第九話 お母さん
リトルナーレの傷は三日経っても閉じなかった。傷口が閉じるまで、僕らはウェルばあの家にいた。血は固まらず、かさぶたも出来なかった。
「傷が深すぎるんだよ。大丈夫。絶対閉じるからね」
包帯は朝と晩に取り替えられた。ウェルばあは特別な布に薬をたくさん塗って、その上から包帯を巻いた。
「これで血は固まるの? こんなに薬を塗るの?」
リトルナーレは不安そうに聞いた。僕は傷口を見ないように彼女の顔を見続けた。
「薄く塗ると、傷口とくっついてしまって剥がす時にすごく痛いんだよ。だからこうしてたくさん塗る必要がある」
そうして、五日も経つと傷口は傷跡になっていた。包帯を外してウェルばあは傷跡をじっと見た。
「うん、もう大丈夫。跡は残るかもしれないけれど……」
「治ったのならいいわ。ありがとうウェルばあ」
リトルナーレは笑ったけれど、僕は赤紫色の傷跡を見ながら、それでも痛そうだと思った。
桟橋は取り壊されて、少し経つとまた新しいのが出来ていた。
採れる果物や薬草がまた少し変わり、夜になると布団がもう一枚必要になった。僕らはウェルばあに新しい薬草を教えてもらい、それをウェルばあに渡した。
することもないので、僕とリトルナーレは震えながら海へ入り、砂浜に行った。陽の当たる砂浜の上で足を伸ばすと、リトルナーレは優しく笑った。
「どうしたの?」
彼女は笑って初めて会った時のことを思い出していたと言った。白いスカートがひらひら揺れていた。白い砂浜に不思議と映えていて、僕は目を細めた。引いていく波を見ながら、彼女は持ってきていたうらうずがいをポケットから出した。
僕はリトルナーレの手を握った。白い傷跡を指で触って、ここから血が出ていたんだと思い出した。少し強くなぞっても、傷跡は開かなかった。リトルナーレは海の遠くを見ていた。
リトルナーレは時々こうやって海を見ていた。じっと海の一点を見詰めながら、指先だけを微かに動かしていた。
そんな時、僕は何も言わずに傍にいた。彼女がまた両親のことを考えているのは明らかだった。それに、何だか疲れているようにも見えた。僕の服を掴んで、くっついていることが多くなった。そんな時、僕はじっと傍にいた。
リトルナーレは泣くことが多くなり、森へ行っている時も、紅貝を拾っている時でも、突然ポロポロと泣きだした。僕が潜っている間にも泣いていて、上がってくる頃には砂浜にしゃがみ込んでいることもあった。
その日も海へ潜ってうらうずがいを獲り、海面から顔を出すと、リトルナーレが泣いていた。僕は驚いて貝を放り出し、急いで浅瀬に戻った。
「どうしたの?」
でも、彼女は答えなかった。いつもそうだった。泣いても理由を教えてくれなかった。黙って僕の服を掴み、少し怒りながら泣いた。いやいやと頭を振っていたけれど、僕にはわからなかった。
暗くて賑やかな夕方頃になると、リトルナーレはそういう風に泣いた。沖へ出て潜っていても、泣いているんじゃないかと心配であまり深くは潜らなかった。
彼女の目はいつも腫れていて、擦り過ぎて赤くなり「痛い」と言って水で冷やしていた。僕は濡れた顔をそっと拭いてあげた。それぐらいしか僕に出来ることはなかった。
森の木が枯れて落ち始めると、村の人たちは木の実を保存するためにたくさんの大きな籠を置いていた。僕は今日も森と砂浜へ行こうと起き上がると、リトルナーレはベッドにもたれ掛かって床に座り込んでいた。
「リトルナーレ?」
「……お母さん、やっぱり帰って来ない」
リトルナーレは膝を抱えて俯いた。
「私、お母さんのことずっと待ってたのに。砂浜にいても、お母さんのこと考えてたのに」
そう言って責めていたけど、目が赤くなっていることに僕は気付いていた。僕は気持ちが暗くなって黙っていたけど、突然リトルナーレが言った。
「一人でいたいの。帰って」
帰る? どこへ?
