第4話 蛍光院美涼とエドガー・オールブライト、敦也から蓮へのクソデカ感情
水竜の神殿は、蛍光院領の中心部……神明家が代々管理する、白猿湖と呼ばれる大きな湖の中にある。
湖の名前の由来は、かつてはそこに、国民から神聖視されている生物……神獣≪ミル≫が沢山棲んでいたことから。
白い毛皮に覆われた体に、イヌ科を連想させる突き出した鼻を持つ四足歩行の生物だが、必要があれば両前脚を手のように扱い、ものを掴むこともできる。成人の腰ほどまでしかない大きさも、穏やかな性質も、人々に好かれた理由だろう。空気を含み、水を弾く毛の助けもあってかすいすいと泳げる上に、木登りも得意だ。
国家に保全された生物として、表向きには個人用の愛玩動物として扱うことは禁止されていたが……。
財政難に陥った当代の神明家の当主、堅――蓮の父親だ――が密猟者と協力し、≪ミル≫の密売に手を染めて以降。
≪ミル≫はどのようにしてかそれを察知したように、神明家をはじめとした人々を避けるようになった。五年前に水竜メロアが目覚め、神殿が開放されてからは、隠れるようにその内部で生活するようになった。かつて、神明家にもう一人いた男児とは、あれだけ仲良くしていたというのに……。
幸いにして、メロアがこの国にもたらした恵みによって、堅が悪時に手を染める必要も無くなった訳だが……メロアはその件で、堅と神明家を罰することは無かった。
「長らくこの国の統治を人に任せ、眠りにつくことを決めたのは我自身だ。その結果国が困窮し、我の一部である≪ミル≫の命が、人間が生き残る為に使われたというなら、それは仕方なきこと」
水竜メロアはそう言い、落ち目の神明家や宝竜家に救いの手を差し伸べるように、重用し始めたという。
(本当に≪ミル≫がメロア様の一部なんだとしたら、神さまの身体を切り売りしたことになるし、それはヤバすぎるだろ)
恐らくは比喩表現だと蓮は考えているが、それはそれで感情を持つ生き物である≪ミル≫一体一体の唯一性が蔑ろにされているというか、人権がないみたいで可哀想だ。
しかし、相手は天上の存在である龍なのだ。
自らが新たな種族を創出することなど一生ない、ただの人間である蓮にとっては、理解できなくて当然なのかもしれない。
(清流人は東陽人がメロア様によって力を与えられた人種だって話だけど。もしそうじゃなくて、メロア様が一から創った種族だったら、場合によっては道具のように使い潰されてたのかな)
五年前の≪氷炎戦争≫にて。アラロマフ・ドールにおける決戦の際、己が創出した種族であるアニマ達を力で隷属させ、使い潰したという炎竜ルノードのように。
遥か太古の神話では、神と一口に言っても様々な性格を持つ者たちがおり、場合によっては気まぐれで人間を滅ぼすこともあったという。
絶対に怒りを買うことはしたくないな、と蓮はその身を震わせた。
蓮にとっては絶対的な強者である功牙もそういう意味ではちゃんと人間なのか、緊張した面持ちで白猿湖へと歩を進めていく。
まず先に、功牙一人だけでメロアに謁見するらしい。
メロアと功牙の間には“パス”が結ばれており、それを通して脳内に直接メッセージを送れるのだとか。
もちろんただ便利なだけでなく色々と制限はあり、どんな距離でも届く訳ではないとか、体力を消耗するだとか、場合によっては≪クラフトアークス≫を使える部外者に盗み聞きされてしまったりするのだという。
なので、配下の者を呼びつける際などに使用し、大切な長話は神殿内部で直接するというのが通例だ。
また、功牙が“パス”を結ぶことが出来たのは、功牙自身……というよりは宝竜一族の血に、水竜メロアの力が大きく受け継がれているためらしい。
功牙が水に足を浸けると、それはゆっくりと水中へと沈み込んだが、一息に水の底を踏むことはない。
まるで魔法の力に支えられたように、前へと歩を進める功牙の身体は、ゆっくり、ゆっくりと湖の中に沈んでいく。一体何を踏みしめているというのだろうか。
この湖は水位が下がることも、増水して氾濫することもない。水竜メロアの不思議な力によって制御された、水によく似た何かだと蓮は考えている。
水竜の神殿にたどり着く前にこれを通り抜けさせることによって、メロアは相手が自分にとって敵か味方か、怪しいものを所持してはいないかなどを検閲しているのではないだろうか?
