1.異世界転移
ゆっくりと意識が浮き上がってくる。
頬を撫でる風とその音、青々しい草の匂い、太陽の温かさ。様々な情報が侑人に刺激を与えてくる。
(…風…青臭い…草?)
夢から覚めるように浮き上がる意識が速度を上げ、違和感を覚え始めた。
(何してたっけ…。確か友達の結婚式に行く準備をして、駅でリカちゃんと出会っ…!)
洪水の如く思い出されてきた記憶によって目を覚ました侑人は、体を起こしながらの第一声で、
「ごめんなさいって何ゲホッ!ゲホッ!」
盛大にむせた。
「ヴェッホ! ゲホゲホッ…、ン˝ン˝ッア˝~~…」
顔は多少若く見られがちだが四十路前のおっさんである、許してやって欲しい。
やっと呼吸が落ち着き、座ったまま辺りを見回す侑人。平地が広がり、舗装もされていない凸凹の道に小さな丘。所々に岩があり、約2km程先には森が見える。日本なのだろうか…。
侑人は空を見上げると太陽の眩しさに目を細め、また視線を地上に戻した。
「どこ…? ってか…なんて言うかこれ、空気が美味い…濃い?」
やっと働き始めた頭で考えてみても…意味が分からなかった。
建物も見えないこんな平地が地元にあっただろうか…と。
街に出掛けていたはずなのに…と。
風の音しかしない…と。
考えれば考える程、侑人は混乱した。混乱はしたが…それよりも、
「多分、生きとるよなぁこれ…」
自身の身体を見てつぶやく。服装はそのままジーパンとTシャツ。たすき掛けにしていたスポーツバッグもそのままだ。
様々な感情に支配されていた事故の瞬間、侑人は死を覚悟した。
遠くから聞こえる誰かの悲鳴、けたたましいブレーキ音、大音量で近付いてくる警笛。それらの情報と共に目の前にまで迫っていた電車の顔を思い出した侑人はブルっと震えた。
「死んだにしてはリアルな…、死んだ事ないから分からんけども」
ツッコミを入れながら考えてみても、答えは分からない。
「まさかの異世…」
web小説の中には、その手の話はいくらでもある。侑人もそんな話は好きでよく見ていた。が、声に出そうとして止まった。
もしそうだとしたらよりも、もし違っていたらと思ってしまったのだ。
(これがドッキリだったらどうする? …どこかにカメラがあって撮影されてたり?)
そんなわけがないと思いながらも、妄想が膨らむ。
もしドッキリだとすれば…異世界を信じるおっさんが世間に認知されてしまう。そんなことになったら侑人が恥ずか死んでしまう。
(…一旦落ち着こう)
一般人のおっさんを撮って誰が得をするというのだろう。そう思い至ったら若干冷静になれたようだ。
座ったままポケットから煙草を取り出し、100円ライターで火を付ける。煙を吐き出し、これまたポケットから取り出した携帯灰皿に灰を落とす。
『ドッキリだったら』を意識してか、格好つけるように吸い、「…ないない」とつぶやきながら残りを大事に吸い始めた。
この男、余裕があるのかもしれない。
☆
スマホで時間を確認してみると、おそらくあの事故から20分程度しか経過していないようだ。電波はたっておらず圏外であった。
「圏外の場所では電波を探そうとして電池の減りが早くなる」という、嘘か本当かよく分からない豆知識を思い出し、オフラインモードにして…結局電源を切った。
スマホをポケットにしまうと、荷物の入ったスポーツバッグを地面に下ろし、ファスナーを開けて物色…確認を始めた。
簡単に持ち物チェックをしておく事にしたようだ。
バッグの中には、結婚式用に入れていたスーツ一式とご祝儀、着替え一着と長袖の上着、駅ビルで購入した『ちゅるり』、折り畳み式のエコバッグ、スマホ用のモバイルバッテリー、ドライバーや爪切りのついた十徳ナイフ。
他にもポケットティッシュにハンカチ、ちょっと出掛ける用にと日頃常用している小さめのカバン、ホテルで友人と遊ぶ用にと入れていたトランプetc…。
ズボンのポケットにはスマホと煙草とライター、後ろのポケットには財布と鍵と携帯灰皿が入っていた。
(実用的なのはエコバッグと十徳ナイフとライター…くらいか? 最悪『ちゅるり』を食事とすれば…、夢中になったらどうしよう)
チェックした荷物をバッグへと収めながら、真面目な顔でそんな事を考える侑人。頭の中はお花畑か。
やはりこの男、余裕がありそうだ。
☆
結局あれこれ悩んだ末、侑人が考え付いたのは5つであった。
1.盛大なドッキリ
2.やっぱり死んでいて死後の世界
3.異世界転移
4.行方不明事件関連
5.夢オチ
(ん~~…、行方不明と転移はイコールの可能性あるか? 異世界に転移したんだったらワクワクするけど、…現実的にあの状況から考えれば死後の世界かなぁ。でもドッキリの可能性が捨てきれない…。テレビでこういうドッキリ見た事ある気がするし…う~ん…)
現実的に死んでいて死後の世界というのもおかしな言い方である。しかもまだドッキリを疑っているらしい。
気付けば駅のホームから草原へと移動していた。あり得ない現象だ。…しかし、いくらあり得ないと思おうとも、目覚めた場所が草原であった時…人はそれを信じざるを得ない。無理矢理辻褄を合わせようとしてしまうのだ。
…テレビで見かけるドッキリに過激なものが多いのも要因かもしれないが。
(夢オチ…、夢の中で夢だって気付くのは白昼夢だっけ? 白昼…だっけ? 忘れた…調べられんから分からん。まぁ、夢にしちゃはっきりし過ぎてる感じだし、無いか?)
