第52話 講習会の朝
黄昏の時代六年、八月五日。
朝の八時前。
蓮が自然に目を覚ますと、彼が眠っていた布団の中……腕に触れるあたりに、なにかがあった。
肌触りのいいリネンの布によって包まれているものの、中には硬いものが入っていることがありありと分かる。当然、それは美少女などではない。蓮の知り合いに金属で構成された女性はいない。
そのリネン生地の向こうには、長大な槍が隠されている。
隠したのは、他ならぬ蓮自身だ。
――≪黒葬≫。“双槍の騎士”ヴィンセントの愛用武器だ。
不死身に近い存在であるという彼を一度は倒した一行が……戦利品という訳でもないのだが、無条件にその場に残していくのもなんだなと、杖代わりに携行したものだった。
巨人族の存在と共に鍛造技術が失われし、≪クラフトアークス≫の連結を阻害する特性……所謂“竜狩りの性質”を持つという宝物だ。
蓮たちはヴィンセントが語った断片的な情報しか知らないため、「コクソウ」という音にどんなカン字を当てるのかすら分からないが。順当に考えれば、「黒槍」だと勘違いしてしまいそうだ。いや、そもそもカン字ではなく、カタカナ表記だと思うものかもしれない。
パルメ家に受け継がれる宝物である以上、こちら側が保有していることが公になった場合、帝国勢力に返還を求められ……従わざるを得なくなると蓮たちは考えている。ヴィンセントへと返さず、奴の力を削ぎたいと思うのならば秘匿し続け、「オレたちは拾ってなんかいませんけど?」とすっとぼける必要がある。
上質な武器の例に漏れず、重く硬いそれは、抱き枕にするのに相応しいとはとても思えない……いや、突発的な戦闘に対応するためには、武器を抱いて眠ること自体は悪くない選択か。ただ、室内での戦闘に長槍が適しているのかと、そもそも蓮が得意としているのは剣であることが問題だ。もっとも、蓮が黒葬と共に眠っていたのは、それを武器にするためではなかった。
(やっぱり、寝ている間に≪カームツェルノイア≫が解除されたんだな……こんなんじゃ全然駄目だ)
蓮はつい最近、純血の吸血鬼マリアンネが振るう≪クラフトアークス≫、黒翼と呼ばれるものと、その特殊形態である≪カームツェルノイア≫を得た。それを使いこなすための特訓として、眠っている間にも己の影に武器を潜ませ続けるという挑戦をしていたのだ。そして、それに失敗した。
今は別に失敗しても何のペナルティもないが、この先戦場で意識を失った際、隠していた貴重品たちが周囲にぶち撒けられてしまうのであれば……隠し場所としては心許なさすぎる。
逆に、意識の覚醒度合いに関係なく、いつでも影の中に物を収め続けることが出来るようになったなら。このヴィンセントから奪った槍の隠し場所としては、これ以上ないほど相応しいだろう。
この槍は……自室の隅に放置して外出するには、余りにも危険過ぎる代物だ。
身体を起こし、屋内用の靴を履いた蓮。ベッドに腰掛けた状態で改めて布に包まれた黒葬をまじまじと見て、手の先から≪カームツェルノイア≫を軽く吹き付けてみる。
……黒葬は再び、蓮の影の中へずぶずぶと埋まって見えなくなった。僅かな圧迫感が、影の中には無限にものを取り込める訳ではないことを教えてくる。
どうやら竜狩りの武器とやらも、完全に布で包んでしまえば、その特性は誤魔化せるらしい。そうしていなければ、蓮がたった今吹き付けた≪カームツェルノイア≫も、即座に霧散させられていたはずだ。
(だからこそ、ヴィンセント本人もこの槍だけは仕舞わず、背負った状態で現れた……)
しかし、伝説級の武器だろうが何だろうが、強さに関わらずその重量だけを見て影に取り込めるか否かが決まるのなら、やはりこの力は恐ろしい。さすがに街中に鎮座する建造物などであれば、それがどんなに軽い素材で作られていようと、影に収納出来るイメージは蓮には待てないが……遥か太古に存在した始祖の吸血鬼たちは、どこまでの無法が可能だったのだろうか? いや、吸血鬼が影を操り、人間の砦を一夜にして飲み込み消し去った……などという伝承がある訳ではないが。
