近くて遠い⑷
授業、部活、登下校の最中、家にひとりでいる時間。どのタイミングで夢の世界へ繋がるのか、最近そんなことを漠然と考えている。
夢を記録するために書き始めた日記は、気付けばノートの半分に達していた。タイムリープについて、何かヒントになるかもしれないと僕が言い出したことだけど、今のところ進展はない。
ひとつ言えるのは、全ての日付に蓬が出てくることだけだ。
「やっぱり、蓬が関係してる?」
ピアノの前に座りながら「いや、でも」と、独り言をつぶやく。
綺原さんもタイムリープしているんだ。彼女が見ているのは未来の夢で、蓬の存在は知らない。
僕は日南先生の死、綺原さんは僕の死がトリガーになって時間が巻き戻されたと考えるのが妥当だろう。
ピアノの鍵盤に指を置く。そっと目を閉じると、指が勝手に音色を奏でる。暗闇を思いのまま操るように、優しく儚げなメロディがあふれてくる。
知らない曲を弾いているということは、夢なのだろうか。
徐々に瞼を持ち上げる隙間から、鮮やかな色の世界が飛び込んで来た。ピンクとブルーのグラデーションがかった空の下で、僕はピアノの演奏をしている。
そこへ現れた蓬の細長い指が加わって、四本の手が鍵盤の上を流れていく。僕らの奏でる音色は、空に響いて広がっていた。
映画の場面が切り変わるように、目の前には見慣れない町の景色が映っていた。
レンガ調の洒落た家から、女の子が飛び出して来る。顔を覆いひどく慌てた様子の後ろから、「待ちなさい」と怒鳴るような声が追いかけていく。
よく見ると、泣いている少女は蓬だ。泣き散らしたのか艶やかな髪は頬にくっ付き、目元は涙でぐちゃぐちゃ。母親らしき年配の女性が、蓬の腕を掴んで家の中へ引き戻そうとしている。
「いい加減にしなさい! お母さんは、ぜったいに許さないからね」
「やだ、離してよ。こんな家出てく!」
「お願いだから、目を覚まして。縁を切れないなら、今から学校に乗り込んで、全部を……」
掴まれている蓬の腕をパシッと振り払い、彼女と母親の間に割り入った。いきなり誰だと言いたげな目で見てくる母親に向かって、ここぞとばかりの優等生面を活用する。
「少しだけ、娘さんお借りします」
「梵くん⁉︎」
「え、なにあなた……ちょっと!」
力ない手を引くと、夢中で足を走らせた。母親の声が、後ろで小さくなっていく。
知らない建物や緑の背景を抜けて、僕たちは進み続ける。
「ねえ、待って、どこ行くの?」
「わからない。とにかく、光のある場所」
「なにそれ……?」
付いてくる蓬の息が荒くなっていることに気付き、少しだけ足を緩めた。
いくつも並ぶ白い建物を抜ける。その先には、見たことのない紫と水色の海が広がっていて、砂浜に白いピアノがひとつ佇んでいた。
ためらいもせず、普通の行動のように僕らはピアノを連弾する。何かに導かれるように。
「……おかしな夢。ほんと、梵くんが出てくると不思議なことばっかり」
「夢ってそんなもんだろう?」
滑らかな音色を奏でながら、隣でクスクスと笑う。その笑顔につられて、僕の頬も緩む。
えくぼが消えて、彼女の口角が下がった。
「でも、夢の中で現実が起こってるんだよ? 今までのこと、全て夢だけど全部ほんとうなの」
唇を噛みしめるような切なげな表情。不安、絶望、それとも後悔なのか。
「……さっきのって、その、親にバレたの?」
「私と先生の、……抱き合ってる画像が、知らないアドレスからお母さんのスマホに送られて来たの。別れないと学校にバラすって。秘密で付き合ってたから、お母さんはもうカンカンで」
「……皆川先生に、相談は?」
小さく首を横に振って。
「言えるわけないよ。面倒とか、煩わしいって思われたくない」
皆川から嫌われることに対して、彼女は恐怖に近いものを抱いていた。どうにかして繋ぎ止めていたいという気持ちが強く感じられて。
