第八話 傷
熱さが弱くなってくる頃には、リトルナーレは窓の外を全く見なくなっていた。同じころに、夕方になると一人で海に行くようになった。ついて来ないでと言われたので、僕はぼんやりと外を見ているしかなかった。そしてこのままリトルナーレが帰ってこなかったらどうしよう、と不安になった。そう思うとじっとしていられなくなって、家の中をうろうろと歩き回った。リトルナーレはすぐに帰ってきて、僕は倒れそうなほど息を吐いて安心した。
獲りすぎたのか、海にはもう貝はほとんどいなかった。毎日獲っていたからそうなるのも当然だった。海は入ると寒く感じるようになっていて、薬草も果物も採れるものがまた変わり始めていた。ガラス瓶の中の紅貝とうらうずがいは増えることもなく、僕とリトルナーレは家で暇を持て余した。
何となくノートを開いてみたけれど、書くことさえ何もなかった。リトルナーレは丸とバツを書いていくゲームを教えてくれた。僕は何度やっても負けた。五回負けて、僕は嫌になってノートを閉じた。リトルナーレは笑うと僕の肩に顔を寄せた。暖かかった。僕も彼女の肩に頭を寄せた。
リトルナーレは泣いていた。
ウェルばあの家へ行った帰り、静かな長い雨と冷たい風が吹きだした。僕らは急いで家に帰り、次に森へ行く日まで碌に家を出なかった。僕とリトルナーレは心地良いベッドの中で遊んだ。
雨が完全に上がってしまうと、きれいに澄んだ空と海が見えた。
「ねぇ、海へ行こうよ」
僕は何度も誘ったけど、リトルナーレは肩をすくめてガラス瓶を触るだけだった。
「でも、もう冷たいと思うわ」
「寒中水泳だよ。行こう」
僕が笑って言うと、リトルナーレも笑った。
水はやっぱり冷たくて、僕らは震えながら砂浜へ行った。一度濡れてしまうと、海の中の方が暖かかった。浅瀬から海を眺めていると、船が一隻も出ていないことに気づいた。そういえば浜辺にも人はいなかった。変に思ってリトルナーレに聞いてみると、手を擦り合せながら言った。
「あぁ……多分、お祭りがあるのよ。詳しくは知らないけど、毎年やってるらしいの」
そういえば子供の頃、何度か大きな音やきれいな色に飾った船を見たことがあった。あれは祭りだったのか。リトルナーレはどうして行かないのかと聞くと、私は前から行かなかったのよと言った。
「ねぇ、泳ごうよ」
「私? 無理よ、もう納泳をしたって言ったでしょ」
リトルナーレは首を振ったけれど、僕は沖の方へ泳ぎながら言った。
「でも、今は誰もいないよ」
しばらく考えた後で、リトルナーレは笑って肩まで海に浸かった。「じゃあ、泳いでみる」
リトルナーレが泳ぐのを見るのは初めてだった。水は冷たく、沖の方へ泳ぐ頃には彼女の唇は紫になっていた。それでも僕らは楽しく泳いだ。白いスカートは海の中でゆらゆらと揺れていた。揺れる様を見ながら、きれいだなぁと寒さに痛む頭で考えた。
「体が覚えてるんだわ」
僕らはどれだけ泳げるか競争した。泳いでいると、黄色い浮袋が目に入ったので驚いて止まった。
「沖に出過ぎた」
リトルナーレも泳ぎを止めて、辺りを見回した。誰もいない。波もきつくなっていた。
「戻りましょう。さらわれるわ」
急に底無しに思えてきた海を考えないようにして、なんとか桟橋の所まで泳いだ。桟橋の比較的腐っていない所に手をかけて、リトルナーレは笑いながら息を整えた。
「あぁ、怖かった。でも結構泳げたわ」
「桟橋から上がろう。僕も疲れた」
リトルナーレが両手を桟橋について上がろうと跳ねると、何かが当たったような音がしてリトルナーレが落ちた。
「どうしたの?」
見るとリトルナーレの左の手のひらから血が流れていた。桟橋は崩れ、ボロボロと腐っていた。傷口は血が山のように膨らんでいた。暗い赤の血は、海に落ちると鮮やかな赤い煙になって広がっていった。僕はどんどん流れてくる血を見ながら呆然とした。
