第7話 過去に誘拐された経験がある人は、トラウマを刺激しない為にも読まない方がいい誘拐回想
五年ほど前、メロアラントにて発生した誘拐事件。
それは水竜メロアが目覚め、国内において影響力を持ち始めてすぐのことだった。
その存在に危機感を抱いたのか、サンスタード帝国に拠点を置くと思われるとある組織が、水竜メロアの弱みを握る為に、昔から清流の国において重要な役割を担っていた四華族の子息・息女たちをいちどきに攫ったのだ。
美涼やエリナの兄、エドガーの義理の兄などは位こそ高いが、その分警備も厳重で手が出しづらかったことも手伝って、継承権第二位以下の者が狙われやすい環境が出来ていたとも言える。
当時から仲が良かった幼馴染たちはいつも一緒に行動していた上、年若く脆弱に見えた。犯人グループとしても狙いやすかったのだろう。
蛮行ではあったが、実行犯たちの手際は迅速で、メロアの脅威度を高く設定し、急遽作戦を立案しただろう上の者も相当なキレ者であったことは疑うべくもない。
事件発生から三十分後には蛍光院領の保安官事務所は事態を把握していたが、既に領地からの脱出を図られてしまっていた。
メロアの鶴の一声(広範囲に及ぶ念話により、何百キロも先の部下に命令が可能だ)によって国境線が即座に封鎖されたこともあり、犯人たちは一息に帝国まで逃げ帰ることができず、オールブライト領に留まった。
その際、誘拐犯たちによって廃病院に監禁された蓮たち。
当時、犯人側からしてみれば、最も力を持つ蛍光院の息女である美涼が一番、次点で曙の長男である敦也の価値が高かった。
別な部屋をあてがわれたその二人へと犯人グループが集中した時間を見計らい、まずエリナが≪クラフトアークス≫を解放した。
当時は水竜メロアが目覚めたばかりであり、犯人もまさか若干十三歳の少年少女たちが反抗してくるとは夢にも思わなかったのだろう(エドガーは十四歳で、千草は十二歳だったが)。
実際、エリナ以外の子供たちは全員が委縮していた。既にメロアとの謁見を済ませ、メロア正教へと正式に所属し始めていたエリナは、当時から謎めいた落ち着きを見せていた。
拘束具に付けられた鍵には≪クラフトアークス≫を流れ込ませて無理やり開錠し。
腕や足を縛っていた紐は、生成した≪クローズドウォーター≫を振動させることで熱し、自らを傷つけることなく溶かし切った。
そう、≪クローズドウォーター≫の生成と熱量の発生には時間が掛かったものの、エリナはその当時から水竜メロアの眷属が使える≪クラフトアークス≫……水翼の応用までもを行えていたのだ。
監禁されていた一室の内部で自由を手にしたエリナ、エドガー、千草、蓮の四人は、そのまま廃病院から脱出を図るか、残りの二人の救出を実行に移すのかを考える必要に迫られた。
千草が二人を助けることを切望したこともあったが、そもそも他の面々も二人を見捨てたかった訳が無い。千草の声に勇気づけられた彼女らは、次に様子を見に来た実行犯の二人を不意打ちで気絶させると、廃病院の中へと踏み出した。
そこで四人が見たものは、手術室の内部で台座に乗せられ身体を固定された上で、目玉を抉られそうになっていた美涼と敦也だった。
実行犯らは何らかの道具を使ってその残虐な行いを記録し――今なら彼らにも理解できるが、あれはビデオカメラを用いていたのだ――、その映像と共に、繰り抜いた目玉を四華族の親に送り付けるつもりだったのだ。
その光景に我を忘れた千草が、まず手術室に飛び込んだ。
床に落ちていたメスを拾い、敦也に向けておぞましいモノを向けていた男の腕を切り裂いた。怯んだ男の顔面に左の拳を突き入れた千草。火事場の馬鹿力か、その男はその時点で気を失っていた。
一人は倒せたが、その部屋には他の実行犯たちも全員揃っており、五人もの大の男に囲まれることになった。
エドガーと蓮は、その場で即座に動くことが出来なかったことを、今でも深く悔やんでいる。
エリナは自分に出来る最大限の貢献は≪クラフトアークス≫にあると確信し、その場から動かずに力を練り上げ始めていた。
