あんこの中の小宇宙の話
原宿の竹下通りと言えば、若者の流行の中心である。
七色に輝く綿飴だとか、韓国発伸び―るチーズの軽食だったり、かわいらしいイチゴ飴なんかが最近の流行なのか。タピオカは流行っているのだろうか。
原宿と言えばクレープ。で止まっている私としては、若者文化の流行り廃りにはついていけなくなっている。
二十代だって十代から見ればおじさんおばさんだろう。
さてクレープには果物と生クリームが乗っている甘い物が好きだが、あんこを使ったクレープも同様に好きである。
愛知県には小倉トーストなる物があり、これはトーストの上にバターとあんこをたっぷり乗せた悪魔のような食べ物である。背徳的な美味しさである。一説にはユダがキリストを裏切ったのもこの小倉トーストのため、などと名古屋界隈では囁かれているが、それもあながち嘘とは思えなかった。
さて、話を竹下通りに戻すが、かつてこの場所にあんこ屋があったのをご存知だろうか。
五月堂というその店は、創業者が五月生まれだとか、恋人に逃げられたのが五月でその腹いせだとか、隣の某が好きだとか様々な噂を呼んでいる。しかし店の名前はあんこの美味しさに関係ない。
そこでは男が働いているが、彼が店主なのかは誰にもわからない。しかし彼しか見ないので彼が店主に違いない、と誰もが思っていた。
男は熱心な男である。
一年中、店に立ち、休む日と言えば正月と大晦日くらいである。一年の始まりと終わりさえ休めれば何も求めない男であった。
ある日、あんこを炊いたならば、次の日は店頭でそれを売り、それがなくなったらまたあんこを炊く。そんな生活を続けていた。
彼は太陽と共に起き、太陽と共に眠る男であった。
日の出と同時に目を覚まして、どんなに寒い朝でも三十秒後には布団から出ていた。
彼と布団とはビジネスライクな関係である。いつまでも布団が恋しく離れられない私とは大違いである。
まず、大きな鉄鍋に小豆を入れる。そして小豆がひたひたになるくらいの水を入れて火を点ける。後は焦げないようにかき混ぜ続けるだけであった。
時折、水を足したり、砂糖を入れたり、塩を加えたり。そんなことをしながら長い時間をかけて彼はあんこを作っていた。
彼は言う。
「小豆の一粒の粒には銀河が広がっている」
小指の爪先ほどもない小さな小さな小豆である。そこに銀河が広がっているのだ。
仮にその銀河が地球のある天の川銀河だとしよう。
地球一つだけで考えても約七十億の人が暮らしている。七十億の魂が小豆の一粒に宿っているのである。
その小豆が二粒になれば百四十億。三粒になれば二百十億。百粒、千粒になったら数え切れないほどの魂が宿っている。
そんな小豆が煮詰められ、あんことなる。
彼にとってあんことはそれだけの重さを持っているのである。
丹念に丹念に小豆を炊き続ける。ほんの一粒でも焦がしたら七十億の魂が蒸発するのだから慎重な作業だ。
そして水分が飛び、ドロドロを通り越してペトペトになった小豆をこしていく。こうしていわゆるこしあんが出来上がる。
膨大な量の魂がこねられ、こしあんの中で一つの巨大な魂へと変わる。その巨大さと言えば、他人のポイ捨てもちゃんとゴミ箱に捨ててあげる少年なにも巨大さである。
彼はその作業を一年中続けていた。
手間をかけただけあんこは美味しくなり、五月堂のあんこの美味しさは主に主婦の口から口へと渡って行く。
しかし電車もない時代なのでわざわざ遠くから買い付けに来る人は少なかった。
人々はただ、美味しいあんこが原宿にあるらしい、と口々に噂するだけである。
今の時代ならばたちまち行列ができたであろう。タピオカの黒い粒の代わりにあんこ玉でも入っていたかもしれない。
現代の重さ、値段に換算すれば百グラムで二百五十円である。皆様もぜひ、過去の原宿、竹下通りへ行く機会があったら五月堂へ立ち寄ってみていただきたい。
ちなみに私はつぶあん派である。ちゃんとつぶあんも売っている。
昨日はお休みでした。いえい。




