夢境のつづき⑷
ゆめみ祭を一週間後に控えた土曜の夜、久しぶりに家族三人が揃って食事をした。
父は主に診療のある平日は、午後十時近くまで歯科に残ってカルテのチェックや模型と睨み合っている。休診の木曜日は様々な講習会へ行き、日曜日は往診をしてまた勉強。
「医療は日々進化する。そのための努力は惜しまない」が、父の昔からの口癖だった。
最新の技術をなるべく早く取り入れたいと言って、新しい材料や機材を導入することも多いらしい。
そんな仕事人間の父が、今日は家にいる。神様が与えてくれたチャンスだと思った。
箸を置いたタイミングを見計らい、咳払いをする。
「あのさ、来週の土曜日にゆめみ祭があるんだけど、今年は来れそうかな」
「無理だ。土曜は診療があるだろう」
「じゃあ、母さんだけでも……」
「その日は、午後から埋伏智歯のオペが入っています。最近スタッフの子が辞めてしまったから、人手が足りなくて困ってるのよ」
その後に続く言葉は、だから行けない。そんなことはハナから分かっている。
ゆめみ祭へ、遊びに来て欲しいわけじゃない。もう一度、昔みたいに演奏を聴いて欲しい。そうしたら、僕の覚悟を分かってもらえると思った。
テーブルの下で拳を握りながら、席を立つ父に口を向ける。
「実はピアノを」
「あのピアノルーム、もういらんだろう。明日、ピアノは知り合いへ引き渡すことになった」
僕の話など初めから聞くつもりがないと言うように、上から被せられた言葉。
「あなた、そんなことは一言も……」
「いちいちお前の許可がいるのか? 梵、もういい加減勉強に集中しなさい。なんでも中途半端に身に付けても意味がない。ピアノからは充分に集中力を得られた。もう必要ない」
小さく開いた口は固まったまま、何も言い返せない。母もそれ以上は口を噤んで、父がリビングを出て行く姿を見送った。
昔から、僕たちは父の言うことには逆らえなかった。自分の考えが全て正しくて、真逆のことをしようとすると訂正される。
僕にとって大切なものでも、父にとってはガラクタに過ぎない。
「ピアノのこと、止めてあげられなくてごめんなさい。ずっと頑張って来たこと、お父さんも分かっているはずよ。でも、今は四乃歯科大に合格することが最優先なの。小学生の時から、ずっと目標にして来たことでしょ? だから分かって」
「……知ってる」
肩に優しく置かれた手は、肉をえぐり骨を砕くほどに強く縛り付けた。
翌朝、知らない中年男性と若い男が二人で家を訪れた。
父の言っていた通り、知り合いはグランドピアノを運び去り、何もなくなったピアノルームの床には、虚しく楽譜だけが残されていた。
「なんだよー、せっかく名披露目すんのに親来ねーの?」
週明けの月曜日。帰りの支度をする僕の前で、苗木が驚いた声をあげた。
まず、その言葉にぴくりと反応したのだけど、いつもの調子だとスルーするつもりだった。
「あら、梵くんたら。いつの間に結婚することになったのかしら」
わざとらしく綺原さんがツッコむと、「ええっ、直江結婚すんのか⁉︎」と、想像通りの返しが来る。この二人のペースにはついて行けない。
「……苗木が言いたいのは、お披露目だろ。名披露目は結婚式の引き出物の一種だよ」
「ああ、そいうことか。勘違いしてたわ。わりぃな」
雑談を交えながら廊下へ出て、中央玄関でじゃあと手を振り家路に着く。駅までの道のりで、両サイドに違和感を覚えながら。
自転車を押しながら隣に並ぶ苗木と、当たり前のような顔をして付いてくる綺原さん。
「あのさ、二人とも……どうしたの? 帰りこっちじゃないよね?」
今日はこっちに用があるから気にするなと言って、彼らは同じ電車へ乗車した。僕の家の最寄り駅で降車すると、影のようにくっついて来る。
不自然と言うか、あきらかに付いてきているのだ。
「絶対、尾行してるよね? なに、ほんとどうしたの?」
自宅前まで来たところで、もう一度尋ねた。動揺する苗木をよそに、綺原さんが僕らの手を引き、隣に構える歯科医院のドアを開ける。
「えっ、ちょっと綺原さん?」
受付を通り過ぎて、治療中の診療室へと進む。呼び止められる声にも振り向かないで、ただされるがまま。
「……梵? あなた、何をして……」
器具を運ぶ母が、目を丸くして僕を見ている。その横を通過して、真正面にある院長室へ向かう。