そこで実行犯の一人が拳銃を取り出し、一発を威嚇射撃として天井に向けて撃った。しかし、千草はそれで止まることは無く、美涼の近くにいた男に飛び掛かって、胸の中央にメスを突き立てた。
肋骨に阻まれたそれが折れると、千草はその男の首を絞めながら頭突きを繰り出した。が、拳銃を構えた男が発砲。銃声は二回轟いた。
千草は左足の太腿に銃弾を受け、人生で経験したことがない痛みに崩れ落ちた。
――そう、功牙は「君たちはまだ拳銃の恐ろしさが身に染みていないのだろうけど」という言葉を飲み込んでいたが。
――実は全員が過去のうちに、千草を通してその恐ろしさを強く認識していたのだった。
エドガーと蓮が我に返り、行動することができたのはそこからだった。エドガーは拳銃の男に掴みかかり、銃を押さえながら相手の腹部や股間を膝で蹴ろうとした。しかし、相手は大の大人だ。すぐに振りほどかれ、足蹴にされてしまった。
蓮は千草の首絞めから解放されていた男に接近し、首を正面から殴りつけることで気絶させると、その場に落ちていたおぞましい拷問器具を拾い上げた。
持ち手のトリガーを握ることで先端がモノを掴むように閉じるそれを強く握りしめ、剣のように振り回し、取り囲む二人の男を無力化した。
残るは二人。片方はエドガーを足蹴に、拳銃を蓮に向けてにやりと笑んだ――。
そこで、準備を整えたエリナの≪クラフトアークス≫が放たれる。部屋中に飛び散らせた≪クローズドウォーター≫のうち、自分の方を振り返った、拳銃の男の目に張り付いた部分を固定化し、青く光らせることで目潰しとした。
どこぞのアニマであれば≪カラーバレット≫などと名付けていそうなそれを熱すれば、実行犯の目を焼くこともできただろう。しかし、温厚なエリナにはそんな手段は思いつかなかったのか。
だからこそ代わりに、強く、どこまでも強く光らせること意識したのだが。結果的に、拳銃の男の視覚には重い障害が残った。ざまあみやがれだが。
残った一人は、後がないことを知って焦りを覚えたのか。手にしていた拷問器具をエリナに向けて投げつけた。別の男への目潰しへと集中していたエリナは頭部にそれを受け、崩れ落ちた。
最後の一人である男と、拷問器具を持つ蓮が向かい合った。蓮は男二人を同時に相手にした際に無理な動きをしたのか、右腕が折れていた。
力が入らずに頼りなく開いた拷問器具の先端を見て、左手に持ち替えるも、その佇まいは心もとない。
それを見て下卑た笑みを浮かべた男は、床に散乱していたガラスの破片やメスなどの道具を、爪先で巻き上げた。
駄目になった右腕で己の顔を庇いつつ、手術台に固定された美涼と敦也を庇うように左に跳んだあと、もう次に同じことはさせまいと、男へと飛び掛かった蓮。
しかし、その左手にはガラスの破片が深々と突き刺さっていた。腹部に蹴りを入れられ、吹き飛んで転がる蓮。
拳銃の男の下から這い出たエドガーが、男に背後からタックルを仕掛けた。前方へと叩きつけられるはずだった男だが、敦也が寝させられた手術台が目の前にあった。それに手をつくことで勢いを殺すと、そのまま背中でエドガーを押し、右足で蹴りを放つ。
エドガーの身体は壁際の棚に叩きつけられ、倒れた後、薬品の容器がその上に落ちてきた。手術室の内部故に、それほど危険な劇物を被ることにならなかったのは幸いだった。
最後に残った男は、何も偶然から目潰しを受けなかった訳ではない。拷問器具を手にしていた訳でもない、当時は――今でもだが――高級な機械であるビデオカメラを使って撮影を担当していた男は……脅迫映像の監督、実行犯たちのリーダーだった。
崩れ落ちた少年少女たち。落としてしまっていたビデオカメラを拾い上げ、男は嗤いながら、悲惨な様子の手術室内を撮って回った。
各々の大立ち回りに加えて度重なる拳銃の発砲もあり、リーダーである男自身も聴覚が馬鹿になっていた。
だが、そんなことは意にも介さず、男は「あんたたちの子供、優秀だしめちゃくちゃ頑張ってくれたけど、それでも負けちゃったよ」と。
