第2話 人命を守るために捨てるべき甘さ、初めてじゃない共同作業
未だに何者かに狙われていると仮定した蓮と千草の二人は、自分たちがそれに勘付いていることを悟られぬよう、ゆっくりと公園を後にすることにした。
ここから水竜教会までは、一・五キロメートル程度だろうか。普段の蓮の健脚ならば、十五分も掛からない。
しかし今は女子一人を背負った状態で、仲睦まじく帰宅(別に帰るつもりではないのだが)する姿勢を見せる必要がある。
先程敦也と模擬戦を繰り広げていた平らなエリアを離れ、隣のエリアとの境目にある雑木林を抜けると、視界が開ける。
ひょうたん型をした大きな池を回り込むようにして歩き、公園の裏口を目指す。
「……うーん……やっぱり尾けられてますね。それに、一人じゃないみたい」
頭の上から聴こえた声に、蓮は目を丸くする。
「どうして分かるんだ?」
千草の言葉通りなら、彼女は蓮よりもずっと、周囲の気配を読むことに長けていることになる。
決して驕っている訳ではないが、蓮は戦闘に関わる分野で他人に後れを取ることが殆どない。それが本当なら是非教えを請いたい、と視線を上に向ける。蓮からは角度的に千草の顔は見えなかったが、きっと得意げな顔をしているのだろうと思った。
「ふふん、実は……≪クラフトアークス≫を粒子状にして、周りにまき散らしながら歩いてたんですよ。や、歩いてたのはせんぱいですけど」
「そうだな、絶賛歩かされ中……って、もう≪クラフトアークス≫をそんなに器用に扱えてるのかよ」
≪クラフトアークス≫。この世界の管理者であるという龍という生命体、その血に宿る力。
その龍に対応した属性を創造する力とも呼ばれる。
水竜メロアで言えば大量の水を生成することに加え、他の龍が操る≪クラフトアークス≫に同じく、訓練を続けることである程度望んだ形に凝固させ、様々な状況に対応できるようになるのだとか。
元々は東陽人とルーツを同じくするという清流人が、水竜メロアの加護を受けたことによって、髪や眼に青系の色が現れるようになったという。
もっとも、水竜メロアは長らく休眠期に入っていたため、この時代を生きる人々は、自らにそんな摩訶不思議な力を扱う才能があるとは夢にも思っていなかったのだが。
彼らの神が目覚めて以降、少しずつ清流人の中から≪クラフトアークス≫を自分の意思で発現させられる人間が現れ始めていた。
狙いすましたように、自分と高貴な生まれの幼馴染たちがそれに目覚めていたため、蓮自身は内心「ある程度忖度されてるな、これ」と考えている。
正直、蓮は≪クラフトアークス≫にある種の得体の知れなさを感じ――水竜メロアを信用していない訳ではないのだが――、あまり手を出せずにいた。
だが、この底抜けに明るい幼馴染は、蓮が感じた畏怖を覚えたのか覚えていないのか、とにかくその扱い方を熱心に研究していたらしい。
(というか、粒子状って……目に見えないほど小さいってことだろ? それを自分が通った場所に散布して、追手がそこを通った際に感知できるんだとしたら……便利すぎる。というか、自力でその使い方を思いついたのかこいつ?)
