中編
「ふむ……」
猫が目をこする。
「なるほど明日は雨が降るな」
傘がからかうような声を上げた。
「別に顔を洗ってた訳じゃあないよ。それに」
言葉を区切ると傘を斜めに傾け、細めた目で空を見上げる。
「雨以外の天気が見られるなら見てみたいもんだねぇ」
軽口を叩きながら、視線を立ち入り禁止のテープに戻す。微かに振動しているらしいそれが、雨水をはじいている。
「ふむ」
一歩近づく。
テープが震える。
また一歩。
「うーん」
不意に、ぶん、という音が響く。道路の、壁の、空中の、水滴が一瞬すべて弾け飛ぶ。滅多にない乾いた壁、乾いた道路が現れる。
猫は開いた傘をいつの間にか正面に構えていた。その後ろに面発光の若者をかばっている。
「こちらからちょっかいをかけるつもりはないんだけどねぇ」
雨はまだ降ってこない。
「やるねぇ」
ちらっと上を見る。
「あのぐらいはできるぞ」
手に構えた傘からは不機嫌そうな声。
「知ってるよ。ただ、ほかにもできるやつがいるとは思わないじゃないか」
「もっとすごいこともできるぞ」
あっという間に機嫌が直る。
「柄を引き抜くと刀になったり」
「さすがにそれは無理」
「……そうだったかね?」
猫が首を傾げる。
「いつから俺をさしてんだよ……」
長いつきあいである。少なくともこの町ではずっとこの傘を差して歩いてきた。
「忘れるぐらい前から、かねぇ」
「なぁ……」
面発光が後ろから声をかけ、前に出ようとした。
「あ」
そこに
「おい」
鈍い発射音、破壊音。飛び散る面発光素子の破片。落ちる腕。
「え」
すぐに傘を構えなおす猫。すると。
「……かっっっけぇ!」
今までになく体中の発光素子を点滅させている。地面に落ちた腕以外。しかし。
「かっこよくはない。少し軌道をそらすのが遅れたら、死んでいたかもしれないぞ」
面発光の声のトーンとは反対に、猫の声が低い。
ふぅ、と息を吐いて、傘を手放す。
「仕方ないねぇ、一人で行くとするかね」
開いたままの傘は、滑るように移動する。
「カスタムのネタが増えたんじゃねえか?」
「そうだな!でも、猫の人は怒らせちまったけど……」
「心配いらねぇよ。ありゃあ、八つ当たりみたいなもんだ」
もちろんそのやりとりは猫にも聞こえている。が、相手はせずに刀の柄に手をかけた。ざあっ、と雨が降り始める。
「雨の降り始め、というのも珍しい……」
ギン、という音が鳴る。猫が刀で弾をはじいているのかもしれない。刀を抜いているようにも見えず、ただ歩いているようにしか見えないが。
あと数歩で立ち入り禁止のテープ、というところで地面から一列に並んだ人影が飛び上がる。
「蛮勇教会かっ!しまった!」
生身に近いボディに、カーボンファイバーで編んだ法衣を纏った男達である。手には棍。頭には黒いバイザー付きのヘルメット。顔は見えない。見た目で性別はわからないのだが、蛮勇教会のメンバーは男だと言われている。
一見木のようだがきっと合成素材でできているであろう棍が一斉に猫に向かって振り下ろされる。しかし猫が気にしているのはそれではなかった。
「蜘蛛の糸か!片手を落としたときに気付いていれば!」
刀を振り抜き、周囲の男達を纏めて薙ぎ払う。後ろを振り返れば、空からスポットライトの当たっている面発光のメタル者。
「しかし何故?」
次々に飛びかかる蛮勇教会の男達を蹴り飛ばす猫。
「なんとかならないか!」
浮かび上がるメタル者、ふわりと降りる傘。
「ならねぇなこれは」
傘の落ち着いた声に、猫も少し普段の調子を取り戻す。
「そうか、ならないか……いや、すまないね」
「いいってことよ。で、どうするよ?」
逆立っていた毛も徐々に落ち着いていく。雨水はしっかり含んでいるが。
「持って行かれたものは仕方ないが……理由がわかないねぇ」
今も彼らの上で、スポットライトの当たった片腕のメタル者が空に上がっていく。が、すでに猫はそちらを見ていない。周囲には黒いカーボンファイバーの法衣を纏った男達が倒れている。