ビデオの向こう側で、いつかこれを見るだろう蛍光院ら重鎮の姿を思い浮かべ、男は嗤った。
――そしてそれら全てを、手術台の上で拘束されていた美涼と敦也の二人は、ただ見ていることしかできなかった。
頭部まで固定されていたために、大部分は目にすることすらできなかったが。怒号に悲鳴、血の臭いに、聴覚が一時的に麻痺するほどの轟音。
大粒の涙を零す二人がひたすらに感じるは、絶望。
リーダーの男が、ビデオカメラを左手に、右手には床から拾い上げた拷問器具を。
戦いの中で血塗れになったそれで目玉を抉られることは、感染症などのリスクを考えるまでもなく、酷くおぞましいもので。
美涼と敦也の両者が失禁してしまったことは、誰にも馬鹿にすることはできないだろう。
そして男が持っていたカメラの映像は最後に、敦也に向けて拷問器具が向けられたところで止まる。
太腿からだらだらと血を流した千草が、四足歩行の獣のような格好で、美涼の上に乗っていた。
かと思えば手術台を強く蹴り、流れ落ちる血を掬うように溜めていた両手を、真っすぐに突き出した。
男は冷静だった。それ故に、高価であるビデオカメラを失うことをつい恐れ、左腕を庇うように外側へと向けてしまっていた。
右腕が握る開かれた拷問器具も、振り回す為の武器として即座に認識することは、大人だからこそ発想しづらい。
結果、千草の血にまみれた両手が、男の両目に血液を塗りたくった。
怒号を上げて仰け反り、壁に背中を預けた男。捨て身で飛び出した千草の身体は、兄の身体に覆いかぶさるような形となっていた。
すぐに動こうとしたものの、出血によって痙攣し、その場で項垂れる千草。
リーダーの男は目が見えないなりにビデオカメラを腰のポーチに突っ込むと、左手を彷徨わせ、手探りで千草を探す。
その身体に到達し、念のため周囲もまさぐり、それが敦也ではないことを確信すると。
――こいつなら、まだ殺しても構わない方だ。
「曙の妹。その蛮勇を誇りながら死ねッ!!」
自分たちに逆らったことに対する、見せしめだ。まずお前の首を、親共に送り付けてやる。
自らの耳にも聴こえない叫びを上げながら、男は左手で髪を掴んだ千草の後頭部に向けて、右手の拷問器具を振り下ろした。
――が、それが千草の頭部を捉えることはなかった。
というより、もし捉えていれば、千草は現在、幼馴染たちに囲まれて笑っていないだろう。
「――あのさァ」
廃病院に住み着いた幽霊のような。
ひび割れたような、女の声だった。
男の振り下ろした右腕は。いや、千草の髪を掴んでいた左腕もまた。腕全体を覆うほどの、真紅の膜のようなものに覆われていて。
それが伸びてきている方向……聴覚が封じられているにも関わらず、声がした方向を向くことができたのは、男の鍛錬の成せる技だろうか。
「お前さァ」
それでも、もう。
「人のねぐらでドンパチドンパチ。拳銃なんかぶっ放してくれちゃって、さァ」
その状況から、男が生き残る可能性は。
「そんでやってることが子供の拷問たァよォ……」
万に一つも無かった。
「――随分と目覚めが悪ィじゃねェかよォォォォ!!」
謎の力に引き寄せられる男。その腹部に何かが叩きつけられ、衝撃で胴体内部の骨がバラバラに砕けた。
それだけで終わるはずもない。
子供たちを巻き込まないようにする意図があったのかは定かでないが、男の身体は手術室から引っ張り出され、廊下へと転がった。
最早声にもならない音を垂れ流すだけの顎。そこを蹴り上げられた時点で男は頸椎を損傷し、まともな生命活動を奪われていた。
吹き飛んだ男の足首を掴むと、物言わぬ人形となったそれを振り回し、人体の中身をぶち撒けさせながら、女は廊下の壁に穴を空けた。
溜まったストレスを解消するように人形を痛めつけた後、床に落ちたそのボロクズを冷めた目で見下ろすと、彼女が持つ≪クラフトアークス≫を噴出させる。
紅蓮の炎を思わせるそれがボロクズを包み込んだ後、女が振り返って指を鳴らすと。
