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Prologue

 目が覚めたら、部屋のベッドで眠っていた。慌てて開けたカーテンの向こうには、黒とは無縁の青空が広がっている。

 その美しい光景を眺めながら、僕の左頬は雨のように濡れていた。


 この記憶は、いつか消えてなくなってしまうのだろう。



 知らなかった。花笑(はなえ)む君が見つめる先に、いつも僕がいたこと。

 気付けなかった。君が手を差し伸べてくれていた意味に。


 あの学校の一番天国に近い場所で、君と僕は出会っていたんだ。

 虹色の雨が降り注ぐ中、強く繋いだ手を思い出した。


 だから今度は、もう間違えないと胸に刻む。



 彼女と生きる時間を取り戻すために。




***


 額に玉のような汗が滲む、八月二十一日。夏休みも終盤のところで、制服に袖を通し、慣れない革靴のかかとに違和感を覚えながら地面を踏みしめる。

 喪服に身を包んだ人たちの間を抜け、僕は経験したことのない異様な空気に圧倒されていた。


「よう、直江(なおえ)。青白い顔してるけど、大丈夫か?」

「まあ、なんとか」

「なんっか信じられねぇよな。また普通に、夏休み終わって学校で会うもんだと思ってたからさ」


 半月ぶりに会った苗木(なえき)が、茶色の短髪をくしゃりと触ってため息を吐く。

 僕も同じ気持ちだ。まだ心の整理が出来ていない。


 担任である日南(ひなみ)(すみれ)の葬儀は、親族と学校関係者に見守られて密やかに終わりを迎えた。母親による喪主の挨拶で、『娘は生徒に一番近い教師だった』という言葉があった通り、菫ちゃんと呼び名で慕っていた生徒も少なくない。

 鼻をすする音や嗚咽を交えた声を上げる女子の横で、僕は複雑な表情を浮かべている。もちろん悲しみもあるけど、それより戸惑いが大きいのかもしれない。

 日南菫が亡くなった実感が湧いていないのと、あの日、僕に告げた言葉はまやかしなどではなかったのだと、身に染みて思い知らされたからだ。


 蒸し暑さが落ち着き始めた夕方。僕たちの心とは対照的に、まだ明るさを残す空は清々しささえ感じた。日南先生の亡骸にお焼香を上げて、しっかりとした足取りで家路へ着く。

 人の死に対して虚しさというか、あまりにあっけなく終わるものだと実感させられた。

 何も食べていないはずの喉に何か詰まっているような、気持ちの悪い違和感を感じる。


 肉体的にも精神的にも疲れていたのか、風呂を出てから何もしないで、すぐにベッドへ入った。右、左、また右へと寝返りを打つ。暑苦しさと胸焼けのような苦しさに襲われて、なかなか眠りに付けない。


 高校二年の時に転任して来た日南先生は、美術教師であるため授業を選択していない僕は接点がなかった。だから、担任になった時、どんな人なのかよく知らなかった。

 思い出すのは、三年に進級したばかりの四月。嫌味なくらい空気が気持ち良かった、天色の空の下。胸あたりの高さまであるフェンスに、腰を下ろしているところ。


「直江くん、君の生きる時間を私にちょうだい?」


 恋愛映画のプロポーズみたいな台詞を浴びせられて、僕の思考は数秒停止した。

 笑ってスルーしたけれど、日南先生の表情は至って真面目で、頭のネジが取れているとしか思えなかった。生徒相手に、この教師は何を言っているのだと。


 放課後、生徒指導室へ呼び出されたこともあった。普段と変わらない穏やかな表情で、日南先生が差し出したのは進路調査の紙。記入するのを忘れたのかと、真っ先に希望欄へ視線を落とした。

