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夢境のつづき⑵

***


 夢の世界が崩壊して十日が過ぎた。あの光景を最期に、蓬が夢に出てくることはなくなった。

 空を飛んだ僕たちは、あれからどうなったのか。一体、あの夢はなんだったのだろう。

 窓の外を眺めている授業中に、時々意味もなく考えている。

 ホームルームで教壇に立つ日南先生へ目を向ける。アイコンタクトを取るとか、逢い引きの誘いがあるわけもなく、彼女との関係が特別に変わることはなかった。


「それと直江くん。この後、残ってくれる? 話したいことがあります」


 ただ、前より少しだけ、距離は縮まったように感じる。


 放課後、進路指導室に呼ばれた僕は、日南先生の顔をじっと見ていた。ゆるりと長い茶髪に、幅の広いぱっちりとした目。スッとした鼻筋と、ほどよい厚さの唇。蓬が大人になった姿だと頭では理解しているけど、未だに慣れない。

 目の前に進路調査の紙を出されて、以前の光景が蘇った。

 四乃森(しのもり)歯科大学という文字は変わらないのに、あの時感じた違和感の正体を、今なら胸に染みるほど理解出来る。


「歯科医師になるのが、幼い頃からの目標だったのね」

「もう、小学生の頃からずっと……ですね」

「直江くんが継いでくれるから、きっと、親御さんも喜んでくれてるのね」

「そうなるべくして生きてきたから、当然だと……思っているかと」

「そう……、えらいわね」


 この歯切れの悪い会話、よく覚えている。何か聞きたいことがあるのに、聞けないもどかしさがあふれている空気。


『何をしている時が一番楽しいの?』


 あの時、日南先生が本当に確認したかったこと。それはおそらく。


「ピアノ、まだ弾いてる?」


 優しく微笑む彼女は、夢で会った少女と同じ瞳をしていた。小さくうなずく僕に続けて。


「何度か、一緒に弾いたよね」

「僕の家に海の砂浜。あとは、屋上……だったかな」

「本当に見たんだね、夢」

「全部覚えてる。その時の感情とか、感覚も、全て」

「私も覚えてるわ。ずっと、もう一度会いたいと思ってたから」


 見つめ合っていた視線を逸らす。日南先生が蓬だったと分かったからなのか、妙に意識してしまう。

 そっぽを向いている顔が、柔らかな指に挟まれて、グイッと正面へ回された。


「こっち見て。ずっと、言いたかったことがあるの」


 このままキスでもされそうな体勢に、思わず体が仰反(のけぞ)る。

 待ってくれ、心の準備が──!


「本当に、ありがとう」

「……はい?」


 気の抜けた声が出た。言われた理由は分かるけど、甘い展開を期待してしまったばかりに、その妄想とのギャップに拍子抜けする。一分前の自分を殴ってやりたい。


「それと、もうひとつ。梵くん、ほんとにピアノの道は諦めちゃっていいの?」


 緩やかだった日南先生の眉が、凛々しくなる。確認したかったことは、やっぱりそれだったんだ。


「今更、ピアノの道に進むなんて」


 出来ない。そう思った瞬間、脳裏に響く声。



『君のピアノは世界一だから。好きなことを辞めないで』



 遠い記憶に流れてくる声は、一体誰だろう。覚えているような、思い出せないような。ぼんやりとした人影が浮かんでいる。

 母と肩を並べてドレミファソを教わった幼少期から始まり、泣きながら練習した時や発表会で賞をもらった時。いくつもの映像が頭の中を駆け巡っていく。

 一人で寂しさを紛らわすために弾いていた時。

 それから、蓬と演奏する僕はとても伸びやかで繊細な音色を出していたことを思い出して、胸が熱くなった。

 思い返せば心のどこかに、【世界一】という根拠のない文字があったから、僕は好きを続けられた気がする。


「その選択に後悔しないなら、私は何も言わないわ。あなたの目標を応援したい。でも、もし少しでも迷う気持ちがあるなら……」


 彼女の言葉へ被せるように、綺原さんの台詞が僕の弱い心を惑わせる。


『何かを諦めたようだった。あなたにとって幸せな未来なのか……表情を見てたら分かるわ』


 どうして今、思い出してしまったのか。自分の気持ちは無いものだと、見ないようにしてきたのに。


「……ピアノの先生が、小学生の時になりたいと思った夢だった」


 自分の中に秘めていた気持ちをさらけ出したのは、初めてだった。

 将来なんて、親の引いたレールを歩くだけのつまらないもの。昔から、そう思ってずっと生きてきたから。

 厳格な父の顔色を見て育ち、母が必要と決めた習い事をこなす。テストの点数が一点でも落ちると怒られるから、必死に勉強して。僕の意見を求められる場面なんて、一度もなかった。


 何のために頑張っているのか分からなくなって、時々空を飛んでみたいと思うようになった。死にたいわけじゃないけど、生きている意味が見出せなくなったから。


「話してくれて嬉しいな。その気持ち、今も残ってるの?」

「……正直、わからないけど。未来を変えられるなら、足掻(あが)いてみてもいいのかもって、思いました」


 少し前の僕では、考えられない発言だ。

 でも、何年か先の未来で笑っている自分が、少しだけ想像出来る気がした。

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