第十五話 私を呼ぶ声
気が付くと、私は家の外に立っていた。オシロイバナが咲いてる。空は真っ黒だった。私は雲の見えない空を見続けた。怖くて目が離せなかった。
その時話し声が聞こえた。道の方から足音も。私は息苦しくなって喉を押さえた。聞きたくないの。何も言わないで。頼んだけど、止めてもらえなかった。私はまた言った。言ってることぐらいわかるの。言いたいことぐらい、わかってるから。
追い打ちをかけないで、お母さん。私頑張るから。気に入られるように頑張るから。
早くなる息を止めると空を何かが飛んで行った。鳥だ。白い羽の……鳥が。後退さるとオシロイバナの群れにぶつかった。海を見ると空と繋がっていた。真っ暗だった。私はその場に座り込んだ。
お母さん……何のために、帰ってきてるの? 私のこと、大切だからでしょう?
私は悲しくなって顔を覆った。二つの足音と声は近付いてくる。今度は耳を塞いで顔を隠した。違う。大切じゃなかった。私のこと、いらなかったんだわ。ずっと前からいらなかったんだ。いらなかったんだ……。
「僕と一緒だ」
優しい声がして、顔を上げたけど誰もいなかった。すると誰かが背中を擦ってくれた。その手は優しく、暖かかった。その手はお母さんじゃはなかった。それでもその声と手が、私に一番優しいものだった。
「お母さん、私のこと嫌いだったの」
「うん」
「みんな私のこと嫌いだったの。誰も私のことなんか知らない。私のことなんてどうでもいいんだわ。だから置いて行ったの。誰も私のことなんて好きじゃないのよ」
私は言いながら泣いた。背中の暖かい手はずっと擦ってくれていた。悲しくて悲しくて、涙が流れなくなっても、私は泣いた。
「リトルナーレ。僕……心配なんだ」
「僕なんでもするよ。何にだってなるよ」
そう言ってその手は何かを差し出した。
うらうずがいだ。
ずっとお母さんが怖かった。でもそれと同時に大好きだった。優しい言葉を聞いて、一緒に海へ行って、笑いながら隣りにいたかった。絵本なんかいらない。料理なんかいらない。何もいらないから、一緒にいてほしかった。
それでもお母さんは何も言わずに行ってしまった。行ってきますも、良い子にしててねも、何も言わなかった。それなのに、何もかも持って行ってしまった。私のことなんか、少しも気にせずに。私はそんなにちっぽけな存在だったのだろうか。
私は一番になれなかった。
それでも彼は私のためにうらうずがいを獲ってきてくれた。そう、あの人も私にいろんな物をくれたわ。靴や服や知恵を。何度も果物やパンをたくさんくれた。傷口も手当してくれた! 時々見かけるおじさんはいつも私にあいさつしてくれたし、村の端から三件目に住んでるおばさんは私をいつも気にかけてくれてた……。
「リトルナーレ、そんなに痩せて」
声がした。心配そうな声だった。
「お前たちのためなんだぞ。元気にやれよ」
私のため? 私のために、声をかけてくれた。
また涙があふれて、私は顔を覆った。一体どれくらい泣いたのか、どうしてそんなに悲しいのか、自分でもよくわからなかった。
「私のこと好き?」
そう聞くと、好きだよ、と返ってきた。好きだよ、大事だよ、という声は、何度も繰り返し頭の上でこだました。顔を上げると、空がだんだん明るくなってきれいな青空になっていた。遠くには海も見えた。沖で、手を振る人がいた。
「リトルナーレ……」
私も手を振り返した。何度も振っていると、突然、街へ行きたくなった。街にいる、そう、ウェルばあに会いたかった。顔は怖いしがらがら声だけど、いつも明るくて、笑顔で出迎えてくれる……。
固いものを踏んで、足元に紅貝が落ちているのに気付いて拾った。砂を海水で落として、スカートで拭くときれいに光った。レステにあげよう、と思った。そう、レステだ。あんまり賢くなくて、でも優しくて、一生懸命で、私はそんなレステが大好きだった。
もう一枚、紅貝があったから、ウェルばあにあげようと拾った。二人とも喜ぶと思った。私も嬉しかった。レステも、ウェルばあも、大好きだったから。
*
早朝に仕事を手伝って、海で遊んだら家に帰ってリトルナーレの衣服を洗う。ご飯を食べたり勉強をして、リトルナーレに本を読んであげる。それから寝る。
そういう毎日を繰り返して、僕はいろんなことに慣れた。ルディカは絶対に三日毎に来てくれて安心だったし、漁の仕事をかなり覚えて魚をもらえることもあった。僕は魚を焼く技術も習得して、家の前で焼いたりした。この匂いでリトルナーレが起きないかと期待したけど、やっぱり起きなかった。
仕方が無く、僕は魚を一人で食べた。リトルナーレにも食事をあげて、シーツを干しに外に出ると満月が出ていた。家に戻って、灯りを手元に寄せて、本を読んだ。
「えぇと……どこからだったっけ……」
ページを繰って今日の場所を探していると、突然小さな息遣いが聞こえた。ふうふう、はぁ。僕は心臓が飛び出るほど驚いた。それは本当に突然のことだった。ゆっくり顔を上げてみると、リトルナーレは目を開いて僕が持っている本を見ていた。繰っているのをじっと見ていたのだ。久しぶりに見るリトルナーレの目はきれいだった。きれいな茶色の目をしていることを忘れてしまっていた。目が合うと、リトルナーレは潤んだ目をして小さく笑った。
「リトルナーレ」
そっと声をかけると、リトルナーレは口だけを微かに動かした。僕は体がふわふわと浮いているような気がした。
「おはよう……」
そう言ってから、今は夜だと気づいた。でもリトルナーレは前よりも笑って目を閉じた。笑ったまま、涙を一粒落とした。それを見て、僕も笑った。何を言えばいいか、言葉が出てこなくて、本を手に取った。そうだ、ルディカがくれた本にノート……。
「いろんな事が、あったんだよ」
リトルナーレの傍に行って手を握ると、微かに握り返してくれた。それで僕は泣いてしまった。
チェストにある紅貝とうらうずがいをひとつずつ渡した。彼女は荒い息を何度かすると、また笑った。笑って、小さく僕の名前を呼んだ。
「ルディカを、呼んでくる。お医者さんだよ。それにウェルばあも。ファヴィも元気だよ。おばさんにも、教えてあげなくちゃ」
嗚咽が止まらなくて苦しかった。力が入らなくて座り込んでしまい、僕はベッドに顔を埋めて泣いた。リトルナーレはちゃんと戻ってきてくれた。僕のことを忘れていなかった。僕も、リトルナーレを置いていかなかった。それだけのことが、すごく大変だった。
僕は眠る前のリトルナーレのように泣きじゃくった。涙は止まらなかった。握り返してくれる手が暖かくて、あぁ僕らもう大丈夫だと思った。