その中には魚をはじめとした生態系も確認できるが……幸か不幸か、不遜にも神が眠る湖で釣りを楽しめるような、心臓に毛の生えた人物が現れたことはない。
ここにある自然の恵みに手を出しても許されるのは、それこそ≪ミル≫くらいのものだろう。
湖のほとりで、ついに頭部までが完全に水に浸かった功牙をどきどきしながら見つめていた蓮。楽観的な千草に、最も水竜メロアの相手をすることに慣れているだろうエリナは平常心かもしれないが。
(問題なく息が出来るって分かってても、あれの中に沈んでいくのも、他人が沈んでいくのを見るのも怖いなぁ)
蓮は泳ぎが苦手な訳ではないが、木剣を二本ぶら下げた状態では普段通りに泳ぐことは難しいだろう。場合によっては捨てることを余儀なくされる。
などと考えていられる程度には、蓮は師匠によって精神を滅多打ちにされたショックから立ち直っていた。蓮よりも更に酷い状態だった千草もいるが、エリナの支えもあってこちらも立ち直りが早かった。ことが済んだ後に素早く精神を切り替えられるところが、功牙が最も評価している部分かもしれなかった。
――そこで、後ろから数人の人間が歩いてくる気配がして、蓮は振り返る。
数時間前に模擬戦を繰り広げた相手である敦也に、同じく幼馴染である美涼とエドガーだった。
蛍光院美涼は、当代の蛍光院当主の元に生まれた長女だ。
水色の髪をツインテールにしている。その目は碧眼であり、メロアラントの象徴として実に相応しい。
少しやせ気味だが、高めの身長をはじめとしてスタイルは良く、学園に存在するらしいファンクラブの会員は、エリナや千草のものに大差をつけ、三桁に突入して久しい……らしい。もちろん、四家の中で最も他国から家柄を高く評価されていることも、その人気の一端だろうが。
蛍光院家の後継ぎは、彼女の兄である蛍光院勇夏となる。
彼女は気ままに学園生活を送りつつ芸術の才能を磨き、“美涼さま派閥”と呼ばれるお嬢様グループを率いているのだと、蓮は千草からたまに聴いている。
千草も一応は“美涼さま派閥”に所属しているものと大多数からは認識されているらしく、時折その集団に混じって「おほほ」などと言っているのだとか。いや、蓮の前でもたまに言うが。
百嬢夜行を率いる当の本人、ヌシ・お嬢様であるところの美涼自身が、あまりお嬢様言葉を使っている印象がないのだが……蓮が見ていないところではお嬢様モードを使って気炎万丈しているのだろうか?