自室を出て、長い廊下を真っ直ぐに歩く蓮。現在このトレヴァスの屋敷にて唯一の男性ということもあってか、女性陣たちの部屋がある三階へと繋がる階段を守るような位置に、蓮に割り当てられた部屋はあった。
この屋敷は一階から二階への階段と、二階から三階への階段が隣り合っていない。ぐるっと大きく回らなくては三階へたどり着けないのだ。防犯上、そう珍しい造りでもないだろうが。
蓮の自室は元々物置として作られた部屋なため、扉の遮音性は高くない。もっとも、屋敷内で何かトラブルが発生した際にすぐ気付けるだろうこともあり、本人はそれでいいと思っている。
一階に降りると、窓の外には干された洗濯物たちが揺れていた。今朝の洗濯物の処理はもう終わっているらしい。ケイトの姿が見えないのは、ドロシアを幼稚園に送り届けている時間帯なためだろう。妊婦であるラナもまた運動不足を解消するため、朝はドロシアの通園に付き合うことが多いという。
その間、屋敷には誰もいない状況が続いていたのだ……今までは。今は蓮たち三人が共に暮らすようになったから良いものの、貴族の屋敷としては不用心が過ぎる。
それだけ貴族街の治安がいいということでもあり、同時に家主の不在を任せられるような、信頼に足る使用人を見つけるのが難しいということの現れでもあった。
蓮が浴場前の脱衣所で顔を洗い、首にタオルを掛けた状態でダイニング・キッチンへと顔を覗かせると……ダイニングテーブルの上にはラッピングされたハーフサイズのバゲットパンと、何かが書かれた紙が置いてあった。
『先に出ます。消費期限の近いパンがあるので、是非食べてください』
『冷蔵庫の中にハムエッグもあります♡』
ボールペンで書かれた、エリナの几帳面そうな文字と、千草の丸文字だ。
(ありがとな)
心中で礼を言いつつ、蓮は冷蔵庫からハムエッグの皿を取り出した。卵とハムの下にはキャベツが敷いてあり、横にはミニトマトが二つ添えられている。蓮はミニトマトを二つ、ヘタを毟ってから口に放り込み、ラップを掛け直した皿を電子レンジに入れ、スイッチを押した。電子レンジは庶民にまで行き渡っている程ありふれたものではないが、蓮には高貴な生まれの知り合いが多いので、使い方は知っていた。
電子レンジの起動音を聴きながら、先ほどまでの思考を再開する。
(ヴィンセントが次々と影から取り出して来た……竜狩りの武器の模造品たち……だったっけか? あれらは布なんかで覆わなくても、そのままの状態で影に仕込めてたんだよな)
恐らくは、なにかからくりがあるのだろうと思われるが。本物の竜狩りの武器よりも性能は低くとも、隠し持つことに関しては優れた面があるのかもしれない。模造品の方も、一本くらい拾ってくれば色々と調べられて良かっただろうか。
バゲットパンを齧りながら、数日前の行動を後悔する蓮。いや、あの時は深く考えて行動出来るような状態ではなかった。勝利とも言えないようなボロボロの状態で……右腕まで失っていたのだ。最適な行動を取れなくとも仕方がないだろう。
(いや、待てよ……アシュリーさんの持つ竜狩りの武器……あの細身の長剣は、鞘つきでもオレの≪クローズドウォーター≫を断ち切ってたよな。鞘まで全部、竜狩りの武具を作った大昔の鍛冶屋の仕事ってことなんだろうけど……そうじゃなくて)
アシュリーの長剣は剣も鞘も竜狩りの性質を持っていて、蓮の水翼を打ち消した。しかし、ラ・アニマではマリアンネの≪カームツェルノイア≫によって、アシュリーの身体ごと屋内へと移動させられていた。
以上のことを踏まえると、つまり……、
――竜狩りの性質には、格があるのだ。
アシュリーの長剣よりも、ヴィンセントの槍の方が竜狩りの武器としての格が高い。だからこそ、純血の吸血鬼の≪カームツェルノイア≫でも取り込めない。そういうことなのだろう。
(そういうことなら、メリット・デメリットはかなりハッキリしてくるな……影に収納出来るランクの、そこそこ止まりの竜狩りの武器の方が、オレには合ってるのかも……?)