「一応調べていこうか」
そう言うと猫は傘を差しなおし、立ち入り禁止のテープをまたいだ。
「なるほど、これ自体が」
テープの内側に入ると、景色が一変した。
「まともな神経じゃねぇなぁ」
張り巡らせたテープに対して、上向きにぶら下がるてるてるぼうず。
「ある程度はあの時の再現なのだろうが……根本的に違うものだよねぇ」
その一つを手に取りながら猫が何かに向かって語りかける。
「天使と、雨降り小僧……あるいは驚天砲のほうかな」
「本物でなくても良いとなると……カタチを真似て、何を起こしたいのかな」
「何であっても良いだろう?」
張り巡らせたテープ、その空間の真ん中にそれは居た。破れた傘のようなカバーの隙間からのぞく小さなライト。
「居るだろうとは思っていたが、本当に居るんだねぇ」
「そりゃあいるさ、ここはそういう場所だもの。そして確かあんたはこう言ってたはずだよ。ネコというのは案外どこにでも潜り込めるものだ、ってね」
小さなライトが高速で点滅している。それを見た猫が少し眉を寄せる。
「なるほど、だからしつこく入れない場所だとアピールしてたんだねぇ。蛮勇教会の連中も外で待ってたみたいだしね」
「彼らはお行儀が良いからね」
「違いない」
猫はくすりと笑った。
「流石に、蜘蛛の糸は斬れないんだね」
その声はこの空間の中心からではなく、すべてから伝わってくるようだった。
「斬れないというか……斬る時ではなかったというか……」
猫が傘を右へくるくる、左へくるくると回す。
「まあ、その、なんだ。時がくれば斬るよ」
「そっか、時がくれば、あれも斬っちゃうんだ、斬れちゃうんだ」
いつの間にか周囲の空間が青く、暗い。そしてここに雨は降っていない。
「良いね、良い色だ」
猫が見回して呟く。
「余裕なんだなぁ」
「ビックリしたらあわてるさ、ネコだからね」
それは挑発の意図があったのか、なかったのか。
ともあれ、その台詞を受けて無数に並んだ逆さまのてるてるぼうずが一斉に揺れる。
「この程度じゃびっくりしないかぁ」
「もう子猫ではないからね」
髭を指で引き伸ばしながら言う猫。
「坊主、驚かせようと思ったらな、タイミングを外すんだよ。忘れた頃にやらねえとダメだ」
「さすが、驚かせることに特化した妖怪は違うねぇ」
相変わらずの軽口に、声は深く暗い調子で反応した。
「妖怪……そう、妖怪。なんなんだろうねほんとうに」
「時々何かに取り憑かれる人がでるだろ、僕みたいにさ」
「憑き物、と呼ばれているねぇ。いや、呼ばれていた、と言うべきなのかな」
口調とは裏腹に、猫の顔は苦々しげだった。
「自分が自分ではなくなり、別の何かが混ざる。それは大昔に語り継がれた妖怪のような」
「ような、ね。まあ、そうだねぇ」
猫はロープで区切られた空間の中心にいる、破れた傘を被っているような人影をじっと見ている。しかし、声は相変わらず周囲から伝わってきていた。
「自分がそうなるとは思ってなかったけどさ」
声の調子の変化に合わせるように、猫の手が刀の柄に添えられた。いつのまにか傘を手にしていない。
「でもさ、違うんだろ?憑き物とか、妖怪とか、そういうものとは、本物のそういうものとは違うんだろ?」
「人間が」
そこで一旦、口を噤む。何かを考えるそぶりを少し見せた後、猫はまた口を開いた。
「人間が気にするようなことではないねぇ、それは」
「人だと言うのかい?僕が?」
ふぅ、と溜息を吐く。
「妖怪はねぇ、そんなことで悩まないのさ」
そう言うと猫は刀から手を離し、手をぽんと叩いた。
「さて、邪魔したね」
「行くのかい?」
その声を後ろに聞きながら、猫は片手を上げた。
「子供がさらわれてるからねぇ」
その手の中に傘がふわりと降りてくる。
「もうちょっと構って欲しかったんだけどなぁ」
「どうせまた来ることになるさ」
後ろ姿が立ち入り禁止のテープを越える。見えなくなったその姿に向かって、ぽつりと声が掛けられた。
「ここから登った方が早いのになぁ」