参考までに、≪キューティ★千草たん★ファンクラブ≫の会員数は三十名を超える。千草を好いている全員がその好意を表明している訳ではないので隠れファンも存在するだろうが、少なくとも高等部の会員は、全員が先ほどの模擬戦に見学に来ていた。
敦也と蓮の試合に、千草が現れないはずがないためだ。
中等部にも四華族の息女たちのファンクラブがあるのかは不明だが、先ほどの模擬戦の際に中等部の学生が少なかったことを考えると、存在しないのかもしれない。
ちなみに、リンドホルム学園は「リンドホルム学園高等教育学校」という正式名称ではあるが、「高等教育まで扱う」という意味であり、中等教育と初等教育も行っている。
中等部、初等部共に校舎はそれぞれ別となるため、学園の廊下で頻繁にすれ違うような事態にはならないが。
一部の部活動やクラブ活動では、積極的に初等部などの年下と関わる高等部生もいるらしい。
リンドホルム学園が設立された段階で、蓮たちは既に年齢的には高等部生に達していたし、名家故の自宅学習により学力も問題なかった。そのため、自分たちが四つや五つ年上の学生から指導を受ける機会もなかった。
エドガー・オールブライトは、帝国方面の隣国である、イーストシェイド公国に面したオールブライト家の次男坊にして、養子だ。
見た者に落ち着いた印象を与える、真ん中から分けられた髪だが、燃えるような赤色をしているせいで、落ち着いた印象は相殺される。
百八十センチある敦也に迫るほど背が高く、年齢も蓮たちの一つ上(千草にとっては二つ上)だが、やせ型であることに加えてその性格もあってか、他人に威圧感を与えることはない。
デル人の血が見て取れる赤毛に翠眼だが、養子とはいえ、オールブライトの血を引いていることは確からしい。
何代か前にデルに移り住んだ一族の者に不幸が起こり、本家に引き取られた形だ。
彼だけは既にリンドホルム学園を卒業しているため、そこに教員補助として在籍し続けてはいるものの、制服は着用していない。
オールブライト家を象徴する、灰色から白へと移り変わっていく儀礼服を身に付けている。金色の刺繡があしらわれたそれは、他の者たちの制服よりもずっと値が張ることは想像に難くない。
蓮などは「ああいう服を着てると、汚したくない余りに戦闘の勘が鈍りそうだ」と考えていた。
ちなみに敦也は曙本家の長男ではあるが、父親である現当主が、次の当主を年の離れた弟に任せたがっているため、継承権をほぼ失っている。
結果、彼らは全員が、それぞれの家の後継ぎではないことになる。それによるシンパシーと、年齢が近かったこともあって、彼らは意気投合したのだろう。
「よっ、お三方。湖をしばらく眺めてるとイベントでも発生するのか?」
サブカルに造詣が深いのか、漫画やゲームに準えて、挨拶がてら茶化して来るエドガー。
漫画はともかく、遊ぶためには電力を必要とするビデオゲームの類は、ただの庶民には手が出ない。殆どの子供たちが語る“ゲームの知識”は、それを扱った漫画や小説による、間接的なものである。
「音楽こそ鳴らなかったけど、エドたちが来るイベントはこうして発生したじゃんか」
もっとも、蓮はエドガーに誘われてオールブライト家でビデオゲームに興じることが多々あるため、そうしたネタにもついていくことが可能だ。エリナは全く理解できないという顔をしているが。
師匠である功牙は「やり過ぎて目を悪くするのはダメだけど、楽しく反射神経を鍛えられるから、アクションゲームはある程度やっておくといい」と言っていた。
最新作の死にゲーも蓮は大層楽しんだ。ゲームデータを作る際、自分の分身となるキャラクターの職業を最初に選ぶことになり、それによって序盤に使える武器や防具、魔法などが変わってくる。初めから物理攻撃に対して高い防御効果を発揮する盾を持っている職業を選ぶのが安定だというのが通説だ。
蓮の場合は、毎回新作が出るごとに、最初は神官系の職業で開始すると決めている。どうしてそうなったのかは本人もよく分からない。現実では剣を振るっている分、ゲームの世界ではメイスを振り回してみたくなったのだろうか?
