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もうカラオケでは泣かされない

作者: 坂口正之

江田は、カラオケが嫌いだった。正確に言うと、さらにその上に「大」がいくつも付くくらい嫌っていた。

なぜ、それ程嫌いなのかと言えば、簡単なことである。それは歌が下手だからである。これも、下手の上に「ど」がいくつも付くくらいド…ヘタなのである。

当然、小学校の頃から音楽の時間は憂鬱であった。歌を歌う時間が来れば逃げ出したくなる。皆と大勢で歌うときは口をパクパクさせていれば良いのだが、独りで歌わされた時には隠しようもなく、その下手さ加減を世に披露してしまうのであった。

自分で歌いながら、音程やリズムが大きく外れていることは分かるのであるが、どうしようもない。多分、声帯の動きを満足にコントロールできないのであろう。

音痴とは耳が悪いのであって、耳が悪いから自分の声の音程が分からず、だから歌が下手なのだと良く言われる。つまり、耳の不自由な人がしゃべることが困難なように、そもそも耳の問題であると。

しかし、彼自身は自分の耳が悪いとは、全く思っていなかった。

歌の下手な人の歌を聞けば、本当に下手に聞こえたし、自分自身の歌については歌っていながら驚くべきほど下手に聞こえたのである。

中学校を卒業してからは、歌とはほとんど無縁であった。高校では芸術科目は美術を選択したし、就職してからもカラオケには極力参加しなかった。

ただ、そうは言っても、どうしても参加せざるを得ない状況もあったのである。例えば、同僚の人事異動にともなう送別会などであった。

大体の場合、二次会はカラオケになる。もちろん、異動した本人がカラオケ嫌いの時には誰もカラオケなど企画しないから、この場合には、本人ゲストが積極的にマイクを握ることになる。

しかし、それだけでは済まないのである。そんな時、彼は無論自分から歌うなんて絶対に言い出さないし、目立たないように静かに端っこでチビリチビリ水割りをなめている。あとは、早くこの会がお開きになるのを待つだけである。

そんな思いの時に限って、必ずこのようなバカなことを言い出す男が出現するのである。部屋の中をぐるっと見渡して、一番遠いところにいる彼を見付けると、

「えーと、あと歌っていない人は…。あれっ、江田さん歌っていないじゃないの、何か歌ってくださいよ…」

「いや、私は下手でとても人前で歌えるような…」

「そうは言わず歌ってくださいよ、みんな下手なんだから…、もう歌っていないのは江田さんだけですよ…」

「いや、いや、とても、とても…」

彼は、顔の前で手を左右に大きく振りながら微笑んで答える。もちろん、心の中では微笑んでなどいない。

「うるせーやつだな、ほっとけよ! 勝手に歌いたいやつが歌えばいいだろう。好きでカラオケなんか参加しているんじゃねーよ。このボケ!」

心の中では、いつもこうだった。

「まあ、まあ、そこをなんとか一曲…」

まだ、その男は諦めない。

大体このような押し問答をやっているうちに相手が諦めてくれれば良いのだが、運が悪いとこれでは治まらないのである。

そのうちに、ヘベレケになって視点の定まらない次の男が登場してくるのが、悲しいかな、お決まりのパターンである

「おうっ、江田…、ウィッ。お前なぁ、中野の送別会だろう。そんな水臭いこと言わずに、何か歌ったらどうなんだぁ…、ウィッ…。なんでもいいんだって、みんな歌っているんだよぉ…。せっかくなんだから、場を白けさせずに歌えよっ、てんだ…。エダ!」