それはダメだ。声を上げるより早く、綺原さんのこぶしがドアをノックしていた。
ここへ足を踏み入れたのは、小学生以来だろうか。
ツンと鼻を刺激する薬品の匂い。白衣姿の父が、遠い記憶と重なって懐かしく感じた。
「誰だ、君たちは。診療中になんの用だ」
院長の椅子に深く腰を下ろしながら、パソコンに何か打ち込んでいる。視線は手元のカルテにあって、こちらを見ようとしない。
心臓が尋常じゃないほど音を立てて、何が起こっているのか、正直自分自身も理解出来ていなかった。
「梵さんのクラスメイトの綺原と言います」
「あっ、苗木です」
軽く頭を下げた二人は、構わず仕事を続ける父へもう一歩近づく。
「来週のゆめみ祭へ来て頂きたくて、案内を持って来ました」
積まれたカルテの隣に、綺原さんがゆめみ祭のチラシを置いた。ミニコンサートと書かれた横に、日時とピアノの絵、さらに僕の名前が記されている。
「直江、学校でもすごいんですよ! ピアノも出来るなんて知らなくて、それも大トリ……」
「ろくに弾きもしていない梵が、ピアノ演奏? 馬鹿馬鹿しい。そんなことを言うために、わざわざ仕事の邪魔をしに来たのかね」
苗木に被せた父が、ため息を吐く。君たちの頭には、常識と言う言葉がないのかと。
「ご迷惑なのは承知の上です。こうでもしないと、耳を貸して頂けないと思ったので」
綺原さんの声に、父はフンッとした態度をする。
「梵さんは、ゆめみ祭を成功させるため毎日練習しています。どうか」
「ここは、患者様の苦しみを和らげる場所なんだ。ましてや院長室には、個人情報もたくさんおいてある。関係のない人間は出て行ってくれ」
あまりにも冷淡で一方的な口調に、思わず体が前へ出た。
「……父さん!」
「帰ってくれ。君たちと話すことは何もない。それから、二度と梵に関わらないで頂きたい。非常識な人間と連んでいても、梵のためにならん」
堪えていた何かが、僕の中でプツンと切れた。それは細い糸のようで、太い綱のようにも感じられる。
「……父さん、今のは訂正して下さい」
「なんだと?」
「誰が……誰が非常識なんだ。僕のために、お願いに来てくれた二人に、謝ってよ!」
父に対して声を荒ぶらせたのは、初めてだった。
反抗すらしたことのなかった息子が、感情を露わにして歯向かった。その事実だけが、父の内側に刻み込まれたのだろう。
幻覚でも見たような目をしてから、静かに瞼を閉じて厳格な表情を取り戻す。
「それが親に対する態度か。よく頭を冷やして考えるんだな」
気付いたら、二人の腕を掴んで歯科医院を出ていた。
建物が見えなくなった角の先で、もつれそうな足が止まる。ごめんとだけつぶやく僕の隣で、苗木が肩をポンとした。
「私の方こそ、ごめんなさい。よかれと思ってしたのだけど、裏目に出てしまったわ」
綺原さんの声色も、少し曇っている。
許せなかった。何も知らないくせして、一方的に否定する父と、ただ突っ立っているだけで何も出来なかった自分自身に腹が立った。
力の入った背中がパシンと叩かれ、張り詰めていた気がふっと解ける。
「直江も綺原も気にすんなって。まあ、あれだ。生きてりゃこうゆうこともあるさ」
あっけらかんとして、苗木がハハッと笑う。まるで人ごとのようだ。さっき自分が全否定されたというのに、関係ないみたいな態度。
僕はそんな前向きには、なれない。自然と頭が俯いていく。
「たしかに苗木の言う通りね。起きてしまったことは変えられない。これからどうするべきか、よね」
地面に向いていた顔を上げると、二人の笑顔が飛び込んで来た。ぱらつき出した雨に紛れて、唇をぐっと噛み締める。
この二人と友達になれて、僕は幸せ者だ。
その日の夜は、苗木の家へ泊まることになった。啖呵を切って飛び出したのだから、ようようと家へ戻ることは出来ない。父の言う頭を冷やせとは、そういうことだ。
小さなアパートの一室に、投げ出されたままのランドセル。散らかった教科書を拾いつつ、手慣れた手つきで苗木が空の菓子袋をゴミ箱へ投げ入れる。
「こら、おまえら! 何回言ったら片付けんだよ。出したらしまう、食った袋は捨てる!」
腹に響くような声を聞いてなのか、開いたクローゼットの奥から、三人の子どもが顔を覗かせた。小学校低学年くらいの男の子と女の子、それから高学年くらいの男の子。
