷ややかな視線を向ける。そんな僕にお構いなしで、どんな夢が良かったかを延々と話している。

 時間を持て余してしまったから、適当にやり過ごすつもりなのだろう。あまり真剣に聞かず、僕がパタンと教科書を閉じたとき。


「あの夜、なんでキスしなかったの?」

「……え?」

「車の中で、いい雰囲気だったでしょ。大人の女の人と」


 何かを見据えている眼に、体全体がぞくりとした。この世の物ではないもの、例えば幽霊にでも出くわしたような。


「何……言ってるんですか」


 弱々しい声を絞り出すのがやっとで、言い訳すら浮かばない。


「たまたま目撃しちゃって。悪いなーと思いつつ、好奇心が勝っちゃったんだよね」


 動揺する僕を楽しげに見ながら、金宮先生は勉強机に立てかけてある本を手にした。綺原さんから借りたままになっている『夢とシンクロニシティ』だ。

 中身を開きもせず、黙って表紙を見つめている。


「へえ、面白い本持ってんね。梵くんって、お堅い勉強ばっかしてるんだと思ってたけど、夢のメカニズムとか興味あるんだー? 意外」

「……友達のです」


 この人は、(かん)に障る言い方ばかりする。

 取り上げた本を棚へ戻すけど、手の震えが止まらない。これが何に対しての表れなのか、理解するより先に。


「梵くん。夢の中で、一番しちゃいけないことってなーんだ?」


 僕の背後に立ち、ぐっと顔を近づけて来る。あまりの圧に動けない。

 くくっと笑う吐息が耳に触れるほどの距離で、そっと。


「恋だよ。心を喰われたら、いろいろと迷いが生じるからね。良くも悪くも。自分の奥底の気持ちを見失うなってこと」


 ほどよい低音が体に響く。

 得体の知れない威圧感を出して、金宮先生は部屋を出て行った。


 彼と会ったのは、この日が最後だった。



 夜の灯りが灯る時刻。勉強机に向かっていると、ゆっくり部屋のドアが開いた。夜食と一緒に、母がアイスコーヒーを机の横に置く。

 ありがとうと伝えた後も、なぜか母は僕を見て立っている。いつもと何か違う。そう思っていると、穏やかな口調が上から降って来た。


「少し来てもらえる? 話したいことがあります」


 シャーペンを握っている手を離して、何か良くないことだろうと、重い足取りで一階へ降りた。

 リビングへ連れられるのだと思っていたが、母が開けたのは手前に位置するピアノルーム。疑問に思いながら足を踏み入れて、心臓がドクンと跳ね上がる。

 どうして……?

 何もないはずのだだっ広い部屋に、どっしりとした白いピアノが置かれていた。


「たまたまお孫さんと学祭へ行ってらした歯科医師会の会長が、演奏を聴いて返して下さったの。素晴らしかった。もう一度、息子さんにピアノを弾く機会を与えてあげて欲しいって」


 久しぶりに触れる鍵盤は滑らかで、優しい音がした。

 目頭に熱いものが込み上げて、滴が頬を流れる。嬉しさと信じられない思いが溢れて言葉が出ない。

 最後まで、あきらめなくて良かった。


「運命と言うものは、どう足掻(あが)いても逆えんものだ」


 背後から、独り言を嘆く父の声が聞こえた。


「お前を見ていると、昔の自分を思い出す。反抗した時期もあったが、私は今の自分を誇りに思う。お前にもそうなってほしいと思っていた。だか、梵の人生だ。どうすることが一番良いのか、今一度よく考えて答えを出しなさい」


 低く深みのある声は、胸に真っ直ぐ響いた。

 ピアノ関係の仕事を選ぶにしても、歯科の道へ進む決意をしても、全ての責任は自分にある。決めた道を全うしろ。

 その言葉の重みからは、父が貫いてきた思いが伝わった。

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