大概、酔っぱらってこのようなことを言う男は、五十も過ぎた頭の薄くなったおやじである。こっちを見たおやじの目は、完全に左右に振らついている。

「いや、いや、本当に下手なんですよ。人前でなんて、とても、とても…」

「だから、親睦だと言っているだろう…、ヘタでいいんだよ、ヘタでぇ…、中野のためなんだから…、分かんねぇのかおめぇは…」

だんだん怪しい雰囲気になってくる。この辺で誰かが止めに入ってくれれば良いのだが、さらに運が悪いと、女子職員の中でお局様と呼ばれるリーダー格が、持っているタバコを灰皿の角にパンパンとたたき付けるようにして灰を落とし、こっちも見ずに、一言発する。

「江田さん…、いいかげんに歌ったら…」

この言葉は、ボディブローのように彼に応える。彼女は、自分は歌わないくせに、人には歌えとのたまう。

冷や汗が背中を伝う。もう彼はフラフラである。

最後は、憧れのアイドル職員のサヤカちゃんだ。

「私も一度、江田さんの歌を聞きたいわ。お願い、江田さん…」

とどめのアッパーカットを受けて、敢え無く彼はダウンする。

「じゃ、じゃ…、歌いますよ」

皆から盛大な拍手が沸き起こる。

「みんな知らないんだ、本当にオレの下手さ加減を…。くそー、歌えばいいんだろう、どうせ…」

と思いながら、マイクを握る。いや握らされるのであった。

「なんで、みんなカラオケなど好きでもないやつに歌えと言うんだ。本当は歌いたいのを遠慮しているとでも思っているのか、迷惑千万だ。えーい、もう知ったことか…」

彼が本当に悔しくてカラオケが大嫌いなのは、実はこれからなのである。

彼が歌い始めた。

掛け値なし、正真正銘の大音痴である。音程などどこにも無い。いや正確にはあるのであるが、まったく譜面と違うことは確かである。通常、無理に外そうとしても、これ程までには外せない。十分に一芸と言っていいだろう。

そんな時、回りの皆の反応が彼には耐えられないのである。小声でささやきあっているのが聞こえる。

「オイ、オイ、本当に相当なもんだぜ、これは…」

「ひどい…。こんなヘタな歌は初めて…」

「どうなっているの…。この歌、最低…」

「音痴にも、許容範囲ってものがあるよな…。しかし、こりゃー、超えているよ…」

「北山さんダメよ…、無理に歌わせちゃ。聞くに耐えないし、これじゃ江田さんがかわいそうよ、あまりに…」

彼の歌を聞いて、さっきは凄んで見せたお局様まで、いつの間にかまったく立場を変えていた。

彼は歌を続けた。途中で止める理由はないし、下手で嫌であれば、最初から歌わなければ良い訳だから、下手を理由に止める訳にはいかなかった。回りのヒソヒソ話しももう聞こえなくなっていた。

彼にとっても回りの皆にとっても、苦痛の約四分間が終了した。

拍手とともに真っ先に擦り寄って来るのが、あのヘベレケおやじである。

「いやー、江田くん。よくやった! よくやった! 本当に頑張ったねぇ…」

と言って、彼の肩を痛いくらいバンバンと何度もたたいた。

おやじが、決してうまかったとか、良かったとか言わないのが、彼には悔しかった。

おやじの顔を見ると薄らと涙目になっている。よほど彼の歌を聞いてかわいそうに思ったか、それとも回りの皆に責められて反省したのか、とにかく彼には悔しかった。

下手で歌いたくないと言っている人間に、いいから歌えと言い。いざ歌わせてあまりに下手だと、今度は慌てて皆で同情する。

同情ならまだ良いが、場合によっては物笑いにされる。そんな状況が彼には耐えられなかった。

無論、その後は誰も彼をカラオケには誘わないし、カラオケの話題さえ彼の前では避けようとする。

そうなると、万が一カラオケに参加してチビチビ飲んでいても、歌えとは言われないし、知らない人間がしつこく迫っても、お局様がびしっと止めてくれる。

「××さん、本人が歌いたくないと言っているんだから、いいじゃないの…。あまり無理に勧めるものじゃないわ…」

もう彼は、嫌な思いをしてカラオケで歌うことは無くなっていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