別に何日もオールブライト家に泊りがけでプレイする訳でもなし、蓮は視力もいいままだ。ゲームのやりすぎとは無縁であろう。ただ、蓮のプレイ頻度では高難易度の死にゲーをゲームクリアまで進めるのは難しいため、何度も最初から始めることで、色んな職業を試すように遊んでいる。
そして、いつの間にかエドガーに勝手にデータを進められていたりして、その度にちょっとキレる。それでまた新しくデータを作り、序盤のボスを倒すことだけ無駄に上達していく。最初に倒すまでには何度も負け、一時間も掛かっていたボスが、今では十分も掛からずに終わる。短い時間に連続で攻撃を叩き込むことで大きなダウンを取ることができ、飛躍的に討伐タイムを短縮できることも要因だろう。いつまでゲームの解説してんだ。
「その様子だと、蓮も千草も大丈夫そうだな!」
「どこも怪我してないって聞いてたんだろ? ……まぁ、相手に大怪我させすぎて、師匠にはこっぴどく怒られたんだけど」
「あー……まじか。そこら辺、詳しく聞かせてくれよ」
エドガーと蓮が話し込んでいる横で、敦也と美涼が千草を囲んでいた。
「……どこも異常はないらしいな」
「いや、兄さん。丁度横でせんぱいが問題ないって言ってるじゃん」
正面からだけでは飽き足らず、裏に回って確認する過保護な兄に、千草は呆れ顔になる。
「皆それだけちーちゃんのことが大切なのよ」
そう言いながら、美涼は千草の左側に立って、左腕を握り……それから腰へと手を伸ばし、つねるように揉んだ。
「――んぎゃっ! なにするんですかっ!」
「いや、少し痩せたんじゃないかと思ったのよ。あんた、減量しすぎじゃない?」
「痩せられる波が来てるうちに痩せ溜めしておくんですよっ。わたしは美涼姉と違って食べたら普通に太るタイプなんでっ!」
心配した様子の美涼に顔を赤くして噛みつき返すと、千草はエリナの背中に隠れるように移動した。
頭にハテナマークを浮かべながらも、一応千草の意思に従うようにと、エリナが右手を軽く上げて、美涼から背後の千草を庇うようにした。
「――くすっ。そこまでしなくても、別にどこまでも追いかけまわしはしないわよ」
噴きだしながら言う美涼。
前年に卒業していたエドガーを除く幼馴染の五人は、一週間後に始まる旅を控え、既に学園では試験を突破して卒業資格を取得、晴れて自由登校の期間となっていた。
余談だが、周囲より一つ年下であるにも関わらず試験に一発合格しているあたり、千草の人並外れた優秀さが分かる。自習の量が人とは違うのかもしれない。
美涼はメロアラントの最西端、オールブライト領でお見合いをするために二ヶ月ほど蛍光院領を空けていたので、幼馴染たちに会うのも久しぶりなのだ。
相変わらず千草は可愛らしく、エリナに懐いていることも確認できたのが嬉しいらしい。
――三年前に蓮とエリナの婚約が発表された時は、今後この幼馴染六人の関係がどうなるのかと不安に思うほど、一時期は荒れに荒れたからだ。
「まぁ傍にいるならずっと撫でまわしたいくらいだけど」と美涼が付け加えながら宙をわしゃわしゃと撫でるジェスチャーをしたことで、エリナの後ろから顔を出していた千草が完全に引っ込んだ。
敦也が左手を顎に当てて、
「悪党どもは、サンスタード帝国の差し金なのか?」
と話題を転換した。
「片方はもろに帝国人って感じの見た目だったから、その可能性は高いと思う」
蓮が答えると、敦也は唸った。それは別に蓮に対して恨みを募らせているためではないだろう。
「となると、あの時の誘拐犯どもとバックにいる連中は同じか……」
過去の苦い記憶を思い出したように、敦也は右手を強く握りしめていた。
「まぁ、メロア様に呼ばれたのには、それに関しての話をするためもあるでしょうから。今ここで憶測でものを言うのはやめておきましょう」
「……あぁ」
エリナがそう、やんわりと包み込むように言うと、敦也も自然と頷いていた。
やはりこの集団では、エリナの発言には大きな力があるように見える。もっとも、蓮を自然に受け入れているあたりこの面々は互いの身分を気にしていないので、エリナの発言に価値があることに、華族であることは関係ないのだろう。
「――じゃあじゃあ、美涼姉のお見合いがどうだったのかを聞きたいなっ!」
それはある程度全員が思っていたことだったのだろうから、千草の言葉を受けて、全員がこれ幸いと美涼の方を見た。
