前編
この町の雨は、止むことがない。水はけが悪いわけではないものの、降り続く雨は常に道路に水たまりを作り、外を歩こうという気持ちを萎えさせる。とはいえ窓から伺う外の景色は常に見通しが悪く、部屋の中もまた薄暗い。無機質な建材が剥き出しになった部屋の中で、壁にもたれる和装の人影が一つ。いや、そのシルエットは微妙に人とは違う形をとっていた。頭の上にとがった耳。顔の横に見えるのはヒゲだろうか。目はどうやら閉じているようだ。物音をたてずただじっとしているそれは、まるで雨音に聞き入っているようでもある。
頭の上の耳が、ぴくりと動いた。ゆっくりと、その目が開く。かつては扉があったのかもしれない長方形の穴の方に、二つの瞳が向けられる。穴の向こうの壁が薄緑色に照らされている。猫の顔がふう、と息を吐いた。
扉があれば少しは勢いが和らげられるだろうか、と、考えても仕方のないことがふと浮かぶ。
「猫の人!」
いつからこの、体のあちこちに面発光素子をちりばめた、コーティングを剥がした金属ボディの若者に懐かれたのだったか。いつから猫の人などという奇妙な名で呼ばれるようになったのか。つい先日のような気もするし、遙か昔だったような気もしてくる。ただ、かつてはこういった風体の若者が何人もつるんでいたものだったが、一人減り二人減り、いまではこの面発光素子を散りばめたやけにぴかぴかと光る若者だけがかつてのスタイルを貫いている。もしかしたらもう若者と呼べるような年ではないのかもしれないが、猫にとっては今でも子供たちの内の一人である。
「相変わらず派手に光ってるな」
「まあな、アイデンティティってやつさ。ほら、猫の人これ好きだろ?」
そう言うとかつてのメタル者はオイル缶を差し出した。
「100%化学合成だってさ。カガクもゴーセーもよくわかんねーけど」
むしろこの町では部分合成の方が入手困難だろうが、そんなことは知る由もない。
「……べつにこれが好きなわけではないのだが……」
そう言いながら猫はオイル缶を片手で受け取る。
「猫の人いつもそう言って、最後の一滴までしっかり舐めるじゃん?」
器用にふたを開けると、どこから出したのか傷だらけの金属の杯にオイルを注いだ。
「そりゃあ、せっかくの油だからね」
缶を床に置き、杯を目の高さに掲げる。
「それにしても、よく溶けている」
「お、わかるかい?」
声のトーンはさほど変わらないが、嬉しそうにあちこちを点滅させている。
「今が一番良い具合かもしれないね」
ボディの溶け具合を見て猫が言う。
「そうだなぁ、もう少しいけるかなとは思うけど、この辺でやめとくのが安全かな。もう若くないし、無茶は良くない」
「子供がやけに落ち着いたことを言うじゃないか」
ちびり、と杯からオイルを飲むと、目を細める。
「猫の人はずっと子供たちって言ってたけど……まあいいか。そうだな、こんなナリしてる間はまだまだ子供だ。もう少しぐらい無茶してもいいか!」
「で、いい具合だから見せに来たのかな」
扉のない四角い穴の向こうから声がした。
「相変わらず傘の人は部屋に入らないんだな……じゃなくて、そうそう。忘れるところだった」
すっ、と光量が下がる。
「てるてるストリートって覚えてるかい」
口元の杯が止まる。
「思い出せと言われりゃ思い出せる程度には、ね」
そこにいた雨降り小僧と驚天砲を思い出す。とはいえあれは一瞬雲を晴らしただけだったし、破壊された通りもあっという間に修復されて何事もなかったようにすべて元通りになったはずだ。
「そりゃよかった。俺もすっかり忘れてたんだが……」
どういう感情表現なのか、発光色が緑に変化する。
「あそこを封鎖して掘り返すらしいんだ」
「……今更?」
杯に口を付けた猫の髭がぶるぶると震えた。
「ああ、今更」
外に出るときは傘を差す。この傘も、猫とは長いつきあいだ。
「そういえば傘の人は部屋には入らないんだな」
「さすがに傘の人はおかしいだろうが」