ちなみに侑人が言いたいのは白昼夢ではなく明晰夢である。
(一先ず荷物の確認はしたから、町を探…いや、水の確保か? ここにずっとおっても仕方ないし。…買える金があっても、買う場所がないってこんなにも切ない…)
侑人が水を求めて森を目指そうとしたその時、
「キュイ!」
「デュワッチ!?」
背後から不意に聞こえた何かの鳴き声らしきものに、3分ヒーローマンのような素っ頓狂な返事をしてしまった。
驚いた勢いそのままに立ち上がり、すぐさま鳴き声の聞こえた方向を向いた。
そこに居たのは1匹の動物。考え込んでいた間に近付かれたらしい。
「びびったぁ!…って、うさ…ぎ? …兎って角あったっけ? それより…」
大きいのである。
侑人は詳しいわけではなかったが、記憶にある一般的な兎よりも明らかに大きく感じていた。
10cm程の角が額にある。全長50cmはあるだろうか。
(一角兎…、ホーンラビットでええんかな? もしドッキリなら技術さんすごくない?これ。…それ以前に、やっぱり大きさが…)
珍客をじっくり観察していると、ホーンラビット(仮)は侑人を警戒し、「キュキュッ」と鳴き声をあげた。
侑人はお願いをしてみようとしたが、
(何もしないから、元居た場所に…ん? ………?)
何かがおかしいと気付いた。聞いてくれるか以前に、思っている事が相手に届いていない気がした…お願いをする感覚に違和感を感じたのだ。
お願いを聞いてくれるかくれないか、その差はあったとしても、対象にお願いの力を使うと何かしらの反応を見せる。鳴いたり、首を伸ばしたり、驚いて跳んだりと反応は様々だが。
少なくとも、ホーンラビット(仮)にそれらしい反応は見られなかった。
お願いの力があれば難を逃れられるかもしれない。…という心の支えが突如消失し、侑人はやっと…焦り始めた。
そんな侑人の事情など知らないホーンラビット(仮)は、ザクザクと角で地面をほじくり返し始めた。どうやら威嚇しているようだ。
目は赤く光っており、侑人を獲物と認識しているのかもしれない。
(臆病な性格じゃないっけ!? めっちゃ怖いんだけど!)
「すんませーん! モザイク必要になりますよ!? 放送出来んくなりますよ!? 大丈夫ですか!?」
いるかどうかも分からないカメラマンかスタッフに一声断りを入れてみる。が、どこからも反応はない。
(あの角…張りぼてじゃなさそうだし。…あ~!十徳ナイフだけでも出しとくんだった!)
刃渡り3cm程度であっても、無いよりはマシであっただろう。小さくともナイフだ。見たら逃げてくれていたかもしれない。保証はないが…。
ジリジリと近寄ってきたホーンラビットとの距離は、およそ3m。バッグは下ろしているので身軽だが、素手で対峙していると思うとやはり恐怖心は拭えない。
侑人に格闘技の心得などなかったが、腰を落とし、習った事も無い見様見真似のファイティングポーズを取ると、ホーンラビットが突撃してきた。
(怖っ!? けど目で追える!)
地球にいる兎でも、種類によっては最高時速は70キロは出る。が、初速はそうはいかない。ホーンラビットも例に漏れずのようだ。
侑人が左右どちらへ避けるか迷ったことで、結果的にフェイントを入れるような形で右に避け、ホーンラビットが侑人の居た場所を通り過ぎていった。
方向転換したホーンラビットが、再度侑人目掛けて突撃してくる。
侑人は再び避けようとする仕草で左足に体重を乗せ、上に飛んだ。
「ふんっ!」
「ギュイッ!?」
飛んだ侑人の下を通過しかけたホーンラビット。その胴体へ垂直ドロップキックを食らわせ、すぐさま距離を取った。
両足で踏みつけた足の裏から、ゴリッ!と背骨を砕いたような感触がし、ゴキッ!という音も聞こえた。
「ギュ…」
(ごめんな…)
「ス~ゥ~…、ハァ~ァ~…」
苦しそうな鳴き声に対して心の中で謝りつつ、ドクドクと鳴る心臓を落ち着かせるように深呼吸をする。その呼吸と体は震えていた。意図的に動物の命を奪うような行為は初めてだった。
ホーンラビットは…恐らく血であろう緑色の液体を吐き出し、そのまま動かなくなった。
本当に命の危機だったのか? うまく追い払うことは出来なかったのか? と自問するも、今更考えてもどうにもできない。
侑人は他にモンスターらしきものはいないか見回し、
(これが死後の世界ならクソッタレだわ。異世界…だろうなぁ…、異世界ならワクワクするとか思ったけど…)
「………」
しゃがんで手を合わせ、(ごめんな…)ともう一度謝罪した。
その心の中にあったのは、危険だったから仕方ないという言い訳と、自分の生きる糧とするわけでもなく命を奪ってしまった事への罪悪感であった。
「お疲れ様でしたホーンラビットさん」
「キュッ!キュイ!」
「え…、いや~…、もう出番無いらしいですよ?」
「………キュイィ!?」