実際、千草のように敵対者を感知するためのセンサーとして≪クラフトアークス≫を利用するのは、過去の戦争においても、相当に場慣れした手練れの戦士のみが身に付けるものだった。
それほどまでに≪クラフトアークス≫を極小の状態にした場合、少し離れた傍から操作権を失ってしまい、たちまち空気に溶かしてロストしてしまうのが一般の“龍の力を持つもの”だ。
千草は己が非凡な才能を見せつけていることを知ってか知らずか、
「せんぱいは慎重派ですもんねぇ。元々の戦い方にこれを取り入れると、逆に勘が鈍っちゃいそう……とか考えてそう」
蓮はこいつオレのことめちゃくちゃよく分かってるな……と考えつつ、
「まぁ合ってるけど。それで、相手の人数とか状況とか、どれくらい分かってるんだ?」
「分かる範囲では二人……ですかね。さっきの弩を持ってる男と接触して何かを話した男が一人。そいつらに触れてもわたしの≪クラフトアークス≫が吸収されなかったってことは、ドラグナーではないはず」
自分から離れる程≪クラフトアークス≫への操作権は弱まっていくため、その状態で近くに別のドラグナーがいれば、容易く吸収されてしまうらしい。
(なるほど、戦う前から相手が≪クラフトアークス≫を使える人間……ドラグナーなのかどうかを判別できるのは強いな)
蓮はここで、自分も摩訶不思議な力へと手を出す決意を固めた。
「……っていうか千草、お前ってケータイ持ってるよな? じゃあ俺達だけで対処しなくても、本家の人たちに助けを求めることもできるんじゃ?」
蓮は所有していないが、メロアラントの華族である曙家の息女までもが持っていない道理はない。
「あ~、それなんですけどね~」
千草はぐで~っと、わざと蓮の上に潰れるように体重を掛けて、気落ちしているアピールをした。それで最もアピールされるのは胸囲だろうが。
「蛍光院って特に景観に気を遣ってるじゃないですか。ここら辺に電波塔が立ってないせいで、どこでも連絡が取れる訳じゃないんですよ」
「あぁ……そういえば」
ケータイを持っていない蓮は、電波塔の存在自体が意識の外にあった。言われてみれば、蓮が育ったこの蛍光院領では、空に向けて屹立する鉄塔を見た覚えがない。
「誰かに追われてることと、今は教会に向かってるってメッセージを送ろうとはしといたんで、運が良ければ……送信され次第助けに来てくれると思いますけど」
「あんまり期待はするなってことか。どうすっかな……」
公園の裏口を抜けると、教会まではなだらかにならされた坂道が続いている。
歩きやすく整備された道を挟むように植えられたサンフラワーの群れが目に眩しい。
今日も観光客だと思われる、様々な髪の色をした人々が散見され、蓮は内心焦りを覚える。
「……あれ、これって教会までたどり着ければこっちの勝ちだと思うか?」
周囲の花畑や人々を巻き込むことを嫌ったのだろう、出来るなら戦いは避けたかった蓮だが、
「思いませんね。一応犯行を隠したいとは思ってるんでしょうけど。最悪の場合、わたしたちが教会にたどり着きそうになったら慌てて狙撃してくる可能性もありますし。それに、この手の輩は逃したほうが後がめんどいですよ。わたし、外出禁止令とか出されるのもう嫌ですし。今日この場で二人ともとっちめられるのが一番だと思います」
千草にそう言われて、がっくりと首を下に傾けた。
「そうか……そうだよなぁ」
一週間後には、蓮にとっては念願のイベントがあるはずなのだ。万が一にもそれを遅らせるような事態にはなって欲しくない。
「わたしなりに考えてみたんですけど……まず、目的はわたしじゃないですね。たぶん間違いなく、せんぱいの方です」
言いながら、千草は元から散らかった蓮の頭を、更にぐしゃぐしゃにするように撫でた。
「お前が目的だったら、まぁそもそも別な機会を待つよな。そもそもオレを狙撃しようとしてたんだし。でもオレってなると目的は……」
メロアラントにおいて、今までは大して目を向けられることもなかった神明家。その息子に何らかの価値を見出そうとするならば。
「まず間違いなく、水竜さま絡みでしょうね」
「……オレを人質にとって、メロア様に何らかの交渉を持ちかけようとしてるってところか」
「そう思います。さっきの模擬戦の時に狙撃が成功した場合、狙撃自体はヒートアップした観客のせいだと思わせて……怪我を負ったせんぱいを救命医が移動させている最中に襲撃して、拉致するつもりだったんじゃないかと」
普段のよそ行きの振る舞いとは異なり、蓮と二人きりの時の千草は、その明晰な頭脳をフル回転させてみせることがある。
蓮はそれに半分呆れながらも、「お前本当に凄いな」と声に出して褒めることは忘れなかった。両手が自由だったら、頭を撫でてやったかもしれない。
「じゃあそれらを加味して作戦を立てるなら……」
そうして、お互いに深く信頼し合った者だけが実行に移せる作戦が……開始されることとなった。
――四家。もしくは四華族と呼ばれる、水竜メロアが目覚める以前から清流の国を治めていた四つの豪族。
代々の神明家が仕える蛍光院家を筆頭に、曙家、リヴィングストン家、オールブライト家が名を連ねている。
彼らが清流の国と呼ばれた地域を帝国によって下賜されたのは、現代では≪大渦の魔王≫と称される、海竜レメテシアとの戦いで挙げた武功によるものだ。
三百年前、帝国出身の英雄ゴットフリートがアラロマフ・ドールにて魔王レメテシアを退け、一代限りの王としてドールを治めることになった戦争。
その際にゴットフリートが従えたという“四騎士”は、最終決戦を前にして大陸中に散らばりかけたレメテシアの軍勢――その多くはモンスターであった――を抑え込むための別動隊として各地に散り、それぞれが大きな戦果を収めた。
そうして、“四騎士”は四華族となった。
彼らに与えられた土地は広大かつ豊かであり、帝国からの信頼を窺わせる。
それ故に、三百年の時が過ぎた現代であってもその血族は尊く、戯れに傷つけることは憚られる高貴さを伴っている。
曙千草。
髪の色こそ純粋な清流人に多いものではないが、その暗い瞳にはよく見れば深い蒼が宿り、その強い意志は相対した者に畏怖を抱かせる。
体型からは女性らしさを感じさせるものの、男子生徒と同様のズボンを身に付け、刃を潰した儀礼用とはいえ帯剣した人物を前に、その帝国人はまごついた。
(曙の娘……? なぜ一人になっている。神明蓮はどこに行った?)
