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第十四話 想い

 声がした。

 隣りの部屋から聞こえる二人の声。何かをすごく嫌がってる。私は布団を頭までかぶって聞こえないようにした。でも知りたいような気もした。それから足音がして、遠ざかって行って、聞こえなくなった。

 また一人になってしまった。お母さんに抱きしめてもらったのって、最後はいつだったかしら。他の子は抱き締めてもらってた。私はそれをよく家や森の隅から見ていた。

 いいの、私にもお母さんがいるから。そう、お母さんがいる。抱きしめてくれないけど。笑ってもくれないけど。声を掛けてもくれないけど……。でも、それが私のお母さんだから。

 私は悲しくて泣いた。

 泣いたら、お母さんが帰ってくると思った。ごめんね、遅かったね、ずっと待ってたんだねって言って帰ってきてくれると思った。抱きしめて、手を握ってくれると思った。

 足音が聞こえないか耳を澄ませたけれど、波の音しか聞こえなかった。私はまた悲しくて泣いた。

「リトルナーレ」

 誰かが私を呼んで、頭を撫でてくれた。

 でも、振り向いてもだれもいなかった。暗闇が広がってるだけ。

 私はまた泣こうとしたけど、誰かが髪をといてくれのに気付いた。櫛が頭に当たって気持ちが良くて、私は泣くのをやめた。

「……お母さん」

 怖くて振り向けなかった。その手は優しくて、何度も丁寧に髪をといてくれた。でも違和感があった。お母さんは私の髪をといてくれたかしら?

 思い切って振り向くと、大きな手しか見えなかった。シワが多くて、お母さんの手じゃなかった。誰かしらと思っていると、その手は私の髪にまた櫛を入れた。

「お母さん?」

 返事はなかった。でも、その手は私の髪をすき続けてくれた。お母さんでない手がお母さんのようなことをするので、私は悲しくて泣いた。

 泣いて、本当のお母さんが帰ってきてくれるのを待った。


  *


 おばさんはルディカに言われてあまり来なくなり、漁の手伝いをするようにもあまり言わなくなった。おばさんは少し機嫌が悪そうにしたけれど、僕をじっと見つめて少し笑った。

「そうだね、確かにお前が傍にいた方がリトルナーレも安心するかも。ただし、何かあったらすぐに言いな。いいね」

 僕はちょっと怖かったけど、返事をした。でも多分おばさんに言いに行くことはないと思った。ルディカだけでなく、ウェルばあが来てくれるようになったからだ。

 ルディカは相変わらず、三日に一度リトルナーレの様子を見に来てくれる。大きな鞄を持って、ふうふう言いながら街からやってくるけど、年の割に元気に見えた。

 診察はいつも同じ手順だ。まず脈をとって、血圧を計って、聴診器を胸に当てて、まぶたを無理矢理開けて光を当てる。ルディカは僕に小さな時計をくれて、リトルナーレに何時にご飯をあげたか、水をどれくらいあげたか書いておくように言った。僕がノートにそれを書いておくと、ルディカがそれをチェックしてくれた。

「これで良くなるの?」

 僕は毎回聞いた。ルディカはいつも「少しずつね」と言った。

 ウェルばあも時々来てはいつも同じことをした。リトルナーレの手を握って、頬を撫でて、僕に注意をする。

「お前はちゃんと食べてるのかい」

「食べてるよ」

「確かにちょっとは太ったかね」

 僕はいつも何を言われるのかとドキドキした。

 その後、いつも一時間ぐらい話をした。拾った貝のこと、新しくできた友達のこと、漁に使う道具のことなんかを話した。たくさん話してから、リトルナーレが眠っていることについて話した。

「リトルナーレ、起きないね」

「そうだね」

「僕だけ勉強して、遊んでたら、やっぱりリトルナーレは悲しむのかな」

 ウェルばあはリトルナーレの傍にいろとしつこく言っていた。リトルナーレはずっと眠っていて、何もできないのに、僕だけいろいろやってずるいのかな。僕がそう言うと、ウェルばあは首を振った。

「どんどん遊びな。勉強もだよ。ルディカも言っただろう、リトルナーレを忘れちゃいけないが、レステ、あんたも自分のことを忘れちゃいけないよ」


 ウェルばあに言われて、僕は早速浜辺に行った。浜辺には、よく一緒に遊ぶ子が船に座って何かしていた。僕は駆け寄って手元を覗き込んだ。

「あ、レステ」

「何してるの?」

 その子はきれいな虹色の貝殻を持っていた。欠けているけど、内側はきらきらと光っていた。虹色に見える貝は何度か見たことがあったけど、こんなにきれいな貝は見たことがなかった。