ボロクズが、激しい音を立てて炎上した。
一瞬にして熱されたことで、内部にある骨が砕け。かろうじて無事だった内臓、その内部のガスに引火する形で弾けたのか。
だが、その際に飛び散った血も。
いや、それまでに飛び散り続けていたはずの男の血も。
その女の身体は、一切浴びていなかった。
薄く自らを≪クラフトアークス≫で覆っていた女は、それを解除すると共に、ケタケタ、と。
嗤った。
ケタケタ、ケタケタケタケタ。
――遠くから響いてくるその嗤い声だけを、拘束された状態で美涼と敦也は聴いていた。
やがて嗤い声が止むと、手術室の中にその女が入ってくる。
再び恐怖に身を竦ませた二人だったが、一応はその人物が助けてくれた形になっていることは理解していた。
「ごめんなさいね。わたくしも、怖い思いをさせた原因ですわよね」
本当に先ほどまでと同一人物なのか疑いたくなる、柔らかい声色だった。相変わらず、しばらく水を飲んでいない喉かのように、ひび割れてはいたが。
目を見開いて、その人物の顔を見上げる美涼と敦也。
女の声をしたそれは、フードを目深に被り、顔を晒さないようにしていた。
顔を知られてはまずい事情があるのだろう、その時点で二人は、「この人の素性を詮索してはならない」と直感した。
女はどのようにしてか――単純に怪力なのかもしれない――美涼と敦也の拘束を引きちぎり、猿轡を外した。
猿轡は、後ろで結ばれていた部分だけが焼け落ちたかのように二人の胸へと落下した。如何にして火を起こしたのか、それが二人の髪や肌を焼くことはなく。
「わたくしは……訳あって本名の全ては明かせないの。モトシロ、とだけ言っておくわ。……あなたたちが救出されたら、炎を操るモトシロという女は誘拐犯一味ではなく、助けてくれた側だと。それだけ親御さんたちに伝えてくださるかしら?」
女はそう言い、美涼と敦也が首肯したことを確認すると「約束よ」と念押しした。そして敦也の上に倒れ伏していた千草を持ち上げ、壁に背中をつけるように優しく寝かせると。
その後、気絶した面々の様子を見て回り、実行犯たちの両足を砕いていった。
骨を砕かれた男たちのうち、二人は痛みに目を覚まし騒いだが、どちらも一秒も待たずに拳が飛び、再び意識を刈り取られていた。
その鮮やかとも言えるやり方に、敦也は震えながらも感服した。
美涼もまた、その人物が取り繕うようにして使い始めた、しかしその割には堂に入った丁寧な言葉遣いに憧憬の念を抱いた。
その人物が手術室を去った後、我に返った美涼と敦也が、千草をはじめとした幼馴染の怪我の様子を確認した時には。
――既に、全員の出血が止まっていた。
傷口からはガラス片などが抜かれ、まるで初めから包帯で圧迫されていたかのように。
水竜メロアが語るところの、金竜ドールという龍がこのイェス大陸に働きかけ、現代を生きる人間たちの身体は昔よりも優れた性能をしているのだと言うが、それにしても。
千草が受けた銃弾による傷が、僅かな痕だけを残して消え失せているというのは、見るからに異常だった。
その身体にべったりと付いていた血液すらも、気が付けば綺麗さっぱり消えている。
千草という少女に、元々そのような力が備わっていたはずもない。
あの謎の女性が処置してくれたのだ。
その後、廃病院の屋上から、天高く炎の柱が伸びていることが近隣住民によって確認された。
通報を受けて駆け付けたオールブライト家の私兵と保安官が共同で立ち入り、子供たちは無事に発見、保護された……という流れである。
捜索隊が屋上に出た際には既に炎は消えていて、そこには人間がいた痕跡など、影も形も無かった。あるのは錆びたゴミと、染みついた汚れだけだった。
救出された子供たちが落ち着き次第、大人たちは彼らから話を聞いた。
事情聴取と言うよりは、ショッキングな出来事に遭ってしまった子供たちをケアするための、カウンセリングやセラピーにあたるものだった。
それが始まる以前から、実行犯の男たちには尋問と共に拷問が開始されたが……腕や眼などに後遺症を負った上、全員が両足の骨を砕かれていたため、拷問するまでもなく苦しんでいた。