「リトルナーレ……」
傷からは血が流れ出ていく。左腕に赤く光る線がいくつも走った。リトルナーレは傷口を広げてよく見ようとし、しばらくすると顔をしかめた。広げられた傷口を見て僕は肩を狭めて目をつむった。とても痛そうだった。
「木くずは入ってないわ」
変なものは入っていなくても、リトルナーレの血は滲んだみたいに、煙のように、海へ広がっていった。その煙は僕の方へも近寄ってきて、僕はそれをかき混ぜて消した。
リトルナーレは右手だけで桟橋へ上がろうとして、出来ずに左手を桟橋に乗せて支えた。
「大丈夫? どうしようか?」
「くらくらするの……」
確かにリトルナーレの顔色は悪かった。僕は急いで腐っていないところから桟橋に上がってリトルナーレの右手を掴み、彼女も左肘を使ってなんとか海から上がった。
桟橋にもぱたぱたと血が落ちて、海水と混ざって滲んでいった。ぞっとする程たくさんの血が落ちていった。僕はリトルナーレがいなくなってしまう、リトルナーレが死んでしまうと恐怖で頭を抱えた。
「海水が浸みて痛いの。何かで巻かなくちゃ……」
そう言いながら家の方へ歩き出したリトルナーレについて行きながら、僕はフラフラしている体を時々支えた。冷たい海から上がって風に吹かれていたので、僕らの体はますます冷えていった。
「あるけど……それでもういいの? 痛くなくなるの? 血は止まるの?」
「しばらく痛いと思うけど。それよりも、血を止めないと……」
言いながら、リトルナーレはその場に座り込んでしまった。僕は泣きそうになるのを堪えながら顔を覗き込んだ。
「リトルナーレ……」
「頭がフラフラするの……浮いてるみたい……。ねぇ、レステ……私死ぬのかしら」
リトルナーレの傷口からはまだ血が出ていた。嫌な匂いがその赤い血からしていた。血の匂いで吐きそうになりながら、彼女の顔についた水をぬぐった。
どうすればいいのか全然わからなかった。立っている足の裏が痛く感じた。僕はリトルナーレの右手を絶対離さないように強く掴み直した。血は腕を伝って肘から地面へ落ち、血の筋がいくつも走ってそのままで固まっていった。
「寒いし、痛い……お母さん……」リトルナーレは目をこすってもう一度言った。「お母さん……」
僕は立ち上がって、ぐったりしているリトルナーレを見下ろしてから、村の方を見回した。だめだ。村の人がリトルナーレを助けてくれるもんか。お母さんもどこにいるかわからない。でも、早くしないとリトルナーレが死んでしまう。
「……そうだ。ウェルばあの所へ行こう!」
リトルナーレは驚いた顔で僕を見た。どうしてそんな顔をするのかわからなくて、僕は困ってしまった。でも決めた。
「ウェルばあなら、何とかしてくれるよ。だって何でも持ってるし、何でも知ってる。僕……僕何にもしてあげられないんだよ。どうすればいいかわからないんだもの。でも、街へ背負って行くぐらいはできると思うんだ」
リトルナーレは白い顔のまま、手首を押えていた血まみれの右手で僕の手を掴んだ。
「ありがとう」
リトルナーレの体は重くて、途中で何度か休まなければいけなかった。腰は痛いし腕はしびれたけれど、背負っている間に出血は少なくなっていき、水が混ざったような血が少し出るぐらいまでになった。
それでも降ろしたり傷口に当たったり手を動かしたりすると血はまた溢れた。だから僕らは傷口をまるで宝物のように、そうっと、そうっと扱わなければいけなかった。体が濡れていて寒かったけれど、二人体をくっつけていると少しは暖かかった。リトルナーレは震えていて、僕の首に腕を巻いた。「置いて行かないで」
