夢境のつづき⑴
遠くなっていた感覚が自分の体に戻ってくる。分裂していた何かがひとつになった時、僕は涙を流していることに気付いた。
手に残った人肌の温もりが、徐々に薄れていくのが分かる。
夢の終わりを告げるように、強く繋ぎ合っていた手と心は消えてなくなってしまった。何もない手のひらをグッと握りしめては、小さく息を吐く。
ほんとうに、終わってしまったんだ。
静かな教室にカチ、カチと時計の音が鳴り響いている。机の上には解き終えたテストのプリントがあって、すぐに試験監督から「終わり」の合図が出された。
それを聞いたとたん、僕は何かのネジが取れたように教室を駆け出た。後ろから聞こえた教師の声にもお構いなしで、足は夢中でどこかへ向かっている。
どうして今まで、気付こうとしなかったのだろう。
初めて言葉を交わした時も、何気なくしていた日常会話も、意味もなく屋上を訪れていたことだって全て。時間が戻るずっと前から、彼女は見ていてくれていたのに。
息を切らしながら、屋上のドアを思い切り開ける。まるで待っていたかのように、日南先生がフェンス越しに立っていた。
「直江くん? もうテスト終わっ」
話を聞き終える前に、僕は彼女を抱きしめていた。指先や体に伝わる彼女の感触をたしかめるみたいに、腕をきつく締め付ける。
頬を伝う雫が、艶やかな茶髪にポツンと落ちて弾けた。
「また会えて……よかった」
彼女が小さくうなずいたのに気付いて、見えない顔に笑みがこぼれたように感じた。
背中に回された手が、カッターシャツをキュッと掴む。その仕草で飛んでいた理性が引きずり戻されたのか、抱きしめている体を慌てて離した。
「あの、すみません、つい」
「直江くんに戻っちゃったね」
動揺ぶりが可笑しかったのか、日南先生はクスクスと声を上げて笑う。睫毛と頬に、全てを物語る雫を輝かせて。
***
複雑な感情を抱きながら、私は彼の澄み渡る瞳を見ていた。
記憶を失っていた旧友に会ったような、あるいはずっと想いを寄せていた人に会えたような。なんとも言えない感情だった。
高校三年の初夏、私は不思議な体験をした。日々の生き辛さと寝苦しさに悶えていた頃、ある夢をみるようになった。
夢に現れた少年は、落としたら脆く壊れてしまいそうなガラスのように繊細な印象で。直江梵と名乗った彼は、同じ高校の制服を着ているけど顔も名前も初めて知る人だった。
夢で会う度に夢ではないような感覚になって、次第に現実と混同していったの。彼と会うことが楽しみになり、夢で会うことが当たり前になっていた。
半年間続けていた担任教師との不倫に終止符が打てたこと。ゆめみ祭で足踏み状態だった壁画製作が、多くの署名を集めることで乗り越えられたこと。夢を諦めなかったことも、全て彼がいて勇気をくれたおかげ。
一度壊れたものは、簡単には戻せないことも教えてくれた。
不思議な夢を見なくなって、三ヶ月が過ぎようとしていた。高校生活最後の夏休みだと言うのに、味気ないもので。
友達とカラオケに行って、家で映画を見ていても、どこか胸の中がぽっかりとくり抜かれた気がしている。
好きな絵を描いていても、勉強をしていても、ふと思い出すのは彼のこと。ちゃんとしたお礼も言えないままで、線香花火のように消えてしまった夏の夢は、私の幻想になりかけていた。
八月二十一日。朝、目を覚まして小さく息を吸って吐く。胸に手を当てて鼓動を刻む音を確認してみる。
……まだ、生きている。
忘れもしないこの数字を、何日も前からカウントダウンしていた。
八月二十一日は、私の葬儀があったと、梵くんがノートに記していた日付。それが何年後の未来なのかは分からないけど、気にせずにはいられなかった。
肩下まで伸びた髪をハーフアップして、ノースリーブのワンピースに身をまとう。
