はじまりの夢⑴
ゆらゆら、ふわふわ。しばらくして、体中が冷んやりした空気に包まれる心地よさで目を覚ました。どうやら、知らないうちに眠っていたらしい。
体が浮くように軽くて、子猫ほどの体重もないような感覚。
見渡す限りに広がる青い空は、ずっと幻想を抱いていた世界に似ている気がした。
ここは見慣れた学校の屋上であるはずなのに、目の前にある景色はあちら側の世界にいるように美しい。青に滲むピンクや黄色、紫の絵の具は、空の涙になったように水を含んで地上へと降り注いでいる。これは、夢の中での出来事なのだろうか。
「こんな雨が降るなんて、すごく綺麗だね」
驚いて隣を向く。自分だけが佇んでいると思っていたのに、突然人が現れたからだ。
──この子は、誰だ?
茶色く柔らかな肩丈の髪をした女の子。同じ結芽岬高校の制服を着ているから、おそらくここの生徒なのだろう。
その子は僕が座るフェンスに足を掛けると、綱渡りをするかのように、幅の狭い鉄格子の上へ立つ。
「えっ、ちょっと、危ない……」
言いかけた言葉は小さく空へ消えて行く。
夢なのだから、まあいいか。そんな気持ちが胸の中に沸いたからだ。
「これって、夢なのかな?」
「えっ?」
「君の夢、それとも、私の夢どっちかな?」
「さあ、どっちもなんじゃない」
「ふふっ、それって一緒に同じ夢を見てるってこと? すごく素敵な回答だね」
次の拍子に、彼女の体がくらっと揺れた。
あっ、落ちる!
現実でないと頭では思いながら、衝動的に伸ばした手。だけど、次の瞬間には僕の手を引っ張る女の子の姿が、空を背景にして飛び込んで来た。
フェンス越しに必死に引き上げようとする彼女と、今にも落下しそうな僕。
いつの間に状況が反転してしまったのか。理解するよりも先に、汗ばんだ指先が滑るように離れた。
──ここは、あの世だろうか。
薄っすらと重い瞼を開ける。白い天井と見覚えのある自室の勉強机、それに紺碧のカーテン。
やっぱり夢だった、と頭の中では冷静なのに、心臓の音は尋常じゃない速さで動いている。
屋上から落ちて行く感覚はスローモーションのようで、ジェットコースターの急降下よりも風を切っていた。バンジージャンプはしたことがないけど、あんな体感なのかと思うほど夢にしてはリアルだった。あれが正夢になったら、楽になるんだろうか。
一瞬過った考えを捨てて、窓の外を見る。
今日も、皮肉なほど晴天だ。
まあ、鮮やかな雨が降る美しい光景を見れたのだから悪い体験ではなかったのかも、と額の冷や汗を拭う。
汗と言えば、今日は真夏の日差しを蓄えたじとっとした空気を感じない。どちらかといえば、二階で寝ていたことを忘れさせるほど、さらっとしている。
何かがおかしい。寝巻きに袖が付いている。昨夜は半袖で布団へ入ったはずだ。当たり前だ。八月という猛暑なのだから。
リビングへ降りて、さらに疑問が増えた。新聞を片手に朝食を終えた父は、見ているこっちが暑苦しさを感じる服装をしている。もちろん、母も同様に。
八月にそろって長袖なんて、どういうジョークだ?
状況が飲み込めず突っ立っていると、妙なフレーズがテレビから聞こえてきた。
「四月の風物詩でもあるチューリップは、今日、四月十六日の誕生花でもあり……」
「四月? いやいや、もう八月だから」
画面越しの女子アナウンサーにツッコミを入れる声が、段々と渇いた笑いに変わっていく。
何を言っているんだというしらけた顔で、両親が僕に視線を送った。どう考えても、普通じゃないのはみんなの方なのに。
昨日は、八月二十一日。日南菫の葬儀が行われた日だ。
もの苦しさと肺が重くなるような空気を味わったばかりで、寝顔のように綺麗な顔もまだ脳裏に残っている。だから、間違えるはずがない。
「梵、おかしな事を言っていないで、早く制服に着替えてらっしゃい。生徒会長が新学期早々に遅刻だなんて、示しがつかないでしょう」
真面目な顔で淡々と話す声が、不鮮明な世界に現実味を帯びさせた。エイプリルフールは終わっているし、騙しているようには見えない。
そもそも、母はそんな冗談を言うような人ではない。正常じゃないのは、僕の方なのか?