エリナの陰から出てきた千草に向けて、「いやそれがもう酷いのなんのって」と、いつかは訊かれると思っていたのか、美涼は口を歪めると……両の掌をひっくり返し、呆れたような仕草をした。
「この歳になると、一から新しく親しい人を作るのも難しい感じがするっていうか。ま、正直相手が帝国人って時点で、色眼鏡で見ちゃうのもあるのかもしれないけど」
美涼だけでなく、この場の全員が帝国人に対して思うところがある。
「あー、わかります。ちょっとでも好きじゃないところを見つけちゃうと、即座にもういいかなってなっちゃうみたいな?」
「そうそう! ……って千草、あんたは縁談なんて受けてないでしょうね! あんな外国のゲスどもに値踏みされるような経験、あんたにはまだ早いわよっ!」
千草が同調してくれたことに一瞬喜んだあと、思い直したように騒ぎ立てながら、美涼は千草をがばっと抱きしめた。
千草の小さい身体が、長身の美涼に埋もれる。
「ぐええ、一歳しか違わないっす!? でもまぁ、そうですねぇ……結婚は、今は考えられないかなって感じです。学生寮に入ったのも、そういう……めんどいのから逃げるためもありましたし」
蓮、敦也、美涼、千草の四人――そして在学当時はエドガーも含めた五人――もが、リンドホルム学園の学生寮を利用していた。蓮と美涼に至っては学園から実家がそう遠くないにも関わらず。エリナだけは実家であるリヴィングストン家よりも既にメロア正教を優先する立場なため、常に水竜教会で寝泊まりしていたが。
美涼の胸の中で、言葉から冗談めかした色が薄れたことを察した美涼は、一瞬逸れた千草の視線を追う……必要は無かった。それが向けられた方向に、蓮がいるのだろうことは分かったから。
我らが愛する千草の想い人である蓮には現在、親同士が決めた婚約者であるエリナがいる。
千草の視線を追う代わりに、前方にいるエリナへと目線を向ける美涼。
(……エリー、蓮とのこと、どう解決するつもりなの? ちゃんと考えてるんでしょうね……?)
さすがにそれだけの内容をアイコンタクトで正確に伝えられる自信は無かったが、エリナにも思うところはあったのだろう。曖昧な笑顔で頷かれた。美涼はとりあえず、今はそれ以上突っ込まないことを選択する。
「そうね、あたしも許されるならまだ結婚したくないわ。というか、ほんっとに、気心の知れてないやつと上手くやっていける気がしない」
「……最悪の場合だとよ。帝国人と結婚したら、帝国側に情報を流すスパイになれ、って旦那から命令される日が来るかもしれない訳だもんな」
女子トークに混ざりづらい男子たちの中で、気合いを入れてからエドガーがそうぼそっと言うと、「あんたはほんとに、一番考えたくないことを」と美涼はぼやいた。
「あーん。もうこんなことなら例え恋愛感情が無くっても、あんたたちの中から見繕った方がましだわ。ねぇ、ちーちゃん……お兄さん貰ってもいい?」
――はぁ!? お前、何を勝手に! という顔で敦也が美涼を見た。顔の前で両手を半開きにして浮かべてるの、ちょっと外国人のオーバーリアクションっぽくてウケるな。あと、その様子を見る限りでは、照れてはいないっぽいな……と蓮は思った。
(大方、妹が幸せになるのを見届けるまでは、自分が結婚するつもりはないんだろうな)
考えたくない話ではあるが、もし曙の現当主の弟が亡くなった場合、再び敦也に継承権が回ってくる可能性もある。となれば、実際のところ、敦也が自分の結婚相手を自分で決めるのは難しいだろう。
もっとも、相手が同じ四華族である美涼であれば、家柄の格に問題はないのだが……メロアラントの名家の人間には、余所の国の血を取り入れる流れが常にあるため、親世代が敦也の相手に美涼を推すことは無さそうだった。
というより、「これぞ清流人、これぞ蛍光院」という外見をしている美涼には、他ならぬ蛍光院側の親が、他国の王族との婚姻をこそ望むだろう。
悲しいかな、位が高ければそれだけ、内部恋愛は奨励されないのだった。
「兄さんならどうぞ~」
「……なん……っ」
あっけらかんと言う千草に、敦也はショックを受けたように顔を曇らせた。美涼に抱きしめられている千草からは、それが見えないのだろう。
「ありがと~!」
からからと笑う美涼の声を聴きながら、