結局、より上位の人物との連絡方法を持っていたであろうリーダーの男が死亡してしまっている以上、大した情報を引き出すこともできず。
一週間ほどが経過した後、実行犯の男たちは全員が処刑された。
最後の尋問と処刑は水竜メロアその人によって行われていたため、それ以上の情報を引き出すことはこの国の誰にも不可能だっただろう。
誇り高き龍であるメロアは、必要以上に罪人を苦しませることなく、むしろ既に苦しみのうちにある彼らを解放するように、苦痛の無い手段で瞬間的に命を奪ったという。
もっとも、メロアは後で「もっと苦しめて殺せばよかったな。あの子たちが受けた苦痛を思えば」とダリに語っているが、それは蓮たちが知る由もない。
騒動が落ち着き始めた頃合いを見計らって、モトシロと名乗ったその人物について、蛍光院は正式な書簡を出し、アラロマフ・ドール国の本代家に確認を取った。
しかし、本代からは。
「現在も当時も、国外にて活動している本代家の人間は存在しない。件の人物は、何らかの理由で本代の名を騙っただけであろう」との公式見解が発表された。
今やアラロマフ・ドール国の名門貴族であるという本代家の人間が活躍した事件だったのかと、向こうの国でも国民たちの関心が高まっていたらしい。
その状況での発表であったため、大変残念に思う声でドール国は溢れたという。
――そうして、世間はゆっくりとその事件を忘れていった。
四華族の子供たちが大勢誘拐された事件であるが故に、完全に風化するまでには長い年月が掛かったが……少なくとも、その中でもモトシロもどきについては、既に大衆から関心が失われてしまっていた故、忘れ去られるのも早かった。
実行犯が所有していたビデオカメラもまた、熱でグズグズに溶かされたような有様で、データを復元することも叶わなかった。
実際は情報漏洩防止のためにメモリーカードまで含めて帝国が独自に使用する規格であり、メロアラントの人々では、それを再生する環境を用意することは難しかったと想定される。
モトシロとだけ名乗った女。
かつて本代・L・アーヴリルと名乗ったその悪魔のような女性による気まぐれな善行は、決して明らかにされることはない。
――ただ、現在の本代家当主の胸の内にのみ、ひっそりと仕舞われた。
敦也は思う。
(そうだ。この頃から千草は、自分の身を躊躇いなく犠牲にしてでも、仲間を助けようとしてしまう癖がある)
美涼は思う。
(どう考えても、あたしたちが深く感謝して、ちーちゃんを持ち上げすぎたのがよくなかったのよ。いや、実際今でも感謝してもし足りないくらいの気持ちだから、一生ありがとうって言い続けたいくらいだけど!)
エドガーは思う。
(皆から誉めそやされたせいで、千草にとってあの誘拐事件は“成功体験”として記憶されてしまっている。だからこいつは、何度でも命を投げ出してしまうんだ。くそ、年下に庇われ続けて……情けねえ)
エリナは瞑目する。
(千草ちゃんのそれは、決して周囲の大人からもっと褒められたいからというような、独善的な思想ではありません。それでも……)
蓮は思う。
(――人間には、人間のキャパシティがある。千草がやろうとしてしまうことは、千草の容量を遥かに超えている。そもそも、そのモトシロという女性が現れなければ、五年前も失敗に終わっていたはずなんだ)
――敦也は、右隣にいる妹を見る。
(だから、千草がまた馬鹿な真似をしようとしたら、他ならぬ俺たちが止めてやらなければならない)
――美涼もまた、右隣にいる蓮を見た。
(そんなちーちゃんが蓮を好いているんだから、全力でその恋を応援してあげたい。……うん、そうよ。それだけなんだから……)
胸に生じた微かな痛みには蓋をして、気丈に口を上向きにした。
――そして蓮もまた、右隣にいるエリナを見つめていた。
(オレが、千草を幸せにしたいんだ)
心から、申し訳ないと思いながら。
(――だからごめん、エリナ……)