第四話 紅貝とうらうずがい
泳げるようになると、僕らは毎朝海へ行った。貝殻を集めたり、鳥や花を見たりして一日中過ごした。お腹が空くと、森で実を採って食べた。
リトルナーレが海に入ったのはあれきりで、それからはいつも浅瀬で紅貝を拾っていた。海の深くへ潜るための呼吸法を教えてもらうと、僕は暇さえあれば潜っていた。魚はあまりいなかったけれど、海の底にはたくさんの貝があって、僕はその日、小さな渦を巻いている貝をひとつ獲った。
海面から顔を出すと、砂浜に白いスカートがよく見えた。
「リトルナーレ!」
叫んで手を振ると、リトルナーレも気づいて振り返してくれた。僕は浅瀬まで戻って、リトルナーレに獲った貝を見せた。
「見て! これ僕が獲ったんだよ」
砂浜で見ると、その貝はとてもきれいな淡い色をしているのがわかった。薄くてかすかな紅色が段々と白くなっていた。リトルナーレはその貝に指先で触れた。
「うらうずがいね。きれい」
僕はリトルナーレに紅貝をもらったことを思い出して、この貝をあげると言った。するとリトルナーレは貝を触る手を止めて僕の目をじっと見た。目を見開いて、うらうずがいを見て、もう一度僕を見た。
「くれるの? 私に?」
「うん。泳いでたら、たくさん見たよ。もっと獲ってきたらうれしい?」
海を振り返りながら聞いても、リトルナーレは僕の顔をじっと見ていた。「くれるの?」リトルナーレは僕が変なことを言ったみたいに繰り返した。「くれるの? 私に?」
「……じゃあ、私、これお母さんにあげようかな」
「だめだよ、なんで? これはリトルナーレにあげたんだよ」
なんでお母さんが出てくるんだ? そんなの絶対に嫌で、僕はダメだともう一度言った。
「あげるよ。リトルナーレにあげる」
そう言うと、リトルナーレは何度か瞬きをした。三回目の瞬きでリトルナーレの目からポロッと何かが落ちた。リトルナーレはその一粒が落ちると瞬きを思い出したようにやめて泣き出した。僕はびっくりして持っていた貝を落としてしまった。
「嫌なの? 嫌ならね、嫌なら…」
悲しくなりながら僕はうなだれた。貝がいらなくて泣いたのかと思ったけれど、リトルナーレは泣くのを止めてうらうずがいを拾った。
「いるわ。いる……」
リトルナーレは手のひらで転がして笑った。僕はだれかに何かをあげるのは初めてで、喜んでくれたので恥ずかしくなった。
「うれしい?」
「うん。ありがとう」
笑って言うと、リトルナーレはうらうずがいを大事そうに眺めた。僕はまた海へ潜って、うらうずがいを探した。リトルナーレはうらうずがいをずっと眺めていた。
暗くなってから家へ帰ると、リトルナーレは僕があげたうらうずがいをベッドの向かいにある家具の上に置いた。
「小さいタンスだね。服入るの?」
「これはチェストよ。うーん、まぁ、タンスみたいなものだけど」
チェストの中にはいろんなものが入っていた。二つ引き出しがあって、一番上のヒキダシには紙切れや貝殻、干からびた海藻まで入っていた。下には森で拾ったらしい果物の殻や種なんかが入れてあった。
「うらうずがいは入れないの?」と聞くとリトルナーレは首を振った。「これは一緒にしたくない。ここに置いておくわ」
リトルナーレがそう言うので、僕もまくら元に置いていた紅貝をチェストの上に置いた。チェストの上で転がる貝殻はとてもきれいだった。僕はそれらを思い切り抱き締めたくなった。リトルナーレはうらうずがいを指でつついて転がした。
「それにね、ここに置いておくと、いつでも見れるでしょ?」
リトルナーレは僕の方を見て笑った。僕はますますリトルナーレが好きになった。
そうして、多分一週間経ったころ、またリトルナーレのお母さんたちが帰ってきた。僕は以前のように窓から出て、家へ帰った。寒くはなかったけれど、家に帰るととても静かで、変な臭いがして、僕は嫌だったけど狭く感じるベッドで眠った。なかなか眠れなくて、何度も起きたけど、やっぱりリトルナーレはいなかった。
陽が出てリトルナーレの家に行くと、また前と同じあの料理を食べていた。
「海へ行こうよ」
僕がそう言っても、リトルナーレはじっと目の前の料理を見ていた。不満そうに口をゆがめていたけど、僕を見て「なんて? ごめん、聞いてなかった」と言った。
「海へ行こうよ。あの砂浜。うらうずがいを獲ってきてあげるよ」
そう言うと、リトルナーレはしばらくしてから少しだけ笑った。
「ありがとう。私もレステのために紅貝を拾うわ」
リトルナーレのお母さんはまた一週間が経っても、その日帰ってこなかった。
僕はどうしたんだろう、と思うぐらいだったけれど、リトルナーレは暗い窓の外を何度も見ながら僕に言った。
「お母さん、どうしたのかな? いつも一週間ごとに帰ってきたのに……」
「わかんないけど、どうもしてないと思うよ」
そう言っても、リトルナーレは何もない外を何度も見返した。月が高く昇っていくと、リトルナーレは泣いてしまった。僕はリトルナーレが泣いたのを見て驚いて、不安になった。
「大丈夫だよ。そのうち帰ってくるよ」
リトルナーレは顔を手でおおって首を横に振った。
「お母さんは、私のこと忘れてないよね? ……私のこと、一番大事で大切だって。言ったのよ。そう言ってたの……」
そう言って、もう一度「お母さん、私のこと大事だって言った」と言った。僕はよくわからなかったけど、うなづいて、元気づけようと思ってうらうずがいを取ってきてリトルナーレの手に乗せた。