カレンダーを確認してみると、たしかに四月だ。
一度過ぎ去った過去へ戻って来てしまったのか。はたまた、今までが予測していた未来を見ていたとでも言うのか。
どちらにしろ、今日は四月十六日として登校するしかない。
昨日まで薄いカッターシャツを着ていたから、春制服に袖を通すことに違和感がある。体感温度では適性の格好をしているはずなのに、カーディガンを羽織る生徒たちを見ていると、どうしても暑苦しさが拭えない。梅干しを見ただけで唾液が出るような、先入観の問題なのだろうか。
廊下を歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「直江、おはよう。今度の試合、【期待してる】からな。お前にかかってるぞ」
「……はい」
「ああ、直江くん。この前は、補修の問題手伝ってくれてありがとう。さすが、君は【生徒の鏡】だね」
「……いえ」
息が詰まる。僕は優等生になりたいわけじゃない。求められることに、期待に応えなければと思っているだけだ。
また、この重圧した毎日をやり直さなければならないのかと思うと、肺が重くなった。
教室へ入って、一度立ち止まる。たしか、四月は窓側の前から二列目の席。座りながら、手に汗を握るほど緊張していた。
黒板に書かれた四月十六日の文字や、何ヶ月も前に習った時間割の日程なんかよりも重要なこと。
ドアの開け方には、人それぞれの音が出る。荒々しく豪快な音、力ない弱々しい音。
そして、穏やかで優しさの溢れる音。
「みんな、おはよう」
いつもと変わらない爽やかな香りを振りまいて入って来た彼女を見て、心臓が震えた。
昨日葬儀をしたばかりの日南先生が、目の前にいる。
──彼女が、生きている。
ようやく、時が巻き戻ったことを信じられた。
授業はどれも復習ばかりで、上の空でいても卵を割るくらいに簡単だった。
自分だけが時の止まった世界に取り残されているみたいで、恐怖心が宿るというより好奇心の方が強くなった。
もう一度、人生をやり直しているようで。
廊下をすれ違う時、昼休みや職員室でも日南先生とよく目が合った。僕が思わず目で追ってしまうからなのかもしれないけど、彼女も必ずこちらを見ている。
『菫先生、梵くんのことよく見てるようだから』
クラスメイトである綺原さんの言葉を思い出した。彼女が言っていたことは、冗談ではなかったんだ。
弓道場へ行く前に、美術室へ立ち寄った。まだ部員は誰もいないが、準備室が少し開いている。美術の授業は選択していないから、三年間で入るのはこれが初めてだ。
コンコンとドアを鳴らす。ふわりとした茶髪の後頭部が見えていたけど、念のために。
ふり返った日南先生は、ひどく驚いた表情をした。まるで、侍が目の前で刀を振りかざしているのかと思うくらい、この場に不相応な人物を見ている目だ。
「直江くんが美術室に来るなんて、珍しいね。どうしたの?」
どうしても確かめたいことがある。今日一日、ずっと頭の中を駆け巡って離れなかったこと。
一七四センチの僕より十センチほど低い日南先生の目線が、目の前に近付いて止まる。面と向かい合うと、やましい気持ちはなくても、なんだか妙な気分だ。
「あの、先生、体大丈夫ですか?」
「カラダ?」
「あ、体調のことです。最近、具合悪かったり……してないかなぁって」
たしか、持病が悪化して亡くなったはずだ。本人を前にして、考えていることが複雑だけど。
「先生は健康人間だから、特に問題ないわよ。心配してくれてありがとう」
「でも、持病は?」
言いかけて慌てて口を噤む。その会話をしたのは、もっと後日のことだ。
首を傾げながら、ふふっと彼女は目を細くして。
「持病なんてないわ。風邪すらほとんど引いたことないんだから。もしそんな噂があるなら、直江くんが訂正しておいてね」
「そう……ですか」
美術室を出る時には、僕の方が混乱していた。
一体どうなっているんだ?
八月二十一日、日南菫の葬儀は行われた。それは、紛れもない事実だ。
持病が悪化していると言っていたのは本人だし、彼女の母親からも病で亡くなったと聞かされた。知られたくなかったのだとしたら、もっと動揺してもいいはずだ。
もしかして、彼女が死なない世界線へ飛ばされて来たのだろうか?