猫は服も着るし二本脚でも歩く。しかし傘は傘である。今も猫の手によって運ばれているところだし、人と呼ばれるには些か無理がある。少なくとも傘にとっては。
「でもほら、話してるし」
「話をしたら人なのか?」
その言葉に一瞬何かを考えるような間が空く。
「……俺らも形はいろいろだしな。みーんなカスタムしてしまうしさ」
その俺らという言葉に含まれるであろう者達とも、もう長い間会っていないらしい。
「あいつらももうどんな見た目になってることやら。その点猫の人も傘の人も、変わらないからわかりやすくていいよな」
猫がそれを聞きながら自分のヒゲを引っ張ってのばす。
「しかし人は皆IDを持つし、ネットワークではつながっているのだろう?」
「そうなんだけど、見た目のカスタムでつながってた仲間はやっぱ、会ってないと話す話題もなくてさ。自然消滅ってやつ?」
声色は明るく作っているが、寂しさは隠し切れていない。少なくとも猫にはそう思えた。
「子供達には子供達の悩みがあるんだねぇ」
「もう子供って年でも無いはずなんだけどな……」
そう言いながら巡回ロボットの指向性レーザー通信にレーザーを返す。いつも通りの雨の中、それほど太くない道を歩いていく。
「また首を突っ込むのか」
角を曲がったところに、狩衣のようなデザインのロボットが立っていた。
「まだ何も決めてないよ」
猫の手が刀の柄にかかる。
「邪魔しようというのではない。何でも斬ろうとするな」
声はそう言っているが、片手はすでに袖に収納されている。
「何でもは斬らないよ。気に入らないものだけさ」
「つまり、何でもということだろう?」
カードのような物が袖から射出される。それは空中で小さく火を噴くと軌道を変えて猫に襲い掛かった。
「うわっとっと」
光量をほぼにゼロに落とした面発光が慌てて後ろへ飛ぶ。猫はそれを視界の隅に捉えながら、開いた傘を正面に構えた。逆噴射をかけたカードが空中で静止する。
「陰陽師が絡むような話なのかい」
「ちゃんとした仕事ではない、アルバイトのようなものだ」
傘はまだ正面で開いている。ひげが水滴を蓄えている。
「……これも給金の出る仕事なのかね?」
ロボの両手は既に袖の中に収納されている。そして袖は猫の方にねらいを定めたままだ。それはつまり、いつでも多様な攻撃を仕掛けられる状態を維持しているということだ。
「人の仕事には、守秘義務という物があるのだ」
「それくらいは知っているよ。それなりの時を人と共に生きているからね」
それを聞いて何を思ったのか、陰陽師ロボは空中に静止させていたカードを袖の中に戻すと、腕を下ろした。
「それなりの時、かね」
一瞬間をおいて、吐き捨てるような声が聞こえてくる。
「結局こいつは今もただのラジコンだ」
傘をさしなおした猫が、軽く息を吐いて、問う。
「……壊してもいいのかい?」
「できれば壊さずに行ってくれないか。一から作り直すのは面倒なのだ」
その声は、長い時に疲れ切ったように聞こえた。だからだろうか、猫は余計な一言を言わずにはいられなかった。
「次は壊し甲斐のあるやつを頼むよ」
「昔の方が陰陽師らしかったと思うがなぁ」
「昔かぁ。そういえば、妖気があれば何でも滅する、みたいなこと言ってたねぇ。あれはラジコンではなかったと思うんだけどね」
猫と傘は呑気にかつての陰陽師ロボを思い出していた。
「えぇ……あのおっかないロボは結局何だったんだ」
まだ光量は絞ったままつぶやく声に、猫が答える。
「迷いに迷って作ってる人にもよくわからなくなった、一風変わった発明家のからくり人形、といったところですかね」
「以前会ったときは自分で喋ってたんだぜ」
ぴた、と猫の雪駄が止まる。雨の中だというのに白い足袋には全く汚れが見られない。ただ、足音が止まり、雨音だけが周囲を包む。猫の視線の先には黄色と黒の立ち入り禁止のテープの張り巡らされた一角。一瞬そのテープに鈴なりのてるてるぼうずが見えた気がして、猫は目を細めた。