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君にさよなら⑵

 アスファルトの照り返しが強くなる八月。空を飛ぶ鳥さえ木陰に避難する暑さだと言うのに、まるで僕には関係ないことのように快適な部屋で過ごしている。

 ピアノと書道の空いた時間に入り込んで来た家庭教師の授業。残りのスケジュールに塾の文字しかない毎日は、(せわ)しないけど退屈だ。


 疲れからなのか、一週間ぶりに夢を見た。日南先生と話しているもので、場所は知らないところ。

 夢だと認識していたけど、綺原さんを呼ぶことは出来なかった。どちらかが暴走するわけでもなく、比較的普通の内容。いわゆるただの夢だ。

 過敏になり過ぎていたのだろうか。一応、あとで報告の連絡を入れておこう。


 カリカリとシャーペンを動かす手を止めて、ふと考える。

 そういえば、綺原さんの下の名前って……なんだっけ。


「梵くん。そこ、分からない?」


 金宮(かなみや)先生の声に呼び覚まされた。物思いにふけながら、無意識に数学の問題を解いていたのか。

 再びスラスラと手を動かすと、金宮先生はフッと息をこぼした。


「さすが梵くん、正解! なあ、ねえ、なんで君みたいに妄想しながら解けちゃうような子がカテキョーなんて付けてんの?」


 顔をぐっと覗き込んで来る彼を、さり気なく避けた。


「親が勝手に頼んだから知りません」

「ふーん、金の無駄って感じするけどなぁ。ほとんど教えることないし」


 赤ペンを回しながら、退屈そうな表情を見せる。これじゃあどっちが生徒か分からない。


「それ、教師が言う言葉ですか?」

「ああ、別に俺は学校の先生じゃないからいいのいいの! もちろん、学校じゃ教えてくれないような勉強も教えてあげれるよ?」

「親の前でその態度出したら、即刻クビなのに」

「大丈夫、そんな失態しないから」


 満面の笑みを浮かべて、彼は持参して来た漫画を読み始めた。

 この人が家庭教師をしていることに違和感しかない。一人で勉強した方が、絶対に集中出来ると断言出来る。


 水曜と金曜の週に二日、金宮先生には数学と英語を教わっている。第一印象は、高学歴で礼儀正しい好青年。両親が信頼するのは当然だろう。いざ始まって三回目には正体を現し、四回目になる今日の授業でこの有り様だ。