だから、皆川の顔色を伺って、好かれるためだけ必死に行動している。本心を見失いながら、正常な心と歪んだ欲望との狭間で苦しんでいる。
「いつも先生は、君が一番だよって言ってくれるから。ほんとはダメだとわかってても、二人の未来を想像しちゃうの。こんな子ども相手に、本気になるわけないのにね」
穏やかな波の音が消えて、僕たちは家の中にいた。突然変わった場面は、リビングだろうか。見慣れないオムツやお尻拭きが置かれている。
どこか分からない場所で、お互いに目を合わせた。それは、蓬も同じ様子だった。
赤ん坊の鳴き声が聞こえて、後ろから二十代前半くらいの女性がやってきた。ミルクを冷ましながら、ベビーベッドの赤ん坊を抱き抱えると、母親らしき女性は笑顔で話しかける。
「いっぱい飲んで大きくなってね」
一連の動作を、ただ茫然と突っ立って眺めるしかなかった。あの時と同じ、屋上で蓬と皆川が会っていた時と同様に、僕らの姿は見えていないようだ。
「なに、これ。手も足も動かない」
彼女の声に反応して、体を動かそうと試みるけど出来ない。
そうしているうちに、リビングのドアが開いた。入って来たのは、私服姿の皆川だった。赤ん坊を抱く女性の腰に手を回して、二人で小さな顔を覗き込んでいる。
「ほら、パパ帰って来たよ~。よかったねぇ」
「よく飲むなぁ。よし、俺が抱こうか」
「ほんと? じゃあ、ソファーに座って。首座ってないから気を付けてよ」
「大丈夫だって。さあ、パパのとこにおいで」
微笑ましいホームドラマを見せられているようだ。良い父親を思わせる幸せそうな笑顔が浮かぶたび、腹の底からひしひしと怒りが込み上がってくる。
彼女は見ていられないだろう。微動だにしない隣へ目を向けると、蓬の目は見開いたように彼らを凝視している。その表情が怒りから生まれたものなのか、それとも失望なのか僕には分からなかった。
「……子ども、いないんじゃなかったの? 奥さんのこと……愛想尽きたんじゃなかったの? 全部、嘘だったの?」
ぶつぶつと呪文のようにつぶやかれた言葉は、楽しそうな笑い声に掻き消されていく。
「どうしよう……私、バカだ。この人たちの笑顔を奪うようなことした。取り返しのつかないこと……しちゃった」
魔法が解けたようにフッと体が自由になると、蓬は手で口元を覆って足から崩れた。震える彼女の手を包むように、肩を抱きしめる。
誰も幸せになれないこんな世界は、終わらせた方がいい。壊してしまった方が、いい。
周りは黒い絵の具がこぼれたように闇の色へと姿を変えた。キラキラと小さく輝く星屑に紛れて宙を漂う。
すぐ近くにいるのに、手を伸ばしても蓬に触れることが出来ない。どうしてそんなに遠いんだ。
必死に掴もうとする指がすり抜けて、ようやく気付く。自分の足元、そして彼女の肩と腰に黒い影があることに。
「どうして僕たちの邪魔をする? この子には俺が必要だってこと、よくわかっただろ?」
暗闇から姿を現したのは、彼女をがんじがらめにして腕を回す皆川だった。
「この子は可哀想な子なんだ。進路のことで母親と上手くいっていない。家に逃げ場もない。今、この子の救いは俺に依存することだけだ。それをお前が奪うのか?」
「……梵くん、助けて」
皆川の腕が、徐々に蓬を締め付けていく。このままだと、彼女は力尽きてしまうだろう。
涙を溜めながら息をする蓬は、抵抗しようとしていない。
まだ、彼女は彷徨っている。頭では理解してながら、心の奥底で、皆川を信じる自分を捨て切れていない。
「蓬、惑わされてはダメだ! そいつの優しさは、全て自分の至福のためのものだ! ここで断ち切らないと、君は一生後悔する! 自分で、終わらせるんだ!」
「でも、……怖い。私、これから、どうしたらいいの? どう生きていけばいいの?」