彼が最後にカラオケマイクを握ってから、それから五年近く経っていた。

彼自身、カラオケで嫌な思いをすることは無くなっていたのであるが、心の底には重くて糊のような、コンプレックスが固まったままだった。

いつの日かうまく歌ってみたい。歌って皆を見返してみたい。ヘエーと感心させてみたいと彼はずっと思っていたのである。

そんな時、ある新聞広告をたまたま見付けたのである。

「どんな下手な人でも短時間で上手にカラオケが歌えるようになります!」

とあった。

本当にうまくなるのだろうか。もし、そうならぜひやってみたい。少々お金がかかっても、これまでの澱のように溜まったコンプレックスを一度に払拭したいと思ったのである。彼は、仕事の帰りにその広告にある会社を訪ねることにした。

そこは、訪ねてみると思った以上に大きな会社だった。

受付けにはちゃんと受付嬢がいたし、中では何人も働いているように見えた。お客を接待する応接室もいくつもあったし、ほとんどの応接室から話し声が微かに聞こえたことからも、大勢のお客さんが来ているようであった。

彼の相手をした男は四十代半ばであろうか、頭が白くなりかけていた。一見して真面目な研究者のように思えた。

男は、とにかく一曲歌ってくださいと言いい、彼は、男の前で約五年ぶりに緊張しながら歌った。

男は、ずっと真面目な目をして彼の歌を聞いた。これまでの彼の長い人生の中でいつもそうだったように、驚いたり、笑ったり、あきれたりした様子は微塵も感じられなかった。真剣に男は聞いていた。少なくとも彼にはそう思えた。

彼が歌い終わると、男はゆっくり口を開いた。

「江田さん。当社は音大の声楽科を優秀な成績で卒業した者による密度の高いレッスンにより、音程、リズム、ボイストレーニングまで、基礎をじっくり固めることにより、階段を一段ずつ上るように進歩を繰り返し、上達していくことを基本としています」

この言葉を聞いて彼は、自分にぴったりのスタイルだと思って頷いた。

「しかし、あくまでもこれは基本です。江田さんの歌を聞いた印象ではこれではちょっと無理ではないかと…」

「無理?…」

「そうです。基本からやっていたのでは…」

「どういう意味でしょうか?」

「怒らないでください。江田さんの歌はあまりにもひど過ぎる、とてもこのプログラミングでは上達は望めない」

「…」

二人は見合ったまま、時間にすればほんの僅かではあるが、言いようもない重苦しい沈黙の時を過ごした。

「つらいですが、あえて言いましょう。いくらテニスを教えようとして立派なコーチを付けても、ラケットを握ることが出来なければ、どうしようもありません…」

「ラケットを握るところからコーチすれば良いのではありませんか」

「うちには、その様なプログラムはありません。それをやるとすれば、もう病院の世界です」

「すると、私の音痴は病的だと…」

「そうです。カラオケやテニスを楽しむ以前の問題です」

「それじゃ、どうすれば良いのですか、永久にあきらめろと…」

男は黙ってうつむいた。

しばらくして、思い出したように椅子から立ち上がると何も言わず、その部屋から出ていった。そして数分後、赤い表紙のファイルを抱えて戻ってきた。

再び、彼の前に男は座ると、こう言った。

「これまでは、江田さんのような本質的な音痴については、手の施しようがありませんでした。しかし、一方でそのような方の中には、何とか歌を上手に歌いたい。人前で自信をもって歌いたいという人も大勢います」

「その通りです」

彼は、大きくうなずいた。

「実は、そのような希望に応えるために、当社はある新しい方法を開発中なのです」

「新しい方法?」

「そうです。これはこれまでの治療法を大きく超える革新的なものです」

いつの間にか、男の話が上達法から治療法に変わってしまっていた。

「まだ研究開発の段階なので、これはごく限られた一部の人達しか知りません。現在、特に必要と認める人を選んでモニターになってもらっているところです」

「私が、その対象に…ですか?」

「江田さんはこのモニター対象としては、極めて適任と考えられます。まさしく江田さんのような根本的な音痴のためのものなのです。今、常務に話して江田さんをモニターとして採用することの了承を取り付けてきました。もし、江田さんさえよろしければ、この治療法を試してみることも可能です。もちろんモニターとしてですが…」