バゲットパンを食べ終わり、電子レンジから取り出したハムエッグに手をつけながら、蓮は自分の足元を見た。今もヴィンセントの槍が隠されている、その影を。
ヴィンセントが見せた、踏みしめた地面から予備の槍を生やし、相手に奇襲を掛ける技は非常に強力だ。まるで手足が増えたかのような……同時に何人もの敵を相手取るような際は是非蓮も頼りたい、人の領域を超えた技だった。
あれをマスターすれば、蓮もヴィンセントに対し善戦出来るようになるだろうか? ……それは分からないが、あれを使えないままでは、この先の戦いを生き残れない気がした。
自身が≪カームツェルノイア≫を扱える訳でもなければ、基本的に武器は鞘まで竜狩りの性質を持っているに越したことはないのだろう。相手の≪カームツェルノイア≫に身体ごと飲み込まれて、手から武器を奪われるような事態を防げる。というより、それを使える高位の吸血鬼が、あまりにも無法すぎるだけなのだが。
かつて若かりし日の炎竜グロニクルも、ニルドリルという魔人が純血の吸血鬼から≪カームツェルノイア≫を盗んで振るった際には、なす術なく転がされ、予め緋翼を吸わせていた魔法剣すらも取り上げられた。
事前に対策出来ていなければ、伝説級の武器ですら奪われ、敵に使われる可能性すらある。それを踏まえると……余りにも強力な武器を佩くことは、慢心や油断にも繋がる。ならば己の髪の毛を千切り芯として、≪クラフトアークス≫を纏わせたインスタントな武器を主力にした方が安心な面もあるのかもしれない。功牙やビルギッタもそうしていた節がある。蓮はまだそこまで思い至れていない上に、髪もあまり伸ばして来なかったが。まぁ、別にハゲても気にしないのであれば、今の状態でも髪を毟って戦うことは可能だろうが……。
朝食を終え、キッチンの流し台に溜まっていた食器を洗う。ケイトはまた恐縮しそうだが、蓮には時間が余っていたのだ。
蓮が自室に戻った時、それでも時刻は九時にすらなっていなかった。
改めて、講習会の情報が纏められた紙を見る。
(昼前に、北の城門広場に集合……まぁ、早く着いたからって問題はないだろうし。途中で保存の効きそうな食いもんでも買いながら行くか。リンゴとか)
次に蓮は、机の引き出しにしまっていた地図を取り出して眺める。
ラナが蓮たちのために手ずから描いてコピーしてくれた、王都ロストアンゼルスとその周辺の地図である。昔からある城壁内部だけでなく、五区から十六区までの拡張エリアと区長たちの名前に、更にその周辺の貴族たちの領地まで記されている。中々に手間のかかった代物だった。
(本当に、あの人には頭が上がらない……)
もっとも、情報を書き込むためにも大きさの比率がどうしても大雑把になってしまっている部分はあるため、資料として見る際は注意していただきたい。特に、四つの大通りの幅はここまで広くない。この十分の一くらいが実際のサイズだろう。
徒歩であれば、大通りのみを通るルート……一度ロック・ストリートに出てからプレシデンスドールパレスを目指し、そこから更にフレア・ストリートを北上するのが治安的には最も安全なルートだろうが……それではあまりにも時間が掛かりすぎる。距離にして八キロはあるため、一般的な歩きの速度では二時間は掛かってしまうだろう(それも、疲れを知らずに一定の速度で歩き続けられた場合の話だ)。
トレヴァス家から直接フレア・ストリートの中ほどに出られるよう、病院を目指して貴族街の中を抜ける方が効率的だ。大通りの治安維持は最も大切だろうが、貴族街もそれは同じこと。警官を始めとして、本代家やアシュバートン家、ミザール家に属する騎士たちが街中を巡回しているため、危険からは程遠い。
蓮は時短ルートを選ぶことにした。
彼の足なら、丁度一時間ほどで北の城門へと到着出来るだろう。途中で買い物をすれば、もう少し時間を消費することになるだろうが。
蓮は忘れ物がないことを入念に確認してから、横幅の広いポーチを胸の前に通した。ベルトの向きは左肩から右腰に抜ける形で、剣帯の肩掛けベルトとは逆向きにしている。なめし革で作られたそのポーチには大した量の荷物は入らないが、そもそも蓮は半分くらい防具として見ているので問題はない。
(ヴィンセントの槍は……やっぱり影に隠して持っていよう)
蓮には平凡なロングソード以外に、メロアや師匠から与えられた一級品の装備たち……業物である藍色の短剣、ドラゴンスケイルの軽鎧にブーツ、不思議な感触のマント(これもドラゴンスケイルを加工したものなのだろうか?)があるが、その中にも竜狩りの性質を持つものはない。≪クラフトアークス≫を扱う強大な敵が現れた際、ヴィンセントの槍が切り札として使えるかもしれない……。
そうして、蓮は冒険者ギルドの講習会へと向かった。
……新しい知り合いが大量に生まれることになるが、それらを頭に叩き込む準備は出来ているのだろうか?