「お母さんはリトルナーレが好きだよ。だって料理作ってくれて、帰ってきてくれるもの。僕もリトルナーレが好きだよ。それはリトルナーレのものだよ」
リトルナーレはうらうずがいをじっと見て、涙を拭いた。そして「もう寝よう」と言った。ベッドに潜り込みながら、僕のお母さんは僕のこと好きなのかなぁと考えた。お母さんを見たこともなかったから、その人が僕のことを好きなのかわからなかった。
でも、リトルナーレは僕のことが好きだと思った。僕はリトルナーレが大好きだからだ。
リトルナーレのお母さんは次の日も帰ってこなかった。僕らは砂浜へ行って、貝を拾った。リトルナーレは悲しそうな顔をしていて、僕は何とか喜ばせようとうらうずがいを十個ぐらい獲ってみた。いくらでもいたからだ。遠く離れた浅瀬を見ると、白いスカートが揺れていた。
浅瀬にいたリトルナーレに渡すと、また泣きそうなほどとても喜んだ。僕はお返しにとてもきれいな紅貝をもらった。
その夜、リトルナーレはうらうずがいを手の中で転がしながら言った。
「街って、遠いかしら」
「まち? ……リトルナーレのお母さんって、街に行ってるの?」
「そうよ。前に言ったでしょう? 私のために大きな白い家を探してくるからって」
白く大きな家。街の家。僕は街を知らなかった。街と村の違いさえよくわからなかった。そこにも海はあるのかなと考えていると、リトルナーレは沈んだ声で呟いた。
「お母さん……」
リトルナーレはじっとベッドの枠を見つめて、不安そうな声で言った。
「どうしてかしら。……帰ってくるよね? ねぇ、どうしたのかしら」
リトルナーレが不安そうにすると、いつも僕まで不安になった。僕はたまらなくなって「わかんないよ」と叫んでしまった。するとリトルナーレは動かなくなってしまったので、慌てて言った。
「何か、別のことで帰れないだけだよ。二週間でしょ? 僕なんかずっとだよ。すぐに帰ってくるよ!」
「……ずっと? ずっとなの? 一度も?」
リトルナーレが二回も聞いたので、僕はうなずいた。リトルナーレの声はいつもの声に戻っていたので、僕は安心して言った。
「僕が生まれてすぐに、街へ行っちゃったんだって。でもね、お母さんもお父さんも、僕のために家を探してくれてるんだよ。街でね、大きな白い家を探してくれてるんだよ」
僕はリトルナーレと同じことを言った。リトルナーレの話を聞いて、きっと僕のお母さんもそうしてくれてるんだと思った。でなければ、お母さんたちは何をしていると言うんだろう。
「レステも? レステも白い家に住むの?」
リトルナーレは眠そうに目を擦って言った。僕もあくびをした。
「そうだよ。白い家でね、大きなベッドがあって、それからオシロイバナもたくさん咲いてるんだ……」
「そうね、そうよね。」
僕もリトルナーレも笑った。二人でも大きいベッドの上で跳んだりでんぐり返しをして、一番おいしい果物はどれか話をした。すごく楽しい夜だった。僕らは笑いながら眠った。ベッドはとても暖かかった。
それから一週間後に、リトルナーレのお母さんは帰ってきた。僕は窓から出る時に紅貝をひとつ取って、しばらく思い出しもしなかった家へ走った。
冷たいベッドに潜り込みながら、お母さんたちが帰ってくると何が変わるのなぁと考えながら眠った。お母さんが帰ってくると、僕もリトルナーレも落ち着かなくなった。なのでお母さんが帰ってくることはあまり良いことじゃないように思えた。僕は紅貝を握ったまま眠った。
次の日、リトルナーレは僕の家の前で座っていた。
「あの料理は? もう食べたの?」
リトルナーレは黙って立ち上がると、僕の手をつかんで砂浜へ歩き出した。リトルナーレの目と鼻は赤くなっていて、砂浜に着くまで振り向かなかった。
砂浜に着いても、じっと座ったままだった。僕は沖からそっとリトルナーレを見ていた。
それからも僕らも砂浜へ行った。けれど潜ろうと沖へ泳いでも潜れないこともあった。歩くだけでクラクラした。リトルナーレも「しんどい」と言っていた。
それでも海へ行った。泳がなくても浅瀬で足を冷やしたりした。暑く感じるようになった日差しを避け、僕らは注意深く木陰になっている岩にもたれた。
暑くなって虫が鳴き出すころに、僕は海水につかりながらお母さんたちが帰って来た時のことを思い浮かべた。白い家がある。白い大きな家。屋根は赤くて、窓から海が見える。窓は三つあって、お母さんのと、お父さんのと、僕の分。海からはオシロイバナに囲まれた家が見える。そして、僕は遠い家を見て言うのだ。
「あの家には僕のお母さんとお父さんがいるんだ」
でもそれは何だか現実感のないものだった。そもそも、お母さんたちがいたら何がどう違うんだろう? いくら考えてもわからなかったから、僕は今住んでいるリトルナーレの青い屋根の家を思い浮かべた。
「あの家には、リトルナーレがいるんだ」
「あの家の空気は、僕が窓を開けなくても変な臭いがしないんだよ」
僕は目をつむって泳いだ。そしてもう一度お母さんたちを思い浮かべた。けれど、よくよく見るとお母さんたちは首から上がなかった。注意深く見ても、顔がなかった。
遠くからリトルナーレが呼んだ。もう一度目をつむると、窓の向こうには一人しかいなかった。それはリトルナーレだった。
僕は目を開けて、笑って手を振った。