中編2
「何か見えたかい?」
差した傘に声をかける。雨をはじく音が戻ってきている。
「まあ、多少はな」
傘の声を聞きながら、猫はひざを曲げてしゃがむと、落ちていた機械の腕を拾った。雨に濡れたそれは、良い具合に溶けているように見えた。
「あまりじっくりと見る機会はないが、なかなか見事なものだねぇ……で、どうだった?」
すっと立ち上がった猫の袴の裾も白い足袋も、全く濡れたり汚れたりしていない。
「あそこの上が、繋がってるんだろうな」
「なるほどねぇ、妙なちょっかいをかけてくるわけだよ」
あちこち向きを変えながら腕を眺める猫。
「じゃあ、気が向いたらお邪魔しようかねぇ。でも、まずはコレだ」
「そんなもんどうするんだよ」
傘のあきれた声に、猫は目を細め、鼻を少し動かした。つられてヒゲが揺れる。
「わかってないねぇ。今これは天使の腕なんだよ?」
「……高く売れる?」
一瞬考えた後傘の出した答えに猫の肩が小刻みに揺れた。
「あのセンセイが変な気を起こさないように念押ししないといけないねぇ」
「センセイか……まだやってるかな」
「その前に」
震えていた肩が止まり、目がすう、と細くなる。そして、手に持った機械の腕を器用に動かし腰から刀を抜いた。片手は傘を差したままである。
「お客さんの相手をしなきゃあねぇ」
「俺はその辺に置いといてくれてもいいんだぞ」
それを聞くと猫はくすりと笑い
「嫌ですね、雨に濡れるじゃあないですか」
刀を横に振るう。普段よりリーチの長いその刃は、いつの間にか近づいていた何者かの腹を掠めた。
「やはり扱いが難しいですね」
「化け物め」
忌々しげに呟いたのは、鱗のような装甲を持つメタルボディ。手足にはご丁寧に水かきまで付いている。
「半魚人に化け物呼ばわりされる日が来るとはねぇ……」
「ハンギョジン?なんだそれは」
後ろからさらに何体か集まってくる。
「我らは……」
説明しようとしたその言葉を、猫はあっさりと遮って言った。
「どこぞの地下寺院の子飼いだろう?面倒だから細かいことは聞かんよ」
構えた機械の腕が淡く光る。
「斬って斬れるなら同じ事だ」
「そう簡単に斬れると思うな!」
そう叫んだのは最初に飛びかかった者だろうか。
「斬れるさ」
一歩も動けぬままにきらめく鱗は綺麗に上下に分けられた。生身ではないため血を噴き出したりはしないが、代わりにオイルや冷却液だろうか、茶色や緑の液体が油膜を作ったり雨水に溶けて流れたりしている。
「というか……斬った」
そのことに誰も気づかぬまま。
「……年かねぇ、動くのが面倒でね」
「はいはい、老けた老けた」
すでに終わったかのような物言いに、他の半魚人達が何か言おうとしたが
「あ……遅かったか」
皆膝から崩れ落ちた。濡れた路面に流れた液体の花が咲く。
「動かない方がいいぞ、と言ってやるべきだったかね」
刀を鞘に収めながら嘯く猫。もちろん猫自身が掴んでいるのは機械の腕だ。既に光は消えている。
「無駄だろうけどな。まあ、どうせお仲間が回収に来るだろ」
「最近は回収屋の動きも早いと聞くよ。お仲間が間に合うといいねぇ」
昔に比べると非人機の数も種類も増えた。それらは裏通りだけでなく表にまで出てきて、町を清潔に保とうとする。
「それにしても、意外と便利なものだねぇ、機械の腕ってのは」
「天使の腕だからじゃねぇの」
その機械の腕を器用に動かし、指先で額を掻く猫。
「ああ、そういうことなのかね」
その壁の何に触れたものか、天使の腕は確かに何かを押し、そしてその結果起こるべき結果としてチャイムが鳴った。
「誰じゃい呼び鈴なんぞ押すのは」
「なるほど奇跡だ」
放り込まれた傘立ての中で、傘が呟く。中から出てきた六本腕のドクターは円筒を正面だけ平らにそぎ落としたような顔をしていた。サイズと色のそれぞれ違うレンズが四つ。非常にすっきりとした顔をしている。
「なんじゃ、また金にならん話を持ってきたのか?」
人型の二本の腕と背中の四本の作業アームを動かしながら、四つのレンズは猫の顔を映している。
「以前、天使について伺ったのを思い出してまして」
「ふむ」
レンズが猫の持つ機械の腕を捉える。
「確かに話したの。しかしその腕についてなら、こっちの領分ではないのぉ」
ドクターがかつて猫に語ったのは電池としての、この町の天使の話である。人を元に作られ、使い捨てのエネルギー源となるそれについて、なぜこの闇サイバネドクターが知っていたのかはわからない。
「模倣であるということは、オリジナルもあるということよ」
胴体のいくつものランプを点滅させるドクター。
「しかし、見立ての対象はあくまでまがいものの天使だったのでは?」
「本物かどうかはあまり関係がないの。ほれ、これを持って中層に行け。少しは詳しい話が聞けるじゃろ」
そう言うと背中の作業アームが棚からカード状のメディアを取り出し猫に差し出した。
「恩に着るよ」
猫はカードの対角線を親指と人差し指で押さえると器用にくるくると回しながら、ドクターに背を向けた。
「ああ、そうだ」
猫が振り向かずに言う。
「この腕は置いていくけど……売り飛ばさないで欲しいねぇ」
そして傘をとって出て行った猫の後ろ姿が小さくなるのを見送ってから、ドクターはぼそりと呟いた。
「……そんな物騒なモノが売れるわけなかろうが」
また雨の中を行く一匹と一本。激しい雨音の中、声は心なしか大きい。
「で、今度は中層に向かうってのか?物好きだなぁほんとに」
「ネコってのは好奇心で死ぬ生き物らしいからねぇ」
人語を解し服を着て道具を使い人に混ざって生きるようになり、長い長い時の中で人の営みの移り変わりを眺めてきた。さすがに子猫の頃のようにとまでは行かないが、それでもなおいろいろな物事に首を突っ込みながら存在しているのがこの猫だ。
「化け猫も死ぬのかい?生き物じゃねぇけど」
「死んだことがないからわからないねぇ」
そんなことを話しながら、ネオンを模した看板の前にやって来た。本物のネオンサインでないとはいえ、このタイプの看板もずいぶん減った。
「エレベーターでも良いんだろうけどね」
そう言いながら傘を背負い、壁に手をかける。ずっと前にもここを登った。あのときとは事情が違うが、登り方を知ってるここから登るのが一番早い。
「早いというか、面白いんだろう?」
「まあね。あのときと違って邪魔は入らないだろうしね」
勿論パトロールドローンは近くを飛んで警戒する。が、猫はもうそれを気にしない。
「俺は今でもこいつらが嫌いだけどな!」
猫の背中で傘が吐き捨てるように言った。