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近くて遠い⑶

 水彩絵の具でぼやかすように、目の前が滲み出し、様々な色が混ざり合う。徐々に視覚は鮮明になって、背景はくっきりとなる。



「それで、綺原は何の仮装するんだ? 魔女か、吸血鬼か?」


「どうしてモンスターばかりなの? ハロウィンパーティーみたいじゃない」

「黒マント絶対似合うだろ」

「じゃあ、苗木はスケルトンってとこかしら」

「おお、透明人間か? なんかかっこいいな! わくわくして来たぜ」


「無知って幸せね」


 いつもの綺原さんと苗木の掛け合いが耳を通過する。現実世界の教室へ意識が戻って来たのか。

 黒板に並ぶ文字は、僕が書いたものだろうか。筆跡は明らかに自分のものだが、どれも記憶にない。

 意味もなく指を握ってから開いてみる。何度か繰り返すけど、手の震えは止まらず。指先には白いチョークの粉が付いていた。やはり身に覚えがない。

 ふいに、手を覆う優しい感触に襲われて顔を上げた。


「梵くん、寒いの? 手が震えてる」


 綺原さんの言葉に、隣の苗木が「大丈夫か?」と眉を潜める。


「熱があるかもしれない。保健室に行った方がいいわ」

「いや、僕は平気」

「いいから。黙って来て」


 半ば強引に連れ出されて、彼女の後を追い掛けた。繋がれたままの右手からは、柔らかな感触が広がっている。想像以上に小さな手で、僕が力を入れたら壊れてしまいそうだ。


「綺原さん、あの、ちゃんと行くから手……」


 言いかけたところで、振り払うようにパッと離された手。告白したわけじゃないのに、なんだか振られた気分だ。

 思わず苦笑するけど、前を向いたままの彼女の耳が真っ赤になっているのを知って、僕も少しばかり気恥ずかしくなった。


 保健室に養護教諭の姿はなく、ドアに『職員室にいます』の札がかけられている。少し引くと鍵は開いているようで、促されて中へ入ると彼女はピシャリとドアを閉めた。

 詰め寄るように前へ立つと、グイッと僕の顔を覗き込む。水晶玉みたいな透き通った瞳は、心の中を吸い取るようにじっと見つめて。異様に距離が近くて、目を合わせていられなかった。


「ねえ、さっきの授業何したか覚えてる?」

「ええっ? ええっと……ゆめみ祭の、話し合い?」


 黒板に書いてあった内容から、きっとそうだろう。目の前に視線を戻すと、彼女から呆れのため息が放たれる。


「私は記憶があるのか聞いてるの。梵くん、さっきまで夢の中にいたでしょ」

「どうして……わかるの?」

「だって黒板の前に立ってる時、目に光がなかったから。魂が抜けたような、なんて言うか【抜け殻】みたいだった」


 夢を見ている間、現実で自分がどんな行動を取っていたのか記憶はない。

 綺原さんの話によると、僕は普通に歩いて教壇の前に立ち、ゆめみ祭の話し合いをして席へ戻ったらしい。学園祭実行委員が欠席だったため、書記まで一人でやっていたと言うから驚きだ。


 脳と体の意識が別のところにあって、いずれ幻想から戻れなくなる。この前話していたことに現実味が帯びてきたからか、やたらと体を心配する綺原さんに押され、少しだけ保健室で休むことになった。

 オレンジのカーテンから出ようとする背中に、そっと向けて。


「綺原さんの言う通り、関わらなければよかった」

「なんの話?」

「……夢だよ。余計なことして、傷付けたかもしれない」


 布を掴む手に、グッと力が入る。どうしたらいいのかわからず、気持ちをぶつける場所もない。


「夢を終わらせられるなら、そうした方がいいんじゃないかしら。その人のためにも、あなたのためにもね」


 振り向きもしないまま、綺原さんは保健室を出て行った。

 夢が終われば、蓬と会えなくなる。僕にその選択が出来るのか。いや、無理だろう。そんな勇気もなければ、もとより夢世界の壊し方など知らない。


 薄布の中で、何度もため息がこぼれるのはそのせいだろう。

 しばらく横になって、何もない空間を見つめていた。無心に、意味もなく。



 他の生徒が六限目の授業を受ける最中(さなか)、屋上へ足を運んだ。保健室の酸素は薄い気がして、息苦しくて仕方なくて。

 空が一番近い場所には、先客がいた。一歩ずつ足を進めても、フェンス越しに空を眺める日南先生は、遠い彼方へ意識を飛ばしているのか気付かず。


 ふわふわした茶色の髪と鼻筋の通った横顔が、思い出せない誰かに似ている気がしてならない。

 テレビで見たことのある女優、たまに行くコンビニの店員、または中学時代の先輩だったか頭の中にいる別の誰かなのか。

 隣に立って、ようやく僕を見た。大きな目を丸くして、風に拐われていく髪を耳に掛けながらフフッと小さく笑って。


「直江くん、授業はどうしたの? 生徒会長がおサボり?」


 太陽に照らされて、きらきらした目をしている。


「先生こそ、受け持ちない時間だからって屋上で暇つぶしですか?」

「息苦しくなるとね、たまに来るの。あっ、校長先生には内緒ね」


 人差し指を唇に当てて口角をキュッと上げるから、えくぼが出来た。


「あの人お説教長いから」

「たしかに。この前、校長に捕まって一時間近く帰って来なかったですよ、苗木」

「苗木くん、何したの?」

「服装の乱れが理由だったみたいですけど」


 子どものような無邪気な笑みに、少しだけ親近感が湧いた。彼女との空気は、それほど窮屈(きゅうくつ)じゃない。むしろ心地良い。

 だから、風に乗せてつい余計なことを話したくなる。


「正しいことって、なんだろう。ずっと笑顔でいて欲しい人がいて、その人のためと思ってした事が、彼女にとっては幸せから遠ざかる行為で。結果的に、彼女の笑顔を奪ってしまったのは、自分かもしれないとしたら。先生なら、どうしますか?」


 ふわりと浮いていた髪が大人しくなって、なくなっていた瞳はくっきりと開く。


「正しいとされていることが、全ての人にとって正義とは限らない。時には、悪だと後ろ指を指されたって構わないって思うことがあるかもしれない。だってその時は、自分の幸せはその先にあると信じているからね」


 遠くを見るような目が、語りかけるような口調が、まるで蓬と話しているように感じて僕の胸を締め付けた。


「でも、ずっと心の奥にしこりは残るの。どんなに信じていることでも、最終的に、悪は真の正義には勝てないんだよ」

「そう……なのかな」


 僕のしていることは、間違いじゃない。そう背中を押された気がした。


「だから助けてあげて。もしも誰かが道に迷っているなら、直江くんが連れ出してあげて欲しい。その子を、光のある場所へ」


 不思議な感覚だった。日南先生の言葉は音符のように空に浮かび、一文字ずつ音を奏でて心に入って来る。それは優しい音楽になって、僕に勇気を作り出していく。

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