「大兄、おかえりー!」
ワッと駆け寄ってきて、あっという間に苗木を取り囲む。そのみっつの頭をリズムよくポンポンと撫でて、ただいまと笑った。
苗木の家は母子家庭で、母親が遅くまで働きに出ているため、苗木が父親代わりをしているらしい。
冷凍ご飯を解凍して、手際良くボウルで卵をとく。ソーセージとキャベツを加えて、チャーハンを作ってくれた。
あとは昨日の残りだというコロッケが食卓に並ぶ。
「こんなのしかねぇけど、直江も食えよ。腹減ってるだろ」
「ありがとう」
「もうお腹ペコペコだよー」
「あっ、おまえら! いただきますしてからだぞ」
注意された弟たちは、ブゥと頬を膨らませつつも、みんなで手を合わせてから箸を取った。
見た目こそチャラついてはいるけど、しっかりしている。
感心していると、「冷めねぇうちに早く食えよ」と促された。うなずいて口にしたチャーハンは、温かくて優しい味がした。
「なあなあ、そよぎ兄ちゃん。そよぎ兄ちゃんは、家族いないの?」
布団を敷く苗木の横で、うつ伏せになった低学年の弟が僕に訪ねた。
足をバタバタさせているし、子どもの言うことだからあまり深い意味はないのだろう。それでも、肺がずしりと重くなる。
「……どうして?」
「だってさ、今日は僕ん家で寝るんでしょ? なんで? 家ないの? 迷子になったから?」
目をキラキラと輝かせて答えを待っている。
なんでも知りたがって、父に質問ばかりしていた頃を思い出す。幼稚園くらいの時は、まだ何も考えず無邪気に話していた。
いつから、自分を閉じ込めて優等生を演じることに徹して来たのだろう。
「おーい、変なことばっか聞いてないで早く寝ろよ」
放られた掛け布団が弟たちの頭を覆い、笑い声が響く。ゴロゴロと転がって、巻き付いた布団を苗木がぐるんと引っ剥がした。
僕のズボンをぐいっと引っ張る弟。みんなのはしゃぐ声を聞いて、胸の奥が熱くなる。
「家族も、家もあるよ。お父さんと喧嘩しちゃったんだ。そしたら、大兄ちゃんが泊まっていいよって言ってくれたから」
真剣に聞いていないのか、弟はズボンのひもをぷらぷら揺らしながら。
「なーんだ。じゃあ、仲直りしたら帰っちゃうんだ。つまんないのー」
膨れた頬をブッと鳴らして、また笑う。その顔が可愛らしくて、自然と素直になれた。
「また遊びに来ていいかな?」
「来て来てー! わたし、そよぎお兄さん大好き」
不意打ちで妹に抱きつかれて、思わず固まってしまう。
あまり小さな子と接する機会がないから、反応に戸惑っていると、横から刺々しい視線を感じた。
「直江、言っとくが妹はやらんからな」
「おかしいおかしい! 目がマジになってる」
弟妹を寝かせたあと。布団の端で横になっている苗木が、起きてるかと僕に声を掛けた。
起きてるよと返事をすると、また小さな声が落とされる。
「俺ん家ってさ、裕福じゃないくせに兄弟多くて、アイツらに付き合わされてうるさかっただろ?」
「そんなことないよ。賑やかだし、大変そうだけどいいなぁって」
「これが毎日だと、ストレス溜まるぜ?」
「……たしかに。苗木はすごいよ。僕には……無理だろうな」
昔から兄弟に憧れがあった。何をするにも独りぼっちで、寂しい思いをして来たから。
みんなで温かいご飯を食べて、笑い合えることに羨望の眼差しを向けた。
──でも。
「しょーじき、直江が羨ましいなーって思うこともあった。隣の芝犬は青く見えるってやつだ」
それは氷山の一角に過ぎないのだと、思い知った。
「人それぞれ、悩みもいろいろ。俺はこの家が大事だし、頑張ってる母ちゃんや出てった父ちゃんに恨みはない。どんなけ文句言ったって、結局この家が好きなんだわ」
「……うん」
自分に言い聞かせるように、苗木は天井を見つめながらしみじみと話した。
こうして川の字になって眠ったことが、僕にもあった。遠い記憶の中の僕は、母に抱かれながら幸せそうにしている。
一人だった分、両親の愛情は全て自分に注がれていたこと。薄れゆく昔が、苗木家へ来て少しだけ思い出せた。
「明日は、ちゃんと親と話すよ。いろいろありがとう」
「おう、頑張れよ」
誰かと背中を合わせて眠る夜は、どこか懐かしくて温かい。
久しぶりに幼い頃の夢を見た。父と母に見守られながらピアノを弾く僕は、とびきりの笑顔を浮かべていた。