男が視線を上げれば、ラヴァンドラ畑を観察するようにしゃがみ込んだ千草の向こうには、人っ子一人いない。
いや、二百メートルほど離れた場所にある水竜教会の前には、教会騎士が数人見受けられるが……彼らもそれほど熱心に観光客の様子に目を向けているとは思えないし、無視しても構わないだろう。
いよいよもって教会との距離が狭まり、焦って距離を詰めた男だったが……標的であったはずの蓮の姿を見失い、内心慌てていた。
(まさか気づかれていたのか? いや、だがそれならば女子一人を残していくのはおかしい……)
そして、考える暇も与えないように、こちらを不思議そうな顔で見上げていた千草が立ち上がる。
「ごきげんよう。教会の見学者さまでいらっしゃいますか?」
おしとやかな声で男に質問する千草。彼女をよく知る幼馴染たちがそれを聴けば、普段とのギャップに噴きだしかねない。そんなお嬢様モードだった。
「……え、ええ。そうです……」
答えながら、茶髪の男は左ポケットに手を突っ込み、人差し指で端末を操作する。
画面が見えない状態で通話を起動したり、文章を打つのは容易ではない。しかし、彼は仲間と文章を送り合う為のソフトを起動し続けていた。
それによって画面を点灯させさえすれば、ゆっくりとだが指を走らせることで、手書きの文字を送ることが可能だった。彼らはそのための訓練を受けていた。
(曙、娘、接触。蓮、姿、見えず……しばらく様子を……見る)
だが、この方法では隠れている仲間に自分の状況を伝えることはできても、相手からの返信を見ることはできない。
その間にも、無防備にしか見えない足取りで、少女はこちらへと歩み寄ってくる。
――曙の人間を傷つける訳にはいかない。そんなことをすれば、メロアラントとは明確に敵対関係となってしまう。目的は、あくまでも神明蓮を攫うことだ……。
「光明社のガイドさんが連れていた方々はもう全員が教会に入られたかと思っていましたが……」
こちらを疑っているようには見えない態度で、しかし疑問を口にした少女。
「あ、ああ。実は……ガイドさんとはぐれてしまって。あそこのサンフラワーの背が高かったからかな、ははは」
「それはいけませんね。お客様がはぐれていることに気付かないだなんて。ガイドさんには、お説教をしなければなりません」
あなたには非は一切ないですよ、という態度を崩さないまま、千草はにこやかに右手を差し出した。
(曙家のお嬢様が、身分の知れない輩に手を差し出すのか?)
握手をする理由も無いだろうし、手を引いて歩こうというのか……自分はどう見ても成人男性のはずだが、なぜそんな小さな子供に接するかのような態度を。
と一瞬考えた男だったが、
「――お荷物、お持ちいたします」
と続けられたことで、自分の勘違いを理解した。
(あぁ、荷物を持ってくれようとしただけか……)
お嬢様言葉を使ってこそいるが、曙千草の恰好はリンドホルム学園高等教育学校の男子制服だ。
そこで騎士道精神をみっちりと叩きこまれているため、こうした振る舞いに出たのだろう……と男は結論付けた。
確かにリュックを背負い、右手には大きな手提げ鞄を持っている外国人観光客を見れば、それを助けようとすることは左程不自然ではない。
(観光客を装うためのものであって、実際武器なんかが入ってる訳じゃないしな)
と考え、「ありがとう」と礼を言いながら千草へと手提げ鞄を渡した男。
――その、刹那。
千草は右手を開いて、その場に鞄を落下させた。
「え」と男が間抜けな声を上げた時には、千草は伸ばされていた男の右腕を掴み、己の方へとぐいと引いていた。
前のめりになった男の顎に向けて右手を跳ね上げて打ちつけ、自分自身もその痛みに顔を歪めながら……身体を回し、左腕全体でラリアットを掛けるように、男の首を後ろから叩く。
男は地面に落ちていた自分の鞄に顔面を埋めるように叩きつけられ、その時点で意識を失っていた。
千草はまだ止まらない。倒れた男に向けて右手を伸ばしたかと思えば……男の身体に纏わりつかせていた≪クラフトアークス≫の粒子を集め、天高く振り上げる。
そこから伸びる、一本の煌めく糸が……大きくたわんだあと、千草の体内へと巻き戻されるように収縮し、ぴんと張り詰めた。
それが、広大なラヴァンドラ畑の中に身を低くして隠れていた、もう一人の男の位置を暴き出す!