「僕がいる! 自分を信じて、蓬!」
胸のあたりから、小さな光が現れた。それは鼓動を刻むようにゆっくりと大きくなって、やがて僕らを包み込むようにして暗闇が消えた。
鉛筆で描いた世界のように、モノクロの町で人が歩いている。絵はどれも綺麗だけれど、どこか寂しそうだ。
記憶にない場所なのに、懐かしさを感じるのはなぜだろう。
遠くからピアノの音色が聴こえてくる。そうか、胸を締め付けるこの音楽が僕をそうさせるのか。
スポイトで一滴の色水を落としたみたいに、たちまち白黒の世界が色付いて、ピンクとグレーのグラデーションがかった空が目の前に広がった。手を伸ばせば、雲を掴めそうなほど近い。
フェンスのない学校の屋上は、少しだけ違った場所に見える。
遠くで流れていたメロディが大きくなって、それは僕の動く指先から聴こえていると気付いた。蓬とピアノを弾いている。二人でひとつの音を奏でている。
暗黒だった空を、彼女自身で解き放すことが出来たのだ。
「信じてくれてありがとう」
「私、これからどうしたらいいの? あの人たちに、謝っても許されないよね」
「奥さんと赤ちゃんは、今すごく幸せな時だよ。知らない方がいいこともある。だから、それは蓬が抱えていかなきゃいけない償いだよ」
顔を覆った蓬の肩を、そっと抱き寄せる。震える体は、僕の胸にそっと寄り添った。
「その後悔を胸に生きるんだ。だから、蓬は強くなれるよ。きっと、人の苦しみが分かる人間になれる」
深く頷く蓬の目には光が宿り、星屑のように輝いて見えた。柔らかな手のひらが、僕の手の甲に温もりを与える。
「夢見てもいいのかな。こんな私でも、なりたい夢があっていいのかな」
「今の蓬なら、きっと叶えられるよ。諦めなければ、体育館の壁画も成功するから」
美しく完成した壁画を、僕は知っている。彼女たちは、困難に立ち向かって目標を成し遂げた。
目に雫を溜めた蓬が、笑みを浮かべながら、僕の袖を掴み小さな声を落とす。
「私たち、死なないよね?」
「え?」
「前に、ノート、見えちゃって。梵くんって、ほんとは未来の人なんでしょ?」
トクン、ドクンと心臓が不揃いな音を鳴らし始める。彼女が言うノートとは、おそらく僕が頭の整理をするために書いていた時系列だろう。
でもそこにあるのは、蓬の名前ではなくて……。
「日南……先生?」
ピシッと、ガラスにヒビの入る音がした。
それは僕の心なのか、この世界に鳴り響いたものなのか。
「君のほんとうの名前は、ヒナミ……スミレ」
パラパラと奇妙な音を立てて、美しい空が崩れていく。いつもの滲みゆく景色とは違う。まるで、地球が剥がれ落ちていくような感覚。
「夢の世界が……消えていく……」
少しずつ壊れゆく世界を、僕たちは黙って眺めていた。
心の奥底では、ずっと前から知っていたように思う。彼女が何者なのか、わざと見えないふりをしていたのかもしれない。
いつかこの日が来てしまうことを、恐れていたから。
それでも心のどこかに余裕があって、また会える予感がしていた。僕の知らない時から、彼女は見つけてくれていたのか。
屋上の端部にある低い壁に、僕は足を乗せた。断崖に立っているかのように、底の見えない闇が全てを吸い込んでいく。
続いて、隣に並んだ彼女の手に優しく触れる。お互いの指先が探るように絡んでいって、そして、しっかりと手を結び合った。
「一緒に、空を飛ぼうか」
僕の言葉が引き金を引いて、二人の体がふわり浮くと世界は逆さまになった。こんな光景を、見たことがある気がする。
「私たち、また会えるよね?」
「必ず、会えるよ。いつか、また」
「梵くんのこと、忘れないから」
落ちて行く景色の中、聞こえていた時計の秒針が大きくなって、僕の意識は一瞬にしてショートした。