バスに乗って、この辺りで一番人が賑わうNプラザというファッションビルへ向かった。洋服や小物はもちろん、映画館や図書館が完備され、周辺には洒落たカフェが並んでいることから女性の利用客が多い。
欲しかった限定リップを取り扱っている店舗が、地元ではNプラザしかない。そのために三十分かけてやって来たの。何度か訪れたことはあるけど、一人で来たのは初めてだった。
エスカレーターに乗って、思わず顔を隠すように背けた。対向側を下がっていく人が、皆川先生と夢で見た奥さんに似ていたから。心臓の震えが止まらない。
あの人は教師を辞めた。他の生徒とも関係を持っていたらしく、それが明るみになったからだと風の噂で聞いた。
私のことは公にならなかったから、普通の高校生活を送っていられるのだと、母は口を酸っぱくして言う。
すれ違ってからこっそり振り返ってみるけど、小さくなっていく横顔は彼ではなくて、少し胸を撫で下ろす自分がいた。この罪悪感から逃れられることは、この先もないのだろう。
目的のリップを購入して、他の店を見ることなく外へ出た。真夏の昼下がりは日差しが強くて、すぐに額やうなじに汗が滲む。
バス停まで向かう途中の木陰で、ひと息つくように買ってあったアイスティーを飲んだ。木で作った椅子が設置されていて、ご親切に『お座り下さい』とプレートまで貼られている。
この町は良い人が多いんだろうな。なんて単純に考えていると、前方から小学生くらいの男の子が一人で歩いて来た。肩から下げた黄色と黄緑のトートバッグに似合わない虚な目をしている。
少し気になって、向かって来る姿を観察していた。綺麗な黒髪と長い睫毛に隠れる瞳は、幼いながらミステリアスな雰囲気を漂わせている。
伏し目がちに読んでいるのは、試験管の写真が付いた理科の教科書。実験をする皆川先生が頭を過ぎるだけで、今は恐怖だ。忘れてはならないけど、忘れたい過ち。
幸せそうな奥さんの顔、赤ちゃんの笑い声。それから、優しく微笑みながら甘い言葉をささやく先生。
──お前のことなんて、本気で好きなはずがないだろ。かわいそうで、憐れな子だから。一緒にいてやっただけ。
「やめて……もう、やめてよ!」
思わず声に出ていたと気付いて、ハッと顔を上げる。目の前で足を止めて、不思議そうな目でこちらを見る少年がいた。
「やめてって、僕?」
「ああ、違うの! ごめんね。君は全然関係なくて」
ふと教科書に書かれている名前に目がいく。全身の神経が集中するみたいに、頭の中で会議をしている。また夢を見ているのか、と。
「直江……梵?」
「はい?」
「君の名前、直江梵くんなの⁉︎」
「えっ、お姉さん誰ですか?」
不審な顔をして、教科書をトートバッグに入れる少年。明らかに警戒しながら去ろうとする彼の細い腕を、無意識に引き止めていた。
「怖っ、警察……」
「ああ、つい、ごめんね! もちろん誘拐なんてしないよ? 私、結芽岬高の日南菫って言うの! ここでいいから、少し話がしたくて」
慌てて手を離すと、少年は何かを考えるように唇を尖らせて。
「このあと塾があるから、手短かにお願いします」
「ありがとう。暑いから、木陰に入らない?」
木の椅子へ座るように促すと、少年は素直に腰を下ろした。大人びて見えるけど、中身は良い意味で小学生だ。
「せっかくの夏休みなのに大変だね。教科書見てたから、塾帰りだと思ってた」
「これはピアノ教室です」
見せられたトートバッグの内側には、音符とピアノ教室の名前が書かれている。
思い出した。曲なんてほとんど弾いたことがないのに、隣に座って彼とピアノの演奏をしていたこと。彼の奏でる音色は星屑のようにキラキラしているのに、いつもどこか寂しげだったこと。
「男がピアノ習ってるなんて恥ずかしいから、いつもこうして歩いてるんだ」
再び戻された音符の柄は、少年の腕の中に隠れた。
「かっこいいと思うけどな。男の子がピアノ弾いてる姿って」