「――はい不審者の一本釣りかんりょ~っ!!」
お嬢様モードをかなぐり捨てた叫びを上げるや否や、千草は遠くに見える教会へと走り出していた。そこにいる騎士へと協力を仰ぐためだろう。
蓮と千草は相談の上、周囲から他の観光客が減るタイミングを窺っていた。
――今なら、無関係な他人が傷つけられる心配はない。
「ちぃッ!」
一メートルを超えるラヴァンドラの中で体勢を低くしていたアッシュブロンドの髪の男は、舌打ちしながら身を起こし、右手で握った弩を千草へと向けた。
(――なぜ気づかれたのかはよく分からない。曙千草からこちらへと伸びるあの水色に輝く線はなんだ。あれが≪クラフトアークス≫なのか?)
分からずとも、この場で失敗を取り戻す為の動きを、訓練された身体は即座に実行する。
(曙の人間を傷つけるのはまずい。だが、それは下手人が誰かバレた場合だ。バレずに事を終えればまだ取り返せる。それよりも、教会騎士を呼ばせる訳にはいかない。まずはあの足を撃って、動きを止め……)
引き金に掛けられた指が動く寸前。男の右手に下方から激しい衝撃が伝わり、跳ね上げられる。
男と同じように……蓮もまた、ラヴァンドラの中に伏せて追っ手を待ち構えていたのだ。
蓮がいた位置は男が姿を暴かれた地点から十数メートルは離れていたが……その距離を獣のように駆け抜け、身体を持ち上げると同時に男の右腕目掛けて、右足を跳ね上げたのだ。
「――ぐがぁっ!?」
思わず声を漏らした男。小指から薬指までの骨が折れていた。跳ね上げられた先で、青空を目掛けて発射される石の弾丸。
それを為した蓮は右足を引き戻しながら男の首に回すと、そのまま左足で地を蹴って空中へ。まるで男の首に蛇のように絡みつく。
蓮の身体は男を飛び越え、上下が逆になり、大量のラヴァンドラを潰しながら両手で地面を突き……叩くように回転の動きを発生させると、両足でホールドしていた男を解放し、前方へと吹き飛ばす!
「ぐっ、ごっ、がはぁっ!?」
花畑からその身を暴かれ、舗装された順路へと叩きつけられた男。
「――テメェなんてもん千草に向けてくれてんだこのクソボケがぁぁぁぁっ!!」
その耳朶を、少年の野獣染みた咆哮が貫いた。
頭に血が上った態度は演技ではない。少年は、幼馴染の少女に凶弾を向けられて、心底ブチ切れていた。
(見通しが甘かった。千草を危険に晒す可能性を見捨てちゃいけなかった。他の人間を巻き込まないようにするのは当たり前だけど、それだけじゃない。オレが守らなきゃいけない相手は……!!)