「モニター…、それは私に実験材料になれということですか…」

「否定はしません。モニターですから、ある意味ではそういった捉え方も出来るかもしれません。江田さんには我々の治療法を受けて、その結果の感想、気付いた改良点などを答えてもらえば結構です。もちろん、モニターですから無料。お金は取りません」

「無料といったって…、いったいどんな治療法なのですか?」

彼は、治療法と言ってしまってからハッと気が付いたが、いまさら慌てて言い直す気もしなくなっていた。

男は、透明なプラスチックで出来た小箱を開けると、中にある腕時計の竜頭ほどの小さな円盤状のものをピンセットで摘んで、彼の目の前に掲げた。

「この小さな装置を声帯に取り付けるだけです」

「声帯といったらノドじゃないですか。そんなものどうやって…」

「口からファイバースコープを通し、それを操作しながら取り付けます。至って簡単です。外見も何も変わりありません。取り外しもまたファイバースコープで簡単にできます。取り付けていて違和感もありません」

「だいじょうぶですか?」

「だいじょうぶです。人体への影響はありません、本当に…」

男は自信ありげに答えた。

「その装置でどうしてうまく歌えるようになるのですか?」

「この装置は、声帯の動きをコントロールしている神経に電気信号を送るものです。声帯の動き自体は、脳から送られてくる電気信号によりコントロールされているものですから、外からの信号によっても自由に動かすことができます。つまり、音程にうまく合うように声帯を締めたり、緩めたりしてやれば良い訳です。声帯を締めるように電気信号を与えれば声は高くなります。逆に緩めてやれば音程は低くなります」

「それは分かりますが、その装置はどうやってカラオケに合わせて電気信号を出すのですか」

「大変良い質問です。カラオケ装置からの電波によりコントロールするのです。つまり、カラオケ装置本体からは選択曲に合わせて電波を飛ばし、その電波を受信したこの装置は電気信号を声帯につながる神経に伝える。それによりある音程の声が出ます。その声をマイクが拾い、カラオケ本体の中のコンピューターに伝える。コンピューターは即座に音程を計測し、伴奏と一致していないようならば再び電波信号を変えて歌の音程が合うようにフィードバックを行う。そういったものです」

「そんなに簡単に言いますが、うまくフィードバックできて、本当に上手に歌えるようになるのですか?」

「これまでのところ全てうまく行っています。失敗はありません」

「しかし…、今の話しだと、ノドにその装置を取り付けたとしてもカラオケ装置本体が特別なものでないとダメな訳ですよね。そのようなカラオケはどこに行けばあるのですか。その辺のカラオケボックスに行っても設置してあるのですか?」

「そうなのです。そこがこのシステムの最大の問題点だったのです。しかし、今、我々は全国シェアの約四割を占めるカラオケ装置メーカー最大手のT社とこの話を進めています。T社としては、本当にうまく歌えるようになるのであれば全機種にこのシステムを設置したいと。事実、一般の人達には分からないと思いますが、最新鋭機種のKIシリーズと命名されているものは、試験的にこのシステムが内蔵されています」

「えっ、ということは、既にそれをノドに取り付けている人が何人かいると…」

「そうです。もう人前で歌っています」

「何人くらい?」

「三百人ほどは…」

「そんなにいるんですか…、だったらもうモニターなんか要らないのでは…」

「いやいや、足りません。実は、このシステムに一つの問題がありまして、ノドに取り付ける装置のメモリー容量の限界から全ての曲に対応できる訳ではないのです。対応できるのは今のところ一曲だけなのです」