(さて、どうしたら敦也を慰められるか……)
と蓮は悩んだ。
正直、自分には敦也の気持ちを上向きにさせる能力がないと思う。絶対にできないとは思わないが、環境的に、絶望的に向いていない。
蓮は敦也から明確に嫌われているとは思わないが、この二人を取り巻く環境はかなり複雑だった。
――敦也は学園に入学以降、一度も蓮に模擬戦で勝てたことがない。
幼少期はそうではなかった。蓮にはすばしっこさがあったが、敦也には筋力があった。
筋肉があればその分出せる最大速度も上がる。勝率は敦也の方が高いくらいだった。……蓮に、師匠が現れるまでは。
宝竜功牙は、何も意地悪で蓮以外に剣を教えなかった訳ではない。功牙の教えは直感的なタイプで、率直に言って人にものを教えるのが上手いとは言えないものだった。
功牙のことを勝手に「師匠」と呼び、見よう見まねでその剣術を再現できてしまった蓮の才能こそが異質で、それはこのメロアラントにおいて誰にも真似できない“心眼”だった。
その目は異なる国、特に吸血鬼をはじめとした魔人たちの間では≪見通す眼≫と呼ばれる特殊なスキルなのだが……蓮たちはそれを知らないため、また別の話としよう。
蓮に敗北続きとなった敦也だが、蓮を除けば学園で敦也に勝てる者はいない。
それ故に、持つ者であるからこその孤独を味わうことになった。
蓮に負け続けて、劣等感に苛まれている……そんなことを打ち明けられても、大多数の生徒としては笑い飛ばすしかない。
「学園の第二位でも満足できないなんて、さすがです、敦也さま!」と。
そうなると分かっているからこそ、敦也は誰にも相談してこなかった。幼馴染たちは、自分だけでなく同時に蓮の親友でもある。
彼らにいらぬ苦労を背負わせぬよう……ただひたすらに、自己研鑽を続けた。自らに合う師に巡り合うことが叶わぬまま、ただ黙々と……蓮との模擬戦から逃げることもなく、むしろ積極的に試合を組んだ。
それは、妹が想いを寄せる相手もまた蓮であったことも大きいのだろう。
値踏みするという意味で言えば、これだけ努力している自分にも勝ち続けている蓮は、千草の相手として相応しいと言える。
滝のような涙を流しながら、血豆を潰しながら、地面に這いつくばりながら式場で祝福してやってもいい。結婚式場としては、そんな客は御免被りたいところだろうが。
――だが、親世代によって蓮とエリナが婚約させられてからの妹は……変わってしまった。
今でも蓮に対して距離が近いと感じることはあるが、それでも以前とは違う。
まず第一に、蓮に対して口に出して「好きだ」とは言わなくなった。
第二に、エリナの前では蓮に必要以上に近づこうとしない。
蓮には婚約者がいるのだし、その当人であるエリナが目の前にいれば、そうした振る舞いは華族として当然とも言える。
だが、千草が我慢を強いられ、傷つき続けている時間が早三年にも及んでいる状況に、敦也は強い憤りを感じている。止められないのだ。
このままでは、蓮のことも、エリナのことも嫌いになってしまいそうだ。
だから今回の……四華族の後継ぎではない者たちが、成人を前に、己の知見を広げるために諸外国を旅して周る計画が持ち上がった際……敦也は、「蓮とエリナは、俺と違う組にして欲しい」「蓮と千草を一緒にしてやって欲しい」と、いくつかの注文をつけていた。
親世代に対しても、水竜メロアに対しても直接話に向かっている。そのため、蓮たちが想定している以上に、親世代は蓮周りの混沌とした恋愛事情を把握しているのだが……敦也にそれを打ち明けられたエドガー以外は、まだそれを知らない。
(蓮……この優柔不断野郎が。お前がこの旅の中ではっきりとした答えを出せなければ、その時は俺が……この六人の関係を破壊してやる)
……そう、敦也は今日もクソデカ感情を蓮の後頭部へと突き立て、それを見ていたエドガーにため息をつかれるのだった。
(この調子じゃ、千草と離れた後の敦也のメンタルも大分心配なんだが。……はぁ、そこに関しては俺が一番の大人として頑張ってやるしかないのかね。やれやれだぜ)
エドガーは思わず天を仰いだ。一羽のツバメが口を開けながら、空高く通り過ぎて行った。
(今の蓮側が、千草のことをどう想ってるのかがハッキリしないんだよなぁ……)
まだまだ雨天は遠そうだ、とエドガーは思った。