第5話 水竜の神殿、メロア、ダリ……だれ?
白猿湖の中に足を踏み入れ、そのまま歩を進めていくと、ニ十歩も進まない内に身体の全てが不思議な水に沈む。
先頭を歩く敦也だが、髪や衣服が濡れることはない。
肌には少しひんやりとした感覚こそあるが、体内に流れ込もうとしてくることもなく、呼吸も問題なくできる。
悪漢を退ける際に蓮が≪クラフトアークス≫で水の防護壁を作った際も、蓮自身がそれによって濡れそぼつことはなかった。この湖に満ちるものも、それと似た性質を持っているのかもしれない。
そのまま一分ほど歩き続けると、周囲の視界は暗闇とも言っていい程の明度になっていた。
背後を見やれば幼馴染たちが付いてきていることは確認できるし、上を見上げれば水面の向こうにある明るい空の光は感じられる。ただ、その光は自分たちの周囲までを照らしてくれるほどの強さは保てていない。
むしろ、この光量で後ろの面々の姿が見えることの方が異質な気もしたが、果たしてこれは水竜メロアの優しさによるものなのだろうか?
自分以外に何もなく、仲間の姿すらも確認できなければ人は不安になるだろう、と。
いや、先に一人で進ませられた宝竜功牙という男もいたが……。
唐突に、その水のようなものを潜り抜けたのか。敦也の視界が晴れ、世界が一変する。
「――はぁっ……」
思わず息をついてから、振り返って仲間たちを待つ。
息を止めていた訳ではないし、体調を悪くしていた訳でもないのだが、やはり緊張状態にはあった。
お互いに言葉を交わすこともできただろうが、全員が不思議と無言になっていた。
(ずっとあの中にいて、あそこに慣れてしまうことが一番恐ろしい)
あの空間を抜けてみると、そう強く思う。「自分は水の中でも息が出来るし、会話もできるのだ」と脳が認識してしまうと、いざ普通の水に入った時に事故が起こりそうだ。
暗闇の中のようだった景色が開けると、そこにあったのは巨大な建造物だ。岩盤を削りだして造られたような、様々な物質が混ざり合った暗い灰色をしている。
目の前にある僅か四段の階段を上った先には広い正方形の台座があり、その向こうに水竜の神殿がそびえ立っている。
建物の高さとしては三十メートル以上ありそうだが、敦也の体感では、これだけの大きさの建物を見上げる程、湖のほとりから地下深くまで歩き続けた気はしない。
(それどころか、殆どは前に向かって移動していたはずだ。何度来ても混乱する。空間が歪んでいると言えばいいのか……)
ただ高さがあるだけの建物なら、由緒正しき華族として一時的にサンスタード帝国にも滞在したことがある敦也は、蓮などに比べれば見慣れている方だろう。
しかし、その十メートルにも達する巨大な扉は、人間界では決して見ることのないものだ。
人ならざる巨体。龍が取る、真の姿。
おとぎ話に出てくるドラゴンそのものといった――実際にはその龍によって、二足歩行だったり四足歩行だったり、外見的特徴も異なるらしいが――、竜体と呼ばれる姿のまま通り抜けることを考慮された扉。
もっとも、本当に全力を出した際の龍はこの神殿ですらも入りきらない大きさにもなれるらしく、実際、五年前に目撃された氷竜アイルバトスと炎竜ルノードの二体は、それほどまでに巨大だったらしい。
竜門と呼ばれるそれの表面には、天高く首を持ち上げた、四枚の翼を強調された一匹の竜が描かれている。そのせいで、巨大なレリーフのようにも思える。それこそが水竜メロアが語るところの上位存在、黒竜イズだという話だ。
どの龍の竜門にも、龍が自らの意思で生成した際から同じ模様が描かれているというが……黒竜イズは目立ちたがり屋か何かなのだろうか。
世界の深淵に座し、自らの存在に到達する者が現れるのをじっと待ちつつも、待つことに飽いたかのように、自らの存在に気付いて欲しいかのように存在を主張しているのか。この惑星の主とも目される存在だが、案外構ってちゃんなのだろうか。
神殿の周囲に広がる台座がある部分までは空間が空いているが、その外側は更に幻想的だ。
この湖の地下空間を埋めるように、敦也が入ってきた場所を除いた三方が、巨大な滝で覆われている。