「一曲しかうまく歌えないということですか?」

「その通りです。その他の曲は下手なままです。だから一曲ごとにモニターを探しているところなのです」

「一曲ごと?」

「一曲二人までです。二人のモニターが欲しい…」

「北酒場はどうですか。もう二人いますか?」

彼は、モニターになることにまだ同意はしていなかったのであるが、もう三百人もいると聞いて、いつの間にか自分も乗り遅れてはいけないと思い始めていた。

男はキーボードをたたいて、コンピューター画面を見詰めた。

「あー、既に二人いますね…」

「天城越えは?」

「アマギゴエ…、たぶん…。ああ、これも二人いますね…」

「…」

「若い人でこちらに来られる人は少ないのですよ。だから、若い人が歌うような曲だったら…、そうですね、それ程若くないところで小室ファミリーなんかの曲だったら…」

「とんでもない、止めてくださいよ。難しくてとても…」

「決して難しくないですよ。この治療をすれば声帯が勝手に伴奏に合わせて動いてくれる訳ですから、何も本当にあなた独りで歌う訳でない」

「いや、止めときます。やっぱり演歌じゃないと…」

男は、コンピューター画面を見ながら言った。

「演歌ですねえ…。演歌はね、皆さんがまず言うのですよ。だから、どうしても残りが少なくなる…。でも、本当のところやっぱり演歌が一番良いのですよ。なぜなら永く歌えるし、飽きが来ない。若い人の歌は、今は流行っていても、半年も経つともう誰も歌わなくなるし、逆に歌うのが恥ずかしくなる。あなたが最初に言った北酒場なんかもう二十年近く経つのに未だに…。ああっ、良いのが一つ残っていますよ…、本当かな…、こんなのが残っていたなんて…」

「なんですか?」

「夢芝居ですよ…」

「ユメシバイ…、あの小椋佳の…」

「そうです。これはまだ一人です。なんでこれが残っていたんだろう、カラオケの定番で人気曲ですよ、これは…」

「夢芝居なら私も大好きで…、本当に私でだいじょうぶですか…」

「何度も言うように、誰でもだいじょうぶです」

「それじゃ、何とかお願いします」

「分かりました。じゃこの紙に住所、氏名、年齢、電話番号を書いてください。手術の予定は来週の金曜日の午前です。詳細は、こちらから改めて電話いたします」

男は、一枚の用紙とボールペンを彼に差し出した。

「手術なんですか?」

「メスが入るのは声帯の近くのほんの一部だけです。二十分ほどで終りますし、午前中には帰れます。注意として、その日一日はあまりしゃべらないようにして頂くくらいですから、なんのご心配もいりません」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


予定通り、彼は手術を受けた。男の言ったとおり簡単だった。ノドにスプレーで麻酔をかけただけで、ファイバースコープを使って、それはあっという間に終わった。麻酔が切れた後もノドに違和感や不快感は無く、普段と全く変わりは無かった。

その三日後には、待望のテストが行われた。結果は、すばらしいの一語に尽きるものだった。

KIシリーズのカラオケをバックに歌ったものは、とても彼の歌とは思えなかった。プロの歌手、いやそれ以上にうまく聞こえた。

独りで勝手に声帯が動いて歌ってくれるのである。彼はただ肺からの息を声帯に通していれば良い。自分では単に声を出しているだけのつもりだが、口からは音程の付いた歌となって出てくるのである。

しかし、夢芝居以外の曲は以前の下手なままであった。また、KIシリーズ以外のカラオケ機種では同様に全くダメであった。

「よおーし、これでだいじょうぶだ…。どうせカラオケなんてマイクを離さないくらいたくさん歌うやつは嫌われる。回りの人間とやや距離をおいて、ウイスキーの水割りなんかをもの静かに飲みながら、ストイックに田村正和のように装いながら、いざという時に一曲だけ決める。それも、無茶苦茶にうまく。それ以外は一切歌わない。誰が勧めようともその一曲だけ、それで終わり。後はお開きまで再び田村正和だ…、かっこいいぞ…」