 違う、ちゃんと書いてある。

 今にも浮き出しそうな【四乃森(しのもり)歯科大学】という文字が、第一志望の横に礼儀正しく並んでいる。


「直江くんは、将来歯科医師になるのが夢なのね」

「夢、というのか分からないけど、そのつもりです。もう、小学生の頃から、ずっと」

「そう、凄い意思ね。先生なんて、高校生になっても将来のこと迷っていたのに」

「悩む選択肢は、なかったです」


 一番古い歯科医院での記憶は、小学三年生。消毒液や薬品の独特な匂いに緊張しながら、ただひたすらに口を開け続けた。

 手には汗と拳を強く握り締め、目を固く閉じていたから、治療中は目の前にどんな光景が広がっていたのかは分からない。

 でも、終わった瞬間に飛び込んで来た父の笑顔は、一生忘れないと思う。あの時、気付いたんだ。恐怖と忍耐から解放されたあとに残るのは【()】なのだと。

 進路調査の紙を眺めながら、日南先生は静かに唇を開く。


「直江くんが継いでくれるから、きっと、親御さん喜んでくれてるのね」

「……はい」


 この拭い切れない違和感はなんだろう。

 掴んでも掴んでも口に入った髪の毛が取れないもどかしさのような、歯切れの悪い前置きを聞かされている感覚は。

 そうだ、呼び出された理由だ。

 こんな世間話をするために、僕の前に座っているとは思えない。彼女は何を、確認したいのか。


 チクタク、チクタク。時計の秒針だけが空間に音を鳴らしている。時を刻む音と合わせるように、呼吸が浅くなる。

 これ以上、無意味な沈黙に耐えられない。


「あの、先生。特に何もないなら、もう帰っていいですか?」


 立ち上がろうとすると、唇を震わせた彼女が何かを呟いた。


「えっ? なんですか?」


 あまりに小さな声だったから、反射的に聞き返していた。


「直江くんは、何をしてる時が一番楽しいの?」


 彼女は数秒前と違う言葉を選んだ。

 僕は少し動揺しながら、ふと頭に浮かび上がった文字を口から出した。


「勉強してる時です」


 率直な言葉だった。

 昔から、趣味は勉強だと挨拶代わりに言ってきた。言い聞かせて来た部分も大いにある。

 用意していた返答でもあったのか、彼女はなんと答えようか戸惑っているように見えた。

「そう、それは模範回答ね」と笑った日南先生の目は、期待で出来上がっていた城を崩された色をしていた。


 生徒指導室のドアを閉めて、誰もいない廊下に立ち尽くす。

 彼女が最初に漏らした声は、「いつなの?」だった。さっきの状況からは話が繋がらないため、ただの独り言だったのかもしれない。

 なぜか、切なそうに眉や唇を歪ゆがめていた彼女の表情が脳裏にこびり付いて、校舎を出てもしばらく離れなかった。


 それから度々、日南先生は屋上へやって来ては、僕の右腕を掴んだ。もちろん、フェンスに腰掛ける僕が落ちないようにするため。


「どうして先生は、いつも屋上(ここ)に来るんですか?」


 自由な足がゆらゆらと動く。少しでもバランスを崩せば、命綱のない僕は約二十メートル下の地面に叩き付けられて仏となるだろう。

 足がつかないジェットコースターと同じで、緊張しても怖いと思ったことは一度もなかった。

 生きることに、それほど執着がなかったのかもしれない。


「ふらっと消えちゃいそうだから。この手を掴んでないと、奪われちゃうでしょ? この綺麗な青空に」


 身投げしないか見張っていると、はっきり言えばいいじゃないか。


「先生ね、もうすぐ死んじゃうの。だから、直江くんと……みんなと、出来るだけ一緒にいたいのよ」

「……死ぬ?」

「上手く言えないけど、最近持病……みたいなものが悪化しててね。あっ、このことは誰にも内緒よ。直江くんと先生だけの、ふたりだけの秘密ね」


 人差し指を唇の前で立てて、日南先生は微笑んでいた。

 向日葵のように明るい表情をしていたからなのか、彼女と死を結びつけることが、どうしても出来なかった。

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