僕はぜえぜえ言いながら息を整えた。置いて行ったことなんかないのに、リトルナーレはもう一度言った。置いて行って海へ行ってたのは彼女の方なのに、と僕は不思議に思った。服についた血から濃い血の匂いが上がってきてクラクラしながら答えた。
「置いていかないよ。街へ行くんだ」
街が見えてくると、リトルナーレは安心したように息をついた。頬に触れたその息はとても暖かくて、あぁ、もう大丈夫、リトルナーレは死なないと思った。
ウェルばあもやっぱりとても驚いたけれど、それでも大丈夫、血はもうすぐ止まると言った。体が冷えているのに気付くとすぐに暖炉に火を入れてくれた。
「結構深いね。血が止まってよかったよ。縫わないといけなかったかもしれない」
「ぬ、縫う?」
「縫うって、あの、針と糸の、あれのこと?」
僕とリトルナーレは詰まりながら聞いた。ウェルばあに貸してもらったタオルで体を拭きながら、傷とウェルばあを交互に見た。
「そうだよ。これに懲りて、少し気をつけなね」
少し沁みるよ、とリトルナーレの手にアルコールをかけながらウェルばあは笑った。僕らは顔を見合わせて、彼女の左手を見た。僕はへとへとで、床に立っている足の裏がとても痛く感じて、砂浜に靴を置きっ放しにしてきたことに気づいた。
家の裏に井戸があるから、そこで血を洗い流すように言われた。井戸は村や道にあるものとほとんど同じで、周りは高い壁に囲まれていた。
水を浴びながら、この血はリトルナーレのものなんだ、そして傷口は塞がるらしい、リトルナーレはいなくならなかったとまたほっとした。
体はきれいになったけれど、服には血がたくさんついたままだった。乾いてパリパリしていたからもう付かなかったけれど、あの独特の匂いは残っていた。袖を通すと肌が痛かった。
部屋に戻るとリトルナーレ白い顔をして火に当たっていた。左手には白くてきれいな包帯が巻いてあって、僕は三度目だけどほっとした。ほっとしてもしたりないと思った。ウェルばあに傷に気をつけて血を落としなさいと言われて、リトルナーレは出て行った。
その日はもう夜になっていたので、ウェルばあの家に泊めてもらった。僕らは、特にリトルナーレは血まみれの服を着ていたので、ウェルばあは明日新しい服を上げようと言った。
「洗えば落ちるんじゃないの?」
「落ちることは落ちるけど、跡が残るからね。あまり気持ちの良いものじゃないし……サイズも合っていないようだし」
僕はリトルナーレを見た。袖は手首よりも短くて、スカートからは膝が見えていた。最初に会った時はもっと長かったような気がする。そういう僕も袖はきつくなって、ズボンも短くなっていた。
「いくら栄養が足りなくても、成長期だからね、伸びるもんさ。そういうのは」
「ありがとう、ウェルばあ」
顔色が少し戻ったリトルナーレは笑った。僕も一緒に笑った。
朝になると、ウェルばあはもう白いスカートと水色の服を持っていた。
リトルナーレは別の部屋に行って着替え、僕もきつくて着心地の悪い服を脱いで誰かの服を着た。ウェルばあは服の裾を何回か引っ張ると頷いた。
「うん、丁度良いじゃないか」
「でもこれ少し大きいよ。脱げちゃうよ」
「我慢しなね。……リトルナーレも少し大きいかい?」
ウェルばあが呼ぶと、リトルナーレは扉を開けて出て来た。前と同じような服を着ていて、確かに違う服のはずなのに、同じ服に見えた。
「少し。でも脱げないと思うわ」
リトルナーレは笑って言った。そして僕の着ている服を見た。
「ありがとう。同じようなのをくれたの?」
「そっちの方が良いと思ってね。その白いスカートなんかそっくりだろう」
僕は頷いた。そしてもう一度自分の着ている服を見て触って、これは僕の服なのだと確かめた。