彼は、独りほくそ笑んだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


それから一か月近くが経ったが、なかなかそれは実行に移せなかった。職場で自分からカラオケ行こうとも言い出せず、まして、T社のKIシリーズを設置してあるどこの店とも言い出し難く苦悩していた時に、運良く忘年会の二次会の場所が駅向こうのカラオケボックスと決まったのである。彼の一か月の調査によれば、その店はどのボックスもKIシリーズを設置している。

あとは、皆に付いていくだけである。これまでカラオケには参加していなかったから、自分から付いていかないと誰も誘ってくれない。

それはしょうがないとして、問題はいつ歌うと言い出すかであった。


当日、作戦通り彼は、部屋の隅で独り静かに飲んでいた。いや田村正和になっていたつもりである。

当然、誰も彼に歌わないかとは言わない。じりじりと時間だけが経っていった。無情にお開きの時間が迫ってくる。今日は無理かなと思った時である。あのお局様が彼に声をかけた。

「江田さん、今日はめずらしいじゃないの、カラオケに来るなんて…」

「いや、たまにはカラオケもいいかと…」

「なに独りで眉間に皺を寄せて、しかめっ面しているのよ…、ぜんぜん楽しそうじゃないわよ…」

「そうかな…」

田村正和はよけいなことはしゃべらない。

「そうに決まっているじゃない、暗いわ…。でも、カラオケじゃしょうがないか…」

最後のセンテンスは、彼女が独り言のようにつぶやいた。

「じゃ、一曲歌おうか…」

彼にはこの一言を言うことが、清水の舞台の欄干に足を掛けるような気持ちに思えた。

「無理しなくていいのよ、本当に…」

彼女は、五年前のことを思い出していた。

「やめたほうがいい?」

「ううん、そんなことは無いけど…、無理には…」

彼女は、彼の思いもよらない突然の言葉に驚き、どう答えて良いのか分からなくなっていた。

その時、横でそれを聞いていた昨年入省した若い男が割り入ってきた。

「江田せんぱい、一度せんぱいの歌を聞きたかったんですよ。ぜひ一曲…。何にしますか…」

「じゃ、じゃ、夢芝居を…」

彼は、とうとう清水の舞台から飛び下りた気持ちだった。

「えっ、夢芝居ですか…、せんぱい…」

その時、お局様の眉がピクリと動いたような気がした。

「なんかまずいの、夢芝居は…」

「いいえ…、じゃ、入れますよ。えーと…」

なぜか、リモコンを操作する若い男の手は微かに震えていた。

前奏とともに回りの皆がガサガサし始めた

「江田さんが歌うの? 夢芝居、本当?」

「えっ、夢芝居。だいじょうぶかよ、オイ…」

「夢芝居歌うんだって…」

彼は歌い始めた。

うまい! 本当にうまかった。声が澱みなくずっと伸びていたし、コブシの入りがすごかった。練習以上の成果だった。

しかし、皆の反応は今一つどころかはっきりしなかった。彼にしてみればもの凄くうまく歌えたはずなのに、拍手もまばらだった。それこそ、お義理でしているような拍手だった。

「どうしたのだろう。ほとんどの皆が私の歌なんか聞いたことが無いのだからもっと盛り上がっても良いはずなのに、やっぱり下手なのだろうか。あんな苦労して手術までして…」