――守るんだ。守り通すためには、まず危険を排除しなければ。蓮はその思考の元、木剣を勢いよく引き抜いた。
「……甘さを捨てろ……敵の命より、大事な命のために……」
男は、右手の指の何本かを折られたくらいで諦めはしない。得意とする武器である弩を失った程度で、躊躇いはしない。
だが、二本の木剣を抜いてこちらへとゆっくり歩み寄る少年に、死を幻視した。これは、殺意だ。
(教会騎士が暴徒鎮圧用の装備を用意して駆けつけるまで、あと二分もないだろう。このガキを連れて身を隠すことを考えれば、余裕は一分もない)
「――調子に……乗るなよ、ガキが」
それまでに片づけなければ。男はそう考え、懐に手を突っ込む。
左手で警棒を伸ばし、握力の落ちた右手にはスタンガンを握った。
文明が生んだ武器を手に、自らの優位を疑わない者がどこにいようか。
何より、自分は誇り高き帝国の戦士だ。
男は笑みを張り付け、スタンガンに電流を走らせて対敵を委縮させようとした。
「お前一人殺すのに、十秒も掛からん」
実際には殺すつもりはないのだが、男は相手を騙すことに長けていた。自然な様子で殺意を表明する。蓮もそれを演技だとは思わなかった。
「……教会騎士が到着するまで、自分が生き続けてられるかを心配しろ……ゴミカスがぁっ!!」
――思わなかったが、全く委縮はしていなかった。
蓮が振るった右の長刀を受けて、男は自分の認識が誤っていたことを知る。回避できないと悟り、左手の警棒で受けようとした。だが左手は跳ね上げられ、警棒は吹き飛ばされた。
右手一本で振るわれた木剣とは思えない威力に驚きつつも、男はプロだ。
瞬間、己の右手へ価値を見出すことをやめ、身体ごと蓮に突っ込んでいく。蓮が左手で突き出した短刀も無視した。
(たとえこのガキが馬鹿力だろうと、スタンガンの一撃で相打ちを取れば俺の勝ちだからなぁっ!)
そして、バチバチと電流を迸らせるスタンガンの頭が蓮の伸ばした左腕を撫で――まだ蓮は怯まない――、左胸へと到達する!
「ごぼっ……」
その時には男もまた右胸を短い木剣で突かれ、弾き飛ばされていた。息が詰まるが、そんなことはどうでもいい。自分は勝利を収めたのだから。
(ははっ、ははは……。なんだ、これは…………水?)
仰向けに倒れていた状態から起き上がるところで、男は自分の身体の前面が濡れていることに気付いた。
自分が刃物でも使っていれば、それが返り血を浴びたことによるものだろうと納得できた筈だが。それは無色無臭で……ただの水としか判断できない液体だった。
――そう、どこまでもただの水……純水であれば。
「――ば、バカなっ!?」
こちらを見降ろし、長刀を振り上げている影。それは間違いなく、神明蓮だった。
(なぜ気絶していない!?)
男がその答えを導き出すより先に、木剣が男の首を打っていた。最低限手加減されたそれは、命を奪うほどの一撃ではなかった。
男は意識を失い倒れ、しかし蓮は怒りが収まらないまま長刀の向きを下にすると、男の左腕の付け根……肩に当て。
怒りを発散するように、少しずつ力を加えていく。
蓮の頭部を除く上半身は……決して服を濡らすことはない状態で、その表面を蠢く水によって覆われていた。まるで水のバリアだ。
人生で初めてとなる≪クラフトアークス≫の使用。いきなり大量の純水としてそれを実体化させ、絶縁体としてスタンガンの電流を防いだのだ。
それは本能によるものか。あるいは電流以外の攻撃であっても防げるようにイメージ出来ていたのか……今は、蓮自身にも分からない。
「テメェに腕は、一つもいらねぇよなぁ……?」
低い声で、意識を失った男を脅すような言葉を零した蓮。それに返事があるはずもなく。
蓮が握る長刀が、男の肩の骨を砕いた。
意識が無いままでも痛みによって大きく跳ねた男の身体を、「うるせえっ!!」ブーツの底で胸を踏みつけることで、地面へと叩きつけた蓮。
「――ぎゃっ、ぐわああああっ!?」
そこで意識が戻ったのか、全身を苛む痛みに喘ぐ男。その声に再び怒りを覚えたように、蓮は左の短刀で男の頭部を殴りつけた。
二度、三度殴りつけ、男が静かになり、それでも四度目を叩きつけようとしたところで……後ろから、蓮の左腕をがしっと掴み止める者がいた。
「――やめなさい、蓮」
その声は蓮が良く知るものだった。
「君はよくやった。――だが、それ以上はやりすぎだ」
教会騎士のものではない。怒りを滲ませた視線を左へと向ければ、教会騎士が四人、こちらへ向けて走ってくるところだった。
彼らが千草から事情を聴き、鎮圧用の武器を取りに行っている最中に。
一足先に教会からここまで、風のように駆け抜けて来ただろう人物は。
「――師匠。オレは……」
「大丈夫。僕は怒ってはいないよ」
蓮のくしゃくしゃな髪を撫で、安心させるように言葉を掛けた成人男性。
水色の長い髪を後ろで括り、ゆったりとした菫色の着物を身に付けたサムライ。
卓越した剣士である彼こそが……蓮に剣を教えた人物。
――宝竜功牙だった。