「ピアノ習ってる男子って弱そう、女っぽい、根暗そう。世間的には、まだそういうイメージの方が強いんです」
「ふーん。でも、クラッシックの偉人だって男の人が多いじゃない。ベートーベンとかショパンとか」
「そこと一緒にされても」
ため息を吐く少年は、夢で会っていた高校生の梵くんとは少し違った印象を受けた。
「じゃあ、辞めちゃえばいいのに。サッカーやバスケとかの方が女子からモテるでしょ?」
「簡単に言うなよ! ピアノは、僕にとって大事なものなんだ」
キッと目を吊り上げて歯向かう姿が、いつか夢で見た彼と重なる。真剣な表情はこの頃から変わらなくて、改めて幻想ではなかったのだと教えてもらった。
「知ってるよ。私の知ってる梵くんは、体の一部みたいにピアノを自由自在に操ってた。すごかったんだから、高校生の君」
「なに言ってるの?」
「フフッ、私の独り言だと思って」
こうして話していることに、まだ実感が湧かない。たしかに彼だと言えるのに、何も覚えていない姿を目の当たりにして少し残念に思う。
様々な感情が湧き出て来て心は忙しいけど、素直に嬉しい。
「将来は、ピアニストかピアノの先生になったりするの?」
「好きだけでは、どうにもならないこともあるんだ」
身に覚えがあり過ぎる台詞は、私の心臓を揺さぶり深く突き刺す。
時折見せる曇った表情を浮かべながら、少年は人差し指を彼方へ向ける。そのまま私の視線も流れるように動く。
示す先に見えていたのは、【なおえ歯科・口腔外科】という看板。まさかと思った。
「僕の未来は最初から決まってる。親も、おじさんやおばさん、近所の人までもが口を揃えて言うんだ。『将来は立派な歯医者さん』だねって」
「そんな……まだ、小学生なのに」
「あそこは、お祖父ちゃんが始めた歯医者なんだ。だから、子どもの頃からお父さんの将来も決まってたってわけ。僕だけピアノをするなんて、出来っこないんだ」
「そんなこと関係ないよ」という無責任な言葉が喉の寸前まで上がってくる。
でも、何も言ってあげられなかった。嘆きにも似た小さな声に、寄り添ってあげることが出来なかった。余計に彼を苦しめてしまう気がして。
「もう帰る」と言って、少年は去ろうとする。
こんなはずではなかった。もっと夢のある話をしようと思っていたの。
「君とは夢の中で出会ったんだよ」「高校生になった君はたくましくて、優しくてかっこいいよ」そう教えてあげたかった。
だけど、今の私では梵くんを笑顔にしてあげられないから。これだけは伝えておきたい。
息を大きく吸って、まだ小さな背中に呼びかける。
「梵くん! 絶対、ピアノ辞めちゃダメだよ!」
かかとを向けている少年の足が止まった。控えめに振り返る瞳には、薄っすらと水の玉が浮かんでいる。
「君のピアノは世界一だから。大きくなったら、もう一度聞かせて欲しいの。だから、好きなことを辞めないで」
小さくうなずく少年の顔には、初めて見る笑顔が咲いていた。
その時、心に誓ったの。いつか教師になる夢を叶えて、彼のような生徒たちの力になりたいと。
それから六年後、私は高校生になった彼と再会した。初めて見た瞬間、心臓が震えた。夢で会っていた時の容姿は、もうほとんど色褪せてしまっていたけど、ひと目見て分かった。
綺麗な黒髪、垂直に下りた長い睫毛。シャープな印象の輪郭と小さな口。彼が、直江梵だと。
古い記憶のアルバムを取り出して来たみたいに、モノクロだった映像が鮮やかに色付いていく。
でも、まだ彼は私を知らない。記憶を失くした旧友に会ったような、あるいはずっと会いたいと想いを寄せていた人に会えたような。とにかく、胸の中は不思議な感情であふれていた。
彼らが三年生になり担任を受け持った時、全てを悟った気がした。ついにその時が来てしまうのだと。
だから、八月二十一日が訪れるまで、彼の生きる時間に私がいて欲しいと思った。