僕は一瞬訳が分からなくなったけれど、すぐに僕が住んでいたあの家のことだと気づいた。あの家が僕の家だった。そうだ、忘れていた。
「リトルナーレ……森とか海に行かないの?」
慌てて聞くと、低い声で「行かない」と言った。
外に出ると扉が乾いた音を立てて閉まった。僕は一人そこに取り残されて、リトルナーレの家にも入れてもらえず、海へ行く気にもなれず、仕方なく自分の家へ行った。
空気は冷たく、寒気がした。もうすぐ冬がくる。でもそれだけではなく、あの乾いた扉の音を思い出すた度に胸が痛くなった。涙が出た。
僕はその日、冷たいベッドで眠った。
次の日にリトルナーレの家に行っても入れてくれなかった。またその次の日に家へ行って、扉を叩いて名前を呼ぶと、ゆっくりと扉が開いた。出て来たリトルナーレは唇が白く、顔色も悪かった。
「どうしたの? 調子悪いの?」
驚いて声を上げると、リトルナーレは虚ろな目をして呟いた。
「私、もう何もしない。食べ物もいらない。家にいる……」
扉にもたれ掛かってそう言うと、またよろけながら家の中へ入って行ってしまった。僕も家に入ろうと思ったけれど、リトルナーレが帰ってと言って扉を開けたのを思い出して入らなかった。家のぎりぎりの所に立って声をかけた。
「でも、何か食べないと……」
「いらない。レステ一人で行って」
そしてまた、あの音を立てて扉は閉められた。
僕は一人で森へ行き、薬草と果物を採り、街へ行った。街に着いた時にはもう陽が落ちていて、どうしようかと考えながらウェルばあの店に行った。
「おや。リトルナーレはどうしたんだい?」
「リトルナーレは、もう仕事しないんだって。家にずっといるって」
籠を差し出すと、ウェルばあはそれを受け取って机の上に置いた。ウェルばあの膝にある毛糸を見ながら、お母さんが帰って来ないんだ、と呟いた。
「帰って来ない? 街へ行っていて、今までもそうだったんだろうに?」
「うーん……。今までは、帰って来てたみたいなんだ。僕も確か一回見た。でも、その時からは見てないんだ……」
そう言うと、そんなの初耳だ、どうして今まで言わなかったんだと怒られたけれど、僕は言わなくても良いと思っていたし、リトルナーレが言わなければ重要じゃないと思っていたと言った。ウェルばあはため息をついた。僕はどうしてウェルばあが怒るのか分からなくて項垂れた。
「それで、いつから帰って来てないって? 夏頃とか、その程度で良いから」
「えぇっとね……最後に来たのが……確か、海に入れるようになった頃。春かな。僕ら、帰った後で海で泳いだんだ」
「まさか、もうすぐ冬になるのに」
信じられない、と首を振るウェルばあに、リトルナーレが心配なんだと言った。
「海が冷たくなってきた辺りから、リトルナーレの調子が悪いんだ。一人で海に行っちゃうし、家から出て来ないんだよ」
ウェルばあは何も言わなかった。僕はすごく不安になってきて言った。
「……ねぇ、ウェルばあ。僕どうしたらいいんだろう。リトルナーレ、家に入れてくれないんだよ。閉め出すみたいに扉を閉めるんだ。僕たまんないよ」
ウェルばあは答えてくれなかった。僕は泣きたくなった。そう、閉め出そうとしているのだ。でもそしたら、一体何を代わりに招き入れるんだろう。お母さんは帰ってこないのに。
その夜はウェルばあの家で眠った。ベッドはやっぱり冷たかった。
帰る時に、ウェルばあはリトルナーレの分のパンもくれた。そして明日リトルナーレを連れておいでと言った。僕は食べ物を持って彼女の家に走った。
「リトルナーレ!」
扉は開かなかった。物音ひとつ聞こえない。
「ウェルばあがね、明日店においでって言ってたよ」
それでもリトルナーレの返事はなかった。聞こえなかったのかもしれない。僕はもう少し大きな声で言った。
「リトルナーレ。僕、心配なんだ。ねぇ、家に入ってもいい? ……入るよ?」
扉を開けると、淀んだ空気が流れてきた。独特の臭いがする。僕は奥の部屋の方へ歩いた。
「リトルナーレ?」
彼女はベッドに寝ていた。うつ伏せになって、顔を手で覆っていた。リトルナーレは小さくて、あるいは小さく見えて、僕はベッドの傍に寄って彼女の肩に触れた。
「リトルナーレ……大丈夫?」
少し揺すると彼女はこちらに顔を動かした。リトルナーレの顔は白くて、前髪が顔に張り付いていた。
「どうしたの? 泣いてたの?」
「何もないわ」
そう言うと、リトルナーレは顔を歪ませた。聞いた事もないぐらい小さくて、弱い声だった。
「お母さん、帰って来ないの。私、お母さんに会いたい。みんな私のこと知らないんだもの。私、どこに行けばいいの。どうすればいいの、これから」
彼女は泣き出した。でもとても静かに泣いた。ポロポロと涙を落して、息を乱さずに泣いていた。僕は胸が痛くなって、苦しいぐらい痛んで、リトルナーレの涙を拭いてあげた。多分ずっと泣いていたのだ。だからこんなに、慣れたみたいに静かに泣くのだ。
僕はそっと背中を撫でた。リトルナーレが泣くのは堪らなかった。彼女はとても悲しそうに泣いた。ウェルばあの家には行けないと言ってまた泣いた。
鳥の鳴き声を聞かなくなり、果物は一気に採れなくなっていた。寒くなってきて、僕らは体を寄せ合って一緒にいた。ベッドは暖かかった。それでも僕は悲しかった。