相談
「先生、ありがとうございました。おかげで不安がなくなりました」
境界例患者のジョン・コリンズが、診療室を去り際、マーテンスに言った。
「お大事に……」
ちらと患者を見るとマーテンスは答えた。
円盤事件は終結していた。その日の午後になった途端、ぱたりと患者が来なくなったのだ。あとは日常の入院または通い患者の診察で、マーテンスの診察時間は過ぎていった。
別のお告げでもあったんだろうか、と一頻り診察が終わり、伸びをすると、マーテンスは思った。まさかな。集団ヒステリーだったんだろう、おそらく……。
実際、そのような集団ヒステリー事件は過去にもあった。有名なのは――テレビで取材され、ニュース番組として放映されたこともあるが――七年前のオレンジ郡の事件で、このときは太陽の磁場異常が原因の電波障害が引き金になってテレビ、ラジオが聞こえなくなり、誰かが、宇宙人が、神が、何かが、われわれの生活を監視している、といった流言が飛び交った。中には、それが起こる前に円盤または何かを見た/聞いた、というものまで現れた。その現象は二日半も続いたが、電波障害がなくなり、人々の間に正常に情報が流れ始めると、嘘のようにぴたりと止んだ。幸いなことに犠牲者が少ない事件だったが、人間集団は不安な状態に置かれると、その不安を軽減するため、情報を創り出してしまう生き物らしい。だから原因がはっきりすれば、とりあえず騒ぎは収まるのだ。
が、しかし……と、マーテンスは思った。窓の外を見遣る。【安売り】看板の端の方が目に留まった。
あの看板は実在している。円盤患者の集団ヒステリーが収まった理由は今のところ謎だが、あのときリック・ヘンスンが言ったように、その原因の一つが看板にあるのだとしたら、いつまた方向を変えて出現するかもしれない。
そのとき――
「マーテンス先生、お電話です」
若い看護婦が診療室に顔を覗かせると言った。
「ジャック・トーマスさんという方からです」
「ありがとう」
答えて、習慣的に机の上の送受機を取ろうとし、マーテンスははたと気づいた。
「外線の放送はなかったよな?」
確かに電話子機の外線番号ランプは点滅していない。看護婦を見遣ると部屋に入っており、マーテンスに自分の掌中のものを差し示した。
「わたしの携帯に連絡が入ったんです」
その他にも何か言いたそうだったが、看護婦は不安な表情のまま、それ以上は何も言わなかった。
「わかった」
とマーテンスが答える。
「借りるよ」
言って、携帯電話を受け取った。
「もしもし……」
電話は切れていた。
すごく厭な気分だった。
「きみ、名前は?」
携帯を返しがてら、マーテンスは若い看護婦に訊ねた。
「シンシア・バーネットです」
看護婦は答えた。
「系列病院からここに配属になったのは三日前です」
「ここのところ、ごたごたしていたから、まったく気がつかなかったな」
「ええ、わたしの方もご挨拶する機会がなくて……」
改めて良く見てみると、シンシア・バーネットは睫の長いブロンズ・ヘアの女性だった。どちらかというと痩せているように見えたが、白衣から覗いた足にはきれいな筋肉がついていた。
マーテンスの視線に気づくと、
「高校のときに陸上をやっていましたから……」
とシンシア・バーネットが説明した。ちょっと困ったな、という表情を浮かべている。部屋に妙な空気が流れた。
「あの先生、実は……」
一瞬の緊張後、意を決したようにシンシア・バーネットが言った。
「相談があるんですけど……」
「きみ、今日はもう終わりか」
壁の時計を見、マーテンスが訊ねた。
「七時に退けですから、あと三十分くらいです」
「じゃ、終わったら、下のロビーで待っていてくれないか。それまで、わたしはここで調べものをしているから……」
柔和な笑顔を浮かべ、シンシアを見つつ、
「今日は妻が仕事で遅くてね、晩御飯を食べて帰らなきゃならないんだ。それに一緒してもらい、きみの相談を聞くことにしよう」