上を見上げれば、どこまでも高い場所からその滝は流れ落ちていて、その向こうに、やはり青空があるように見える。もっとも、ここからでは白い光にしか見えないのだが。
その滝は不思議なほどゆっくりと流れているのが見て取れ、まだ、一切の音を立てない。水しぶきは大量に上がっているが、やはりそれが敦也たちの服を濡らすことはない。
身体の表面を撫でるように零れ落ちた水滴は、床へと垂れていく。足元の水かさはくるぶしまで到達しない程低く保たれていて、階段を一段でも上がれば、水から上がれるだろう。急ぎの脱出を迫られはしていないので、我先に上ろうとは思わないが。
台座の上に溜まった水は少しずつ外周へと向かって流れ、水の壁に吸収され、また巡っているのだろうか。サンスタード帝国の首都、帝都ソルヴァーチルの広場でそんな仕組みの噴水を見た記憶がある。
「ぷはーっ! やっと思いっきり息ができるぜ」
「なんか変な気分になりますよね、どうしても」
虚無の空間を抜けてきた、エドガーと千草の台詞だ。
地上よりも明かりに乏しいここでは、お互いの顔色を正確に判断することは難しい。今は地上からの微かな太陽光よりも、神殿の柱や外壁から漏れ出るような、水色の淡い光を頼りに周囲を見ている敦也たち。お互いに、目を開けているのか閉じているのかくらいは分かるが……。
「不遜ねー、あんたたち。怖いものないの?」
「ふふ、メロア様はその程度のことで怒ったりしませんよ」
美涼の声に、微笑と共に重ねられたエリナの声。あと足りないのは……蓮の声だ。
(一人だけ遅れたのか?)
あの健脚を持ってして? と敦也は怪訝な表情で。
皆が続々と姿を現した、闇色の水が覆う……この空間から隔絶されたような断面を眺めていると。
「――ごめんごめん、待たせちゃったか?」
問題なく飛び出してきた蓮だが、その息が少し上がっているようなのが気になった。
まるで、何かに時間を取られていて、しかしそれを仲間たちに気取らせないように、走ることで巻き返しを図ったような。
(……もしかして、あの虚無の空間で水竜メロアと何か話をしていたのか?)
龍が管理する領域なら、その程度のことは出来てもおかしくないと敦也は考える。その相手に自分が選ばれることがないとしても、蓮ならばあるいは、と。
蓮に対する、信頼と劣等感がない交ぜになった思考を払うように、敦也は小さく頭を振った。
「――あ、≪ミル≫じゃない! かーわいいー!」
突然美涼が高い声を出したかと思えば、神殿の方を指差しながらぴょんぴょんと跳んだ。久しぶりに年齢よりも若く見えるリアクションを見た気がするな、と敦也は思った。
仲間たちの方を振り返って手招きし、また向こうを向いた美涼。その勢いにツインテールが元気よく跳ね、階段の前で立ち止まっていた敦也の顔面をぺちっと打った。
美涼と敦也には十センチほどの身長差があるが、階段も手伝っての奇跡的な事故だった。
「……っ、……」
――まぁ、本人が気づいていないのなら無言で我慢してやるさ、と思った敦也の視線の先で、元気よく階段を上り切った美涼に、件の≪ミル≫の方から飛びついてきた。
「クウ!」
高めの鳴き声は、友好的な証だ。
その≪ミル≫を抱き上げ、白い毛皮に頬ずりするようにしながら、「神殿の外にも出てくるのねっ!」と美涼。その≪ミル≫は殆どが毛で覆われた、実際は見た目よりもずっと細い尻尾をぶんぶんと振った。喜んでいるのが見て取れる。
「わたしたちのことをお出迎えしてくれたんですかね?」「この子の名前はカラテアですね。女の子ですよ」と、こちらも嬉しそうに、その≪ミル≫を囲うように集まる千草とエリナ。
「カラテアちゃん~。あたしの家に来まちぇんか~?」
「あ、美涼姉ずるい。――あぁっ、向こうに≪ミル≫の赤ちゃんがっ!」
まるで未確認飛行物体の存在を示唆することで相手の注意を逸らす、漫画などにおける伝統的手法だな……とエドガーなどは思ったが、まぁ、それに比べれば≪ミル≫の赤ちゃんは実在が確定している訳だし、騙されるのも仕方ないのかもしれない。
「――ええっ! どこどこ!? っていうか赤ちゃんの子育ては別の場所でやってるんじゃないの!? ――あぁっ!」