そう思い彼は悩んでしまった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


翌朝、彼はモニター用の報告用紙に結果を書いた。散々な結果だったことを。とても思った成果が上がらなかったことを。

その書いた用紙を封筒に入れてポストに投函すると、講演会場に向かった。

その日は、××法改正内容の説明会の日であった。彼が役所の職場でずっと手掛けてきた法律改正の業界への説明会だったのである。

規制緩和により業界の自主管理を促進する今回の改正内容の説明には、五百人を超える多くの業界関係者が集まっていた。

彼は、改正内容の説明を始めた。始めて十分も経った時であろうか。どこからか微かに何かの音楽が聞こえてきた。

彼は、どこかで聞いたことがある音楽だな、何の曲だろうと思いながら話しを続けた。

その時だった。突然彼の口から歌が飛び出した。

「おとことおんなぁ~ あやつりつられ~ ほそいきずなの~」

うっ、何だと思った。そして次の瞬間目の前が真っ白になった。

「あっ、どこかにKIシリーズが…、どうやって止めるんだ。えーと止め方は…、聞いていないぞ、どうするんだ…」

そう思って、慌てて口を噤んだ。歌はおさまったが、しゃべれなかった。

聴衆はざわめいていた。彼が突如として夢芝居を歌い出し、そして黙ってしまったことに、誰もが驚きを隠せなかった。

そんな騒ぎの主人公として、ただ黙って演壇に突っ立っていることに耐えられなくなった彼は、何とか講演を続けようとして再び口を開いた。

「こいはいつでも~ゆめ~しばい~」

マイクに拡張された彼の歌は、会場中に響き渡る大音量で最もコブシの利いたサビの部分をプロも負けじと歌い上げた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


そんな頃、彼の職場では隣どうしの女子職員二人が話しをしていた。

「江田さんもすごいわね、ヨーコおねぇの持ち歌を堂々と歌うなんて…」

「ほんと、お開きの前にはヨーコおねぇが必ず夢芝居を歌うって、知っててやったのかしら…?」

「知らなかったのでしょう…。だって江田さんカラオケなんて全く参加したことないんだもの…」

「でもね…、あんなに上手に歌うことないじゃないの、ずっとおねぇは口を真一文字にして睨んでいたわよ…」

「あれじゃ、おねぇもこれから夢芝居は歌いにくいよね…。でも、あなたおねぇの夢芝居以外の歌って聞いたことあって?」

「そう言えば、おねぇはあの一曲だけよね…」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


同じ頃、ヨーコお局様は歯の治療に出かけていた。

いつも通っている歯科医院は、職場から三百メートルほど離れたビルの二階にあった。そのビルの三階には貸ホールがあり、今日は同じ職場の江田が講演していることを知っていた。

隣のビルには、新しいカラオケ店が開店したばかりだった。彼女は、早いうちに今度ここに来てカラオケ機種を調べてみなければと思っていた。

大きく口を開けて治療を受けていた時だった。突然、どこかで聞いたことのある音楽が聞こえてきた。

その瞬間、彼女は歌い始めた。

「おとことおんなぁ~ あやつりつられ~ ほそいきずなの~」

歯科医は驚いて、危うく手に持ったエアードリルを落としそうになった。しかし、それ以上に驚いたのは彼女であった。

「どうしたの…、どうしてこうなっちゃうの。あー、止め方は…、何にも聞いていないわ…、どうしたらいいの…、どうしたら…、だからモニターなんて…」

彼女は、そう思いながらも歌い続けた。

(おわり)

本作品は、1999年(平成11年)11月13日に作成したものです。

このため、現在では考えられないカラオケボックス内でタバコを吸っている表現などがありましたが、そのままにしてあります。また、カラオケの曲名が「北酒場」、「天城越え」、「夢芝居」など相当に古い曲名や小室ファミリーの曲が今の流行りの楽曲のような表現。さらには、男優の田村正和さんの表現がありましたが、そのまましてあります。

なお、作品中で、オチを生かすために「彼が忘年会の二次会で夢芝居を歌った際に、お局様が一緒に歌ってしまわないように」、ある工夫をしてあります。どこにその工夫があるか分かりましたでしょうか?

ヒントは、「講演会で彼が慌てて口を噤んだところ歌がおさまった」の表現にあります。

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