「出来ました」


 最後の問いを記入し終えてプリントを渡す。読んでいた漫画をベッドに伏せ、さらさらと赤丸をつけ始めたかと思うと、三十秒もしないうちに返された。

 不真面目な態度からは想像出来ないほど頭が良く、仕事が早い。


「全問正解! 今日の授業終わっちゃったなぁ。あと十五分何したい?」

「特に何もないですから、帰ってもらって構いませんよ」

「それは契約上出来ないんだよなぁ。一応、授業ってのしないと」


 軽い口調で話す金宮先生を見ながら、ため息を吐く。

 勝手な所だけ律儀だ。まあ、時間が過ぎて行くのを適当に待てばいいだろう。

 教科書とノートを片付けていると。


「じゃあ君は優等生だから、特別授業してあげよっか?」

「特別授業?」

「学校の先生じゃあ教えてくれないようなこと」


 いかにも胡散臭(うさんくさ)いというか、妙に背中が(かゆ)くなるような台詞だ。

 不信感を(あら)わにすると、彼はにやりと口角を上げて手招きをしてくる。

 仕方なしに耳を近付けたら、鼓膜あたりにフーッと息の風が吹いた。思わず耳を押さえて体を後退させる。


「ちょっと、な、何するんですか⁉︎ 無理、そういうの無理ですから!」


 体中の毛穴という毛孔(もうこう)が収縮して、あちこち鳥肌が立っている。危機を感じてか、体は無意識に身構えていた。


「ごめんごめん、ちょっとした悪ふざけ。俺もそっち系の趣味はないから安心しな?」


 ヘラヘラと笑いながら、金宮先生が肩を組む。

 適当なことを言って、何も考えていないように見えるけど目の奥は鋭い。全く読めない人だ。


「梵くんってさぁ、彼女いる?」

「……いません」

「じゃあ、好きな子はいるんじゃない?」


 心臓が揺らいだ。これを動揺と呼ぶかと言えば違う気もするけど、なぜか落ち着かない。

 きっと、僕はこの人が苦手なんだ。表と裏の顔を使い分ける所とか、見た目の雰囲気がなんとなく皆川と似ているから。


「急に何ですか? 金宮先生には、関係ないです」

「なんだよ、せっかく恋愛相談でもしてあげようと思ったのにさ」

「そういうの、興味ないので」


 適当にあしらおうと思った。素っ気ない態度をしていたら、すぐに諦めてくれるだろう。


「見えちゃってるんだけどなぁ。梵くんの心に、浮かんだ人」


 心臓のあたりをこつんと突かれて、首のあたりからたらりと汗が流れた。


「良いアドバイス出来ると思うけど。俺、人のココロ読めちゃうから」

「僕、高校生ですよ? からかってるなら」

「時間をやり直してる君なら、信じてくれると思ったんだけど?」

「…………は?」


 階段の一番上から押されたような衝撃が体に走る。涼しいはずの部屋が暑く感じて、一気に冷や汗が噴き出て来た。体の水分が吸収されて、喉が乾燥していく。

 どうして、この人がタイムリープのことを知っているのか。


「ぜーんぶ知ってるよ? 梵くんのココロの内は、全てお見通しだから。八月十八日……もうすぐだね」


 ──ガタンッ。机を押し除けて、金宮先生の体を床に押し倒していた。

 荒くなる呼吸。肩を掴む指が震えている。違うと分かっているのに、皆川と重なってしまう。


「怖いよ、梵くん。俺、そんな趣味ないんだけどなぁ」


 顔色ひとつ変えないで、僕の目を見据(みす)えている。反応を見て楽しんでいるのか?

 でも、この人はタイムリープも、八月十八日に何か起きたことも分かっている。


「あなたは……、誰ですか?」

「誰って、ただの家庭教師、金宮(たける)だよ? 他に何か聞きたいことはある?」


 冗談染みた話し方が妙に落ち着いていて不気味だった。胸の内を全て覗かれている気がして、(おぞ)ましくて、僕は彼から手を離した。



 ──この男は、一体何者なんだ。




 授業を終えた夕方、近くのコンビニへ足を運んだ。まだ微睡むような時間ではないのに、頭の中がぼやりしている。

 霧のかかった場所に立っているみたいだ。意識はあるのに、思考が鈍っている。

 日頃の疲れなのか、もしくはあの男が原因か。

 コーヒー牛乳とマンゴーアイスを買って、店の外へ出た。辺りは闇に包まれて、絵本のような藍色の空には星が散らばっている。

 数分で決めたつもりだったが、そんなに長居していたのか?

 疑問が過ぎったけど、構わずそのまま家へ向かった。


 しばらく歩いて違和感を覚える。さっきから、同じ角をぐるぐる回っている気がするのだ。

 家からコンビニまで、徒歩で五分も掛からない。もう十分は歩いているけど、家へたどり着けない。

 もしかして、夢を見ているのか?


 もう一度同じ角を曲がり、目を見開いて進む。すると、今度は少し広い通りへ出た。目の前には知らない公園がある。

 心の中では行かないと決めているのに、足は中へと動く。揺れるブランコに人影が見えた。

 月明かりに照らされているのは、日南先生だ。


「こんなところで、何してるんですか?」

「待ってたのよ、梵くんのこと」


 いきなり話しかけても、まるで来ることを知っていたかのような反応。おまけに、普段言いもしない名前呼びだ。


「ここはどこですか?」

「どこだと思う?」

「こんな公園、家の近くにありません。夢……なんですよね?」


 すべり台に砂場。僕らの他に人影はない。この地球上で、たった二人きりしか存在していないかのように空気の音すら聞こえない。

 フフッと艶っぽい声が落ちる。日南先生がしない笑い方だ。髪を耳にかける手つきとか、ねっとりとした唇の開け方も。


「夢だと思うなら、夢なんじゃないかな。現実だと思うなら、梵くんにとってこれが現実になるのよ」


 わけの分からないことを言いながら、漕いでいたブランコからピョンと飛び降りた。

 それから、トントンと靴を鳴らして、僕の真正面に立つ。


「前に言ってた話したいこと。まだ、話してなかったよね」


 ちょうど街灯が当たるところで、向き合う影が重なった。

 綺原さんを呼ばないと。頼む、出てきてくれ。心の中で唱えてみても、彼女は現れない。

 気持ちはコントロール可能でも、人物の操作は出来ないらしい。


「先生ね、もうすぐ死んじゃうの。だから、梵くんと一緒にいたいのよ」

「……やめて下さい」


 タイムリープが起こる前と、同じことを言っている。

 遠くで犬の遠吠えが聞こえた。細かい演出だと思いながら、ふと疑問が過ぎる。

 これは本当に夢の中なのか?

 華奢な手が、僕の手をそっと包み込む。柔らかな感触の中に、しっかりした大人の厚みがある。それが妙にリアルで、ごくりと唾を呑む。


「八月十八日、私は死ぬ。夢だと思う?」


 頬を伝う一筋の光が、きらきらと輝きを放つ。

 宝石箱をひっくり返したような空から、幾つもの星屑が落ちてくる。一瞬にして僕らの姿を消し去ると、目の前は完全にショートした。

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