美涼が頭をぐいっと回した瞬間に、千草はカラテアの頭を右手で撫でながら、左手を差し出していた。カラテアは美涼の腕の中からするりと抜け、千草の腕を通って肩の上に乗っかった。木登りが得意な生物なので、人間が支えてやらなくても落下する心配はない。
それより、体長一メートルもないくらいの個体ではあるが、重くはないのだろうか、と敦也は妹の肩と首を案じた。
「へへーん、独り占めは厳禁ですよ、美涼姉っ」
「ちーちゃ……千草ぁ! 返しなさーい! あたしのカラテアちゃんをっ!」
「……いえ、あの、お二方? ここで保護されている神獣なので……」
まるで荒ぶる獣を抑えようとするように、どうどう、両手で宙を抑えるように動かしながら美涼と千草に近寄るエリナ。
そんな、きゃっきゃと姦しい女子たちを見ていたエドガーが、蓮に向けてちょいちょいと手招きするような仕草をしてみせたかと思えば、
「――確かに可愛いもんだな。まっ、美涼お嬢様の可愛さには負けるけどな?」
と、軽薄な笑みを浮かべながら言った。
褒められた当の美涼は一瞬呆気に取られて千草との戦いを中断するも、「え、えぇ? あぁ……ありがとう」と返答し終えたあたりで、合点がいったような顔になる。
「ふん。神獣ごとき、千草には遠く及ばないがな」
が、敦也のその言葉を受けて目玉を引ん剝くと、敦也に走り寄って、みぞおちに左の拳を突き入れた。
「がはっ……」
「――あんたがちーちゃんを褒めてどうすんのよっ!」
殴った後に、敦也にだけ聴こえるよう、小声での叱責だ。
敦也は美涼の拳を左手で受け止めていたが、それでも衝撃は貫通してきたらしい。
それを見ていた蓮も、飲み込めないなりに状況を把握しようと努めた後、「エリーも綺麗だよ」と己の婚約者を褒めた。「ありがとうございます?」と、首を傾げながら返したエリナ。
――どうやらエドガーと美涼は、蓮に千草を褒めるムーブをさせたかったらしい。
(一瞬でそこまで判断できるか馬鹿野郎がっ!)
敦也は心中で叫んだ。
むせび泣くような表情で肩を落とした敦也の傍に千草が歩いてきて、
「……えっと、兄さん……ありがとう?」
あまり直接的に褒める言葉を兄からもらうこともないので、千草は感謝の言葉を素直に言えず、疑問符をつける形にはなってしまったが……嬉しそうではあった。
「クル?」
千草の腕の中から首をもたげ、敦也の肩に両の前脚を置きながら鳴いたカラテア。
元気出せよ? とでも言いたげな仕草だった。愛らしい瞳に見つめられ怯んだあと、敦也は小さく「行かねえよ」と零した。
いや、別に「来る?」と誘われた訳ではないだろうが。そして、どこにだ。神殿の内部には行くだろう。
――その後、カラテアに向けて伸ばした手を払われ、蓮がショックを受けるシーンがあった。
やはり神明家の息子は≪ミル≫に嫌われているらしい。同族の密売という汚職に手を染めたのは父親であって蓮ではないのだが、まぁそれを神獣に説いても仕方がないだろう。
敦也は、蓮にもできないことがあるのだと知ると、少しだけすっきりしたのだった。
神殿の内部に立ち入った敦也たちの目に飛び込んできたのは、その広い空間を窮屈にすら感じさせる、視界に入りきらないほどの大きさを誇るドラゴン……ではなかった。
敦也は千草と共に一度だけ、試しにと竜体を見せてもらったことがある。他の面々も似たようなものだろう。
彼女は余所の国からの客に対し、自らが語る世界についての話を証明するために、龍としての力の一端を見せることを厭わない。
当然、その際も力を無駄に浪費することは極力避けているため、あまり大きなドラゴンの姿にはならないものだが。
今日のように、己の力を誇示する必要もない相手に対しては、彼女は平常通り……というより、どちらかといえば気の抜けたような、だらしない恰好でお出迎えしてくれることが多かった。
神殿の内部には、前方に向けて緩やかな階段がある。その上に敷かれた赤絨毯を辿るように視線を上げてみれば、大の男が二人で寝転がってもお互いが触れないほどに広々とした寝台が、横向きに置かれている。
そこに身体を横にして寝そべり、左の肘をつくように手のひらで頭部を支えている、妙齢の女性……のように見える。
天上から降りる、木漏れ日のような柔らかい光に照らされ……敦也よりも僅かに高いほどの長身は、まるで芸術のように細く美しい。清流人の女性に、ここまでの長身は通常存在しない。
陶器のように白い肌。蒼く長い髪が寝台に垂れ、そこから水が滴っているのか。神殿内部にも薄く張られたような水が足元を流れているが、これもまた、敦也たちを濡らすことはない。
恐らく、この神から流れ出るこの水のようなものも、外の空間に満ちていた“虚無の水”と言うべきものと同一なのだろうと思われた。
幸いにもというべきか、きちんと服をお召しになってあらせられるため、下々の者が神の肌を直接目にしてしまうことはない。
水を放つ性質をしていることと関係しているのかは分からないが、まるでバスローブのようなものを着用している。もっとも、タオルのように柔毛質をしている訳ではない。シルク製だろうか。
己が放出する水で濡れる訳でもなし、吸水性は必要ないということだろう。
だらしないとも言える恰好と共にはだけたバスローブだが、そこから見えるのは素肌ではない。全身を覆う、暗褐色のボディスーツのようなものを着用しているらしい。「クルル」と鳴いたカラテアが千草を離れ、彼女の前で丸くなる。
その神獣の子を撫でながら、
『――やぁ、よく来たね、我が子供たちよ。今日は我の気まぐれに付き合ってもらってすまないね』
清流人の心にビリビリと響く、鈴を転がすような声が響き、彼ら彼女らの視線は瞬間、釘付けになった。
脳内に直接響く声……≪クラフトアークス≫の才能を通して伝わるというその念話を、自らの意思で拒むことは不可能だ。
彼女こそが。
このメロアラントを治める王にして、神。
人間を守護し導く、“この世の真実を語る龍”。
――水竜メロア。
だが、そのメロアから目が離せないはずの状態であっても。今も視界の隅に映り続けている、もう一つの強大な存在の方が敦也は気になった。
他の面々もそうだったのだろう。水竜メロアに注目しなければならない場面だと頭では分かっているのに、視線は勝手にそちらへと吸い寄せられる。
当然ながら、宝竜功牙のことではない。功牙はメロアが寝そべる寝台の左側に片膝をついている。
それは、反対側。寝台に向かって右に在った。
(ネグロイド……か? いや、だがそれにしては髪が……)
メロアラントの東方の隣国、古代文明人の末裔が暮らすレピアトラ国。そこにおける民族的な衣装……薄く丈が長い、色違いのローブを何段にも重ねて着ているような出で立ち。
それに身を包み、メロアよりは低いものの、それでも高い身長を誇るように在り、それ自体がまるで燦然と輝いているような威光を発している。
首元と頭部を覆うように赤い布を巻いているが、完全に隠す意思は感じられず、髪も肌も露わになっている。
何より目を引くのは褐色の肌。暗黒大陸に暮らすという、ネグロイドと呼ばれる暗褐色の魔人たちのイメージが先行するが、縮毛でなく、特徴的な角も見られないのならば違うのか。いや、頭部に巻いてある布でも覆えるほどに、角が小さいだけかもしれないが。
薄い金の髪に、赤い瞳。全てがちぐはぐとも言える外見的特徴ながら。
黄金色の錫杖を右手に持ち、床へと突き立てているその少女を見て、敦也は美しいと感じた。
(……何を考えているんだ、俺は! ……いや、俺の心にすら容易く入り込む、あの存在はなんだ)
水竜メロアという彼らの神と並び立つことで、否応なしに引き立ち、明らかになることもある。
その褐色肌の少女は、ある面ではメロアをも超える才能を持つ存在だと。
そこまでを肌で感じた時点で、敦也の脳裏には答えが導き出されていた。
(…………こっちも神か…………!)
ちらちらと向けられる視線たちを億劫そうに……いや、あるいは恥じらっているのか。
『おまえたちの主が声を掛けているというに。返事もせずにダリをじろじろとねめつけるとは。教育がなっていないであるな』
顔を向こう側へと逸らしながら、ぼそぼそと念話を放った少女。
そう、客人ではない。水竜メロアを隣にして平然と立つことを許されているその存在が、ただの少女であるはずがない。
(か、かわ……げふんげふん。――違う、俺は何も考えてはいない。何も感じてはいない)
敦也はひっそりと己の太腿をつねった。
――それが敦也たち幼馴染組と、ダリと名乗る不思議な龍のファーストコンタクトだった。