「きれいだね」

「これあげるよ」

 その子が差し出したので、僕はちょっと考えてからその貝をそっと取った。紅貝と同じぐらいの大きさだったけど、薄くてすぐ欠けて壊れてしまいそうだった。

「……ありがとう」

「もう一個あげる」その子は僕の手にもう一個貝を乗せた。「リトルナーレの分」

 僕は貝を見ながら、これをリトルナーレが見たら喜ぶだろうなぁと思った。そう言ったら、その子も笑って言った。

「リトルナーレが起きたら、一緒に遊ぼうよ。そしたら、この貝を拾った場所、教えてあげる」

 僕はその子をじっと見た。何も考えてないような笑顔だった。僕は不思議に思って聞いた。

「どうしてこんなのくれるの?」

 その子は困ったように空を見上げて、うーんと考えて、今度は肩をすくめた。

「友達だからかな。あときれいだったから、喜ぶと思って」

「僕と一緒だ。僕も、リトルナーレが喜ぶから、うらうずがいを獲ってたんだよ」

 ということは、この貝はリトルナーレが僕のために拾ってくれた紅貝と同じだ。僕は一気にこの子が好きになった。僕のために貝をくれたからだ。僕もこの子のためにうらうずがいをあげようかと思ったけど、なんだかリトルナーレに悪いから、何か別の貝をあげようかと聞いた。でもその子は自分で獲れると言った。だから、今度きれいな貝を見つけたら、リトルナーレにあげることにした。

 起きた時にたくさんきれいな貝があったら、きっと喜ぶと思った。


  *


 暗闇の中、誰かが私の手を引いた。私は引かれるままに歩いた。怖かったけど、この手はお母さんのような気がしたから黙っていた。暗い森を抜けると、小さな砂浜に出た。

「お母さん」私の手を引く人に声をかけたけど、手はあっという間に黒い霧に覆われて消えてしまった。

「お母さん!」

 私は辺りを見回しながら一生懸命叫んだけれど、お母さんは現れなかった。叫んでも、泣いても、砂を蹴ってもお母さんは現れなかった。

 私は大声で泣きながら、右手に何か持っているのに気付いた。パイだった。温かい、焼きたてのパイだ。お母さんが作ってくれたのかしら?

「お前は料理が上手だね」

 顔を上げても誰もいなかった。でもその声はお母さんじゃなかった。お母さんは私のことを褒めたりしなかった。

 じゃあ、誰が私のことを褒めてくれたんだろう? 私はパイを見つめた。

「私……」

「おいしいよ」

 その声がまた言った。優しい声だった。私は呆然と真っ暗な向こうに目を向けた。誰もいない。突然左手を握られて、手の方を向いたけどやっぱり誰もいなかった。

「ねぇ、明日は何する?」

 その手はそう言った。明日? 私に明日の話をしたけど、私はお母さんといたかった。お母さんを待つために家にいたかった。……でも、お母さんは私と明日の話なんかしなかった。お母さんの明日の中に、私はいない。でもこの手は私に明日何をしようと言ってくれた。

「明日……」

 私はまた泣いた。涙が少しだけ出て、あとは胸が締め付けられただけだった。

「明日は、紅貝を拾うわ」

 その手の先が明るくなっていって、誰かの口元が見えた。同じ年頃の男の子だ。その子が笑って言った。

「じゃあ、僕はうらうずがいを獲ってくるよ」

 私はうらうずがいと紅貝が入った瓶を思い出した。それは突然足元に現れて、太陽の光に当たってきらきら光った。私はそれを抱えてほっと息をついた。

 これは私がその子のために拾ったもので、その子が私のために獲ってくれた貝も入っていた。それを抱きしめていると、また深い暗闇が足元を流れ出した。でも、怖くなかった。

私のために獲ってくれた貝。これがあれば大丈夫だと思った。私のために獲ってくれたものだから。

私のために……。


  *


 ルディカは診察のあと、僕が勉強したノートに赤いチェックを入れた。僕は間違った問題を数えたけれど、ルディカは僕を褒めてくれた。

「前より出来るようになってるね」

「本当?」

 僕は嬉しくて笑った。返してもらったノートをリトルナーレにも見せた。前より二つ正解が多いんだよ、と僕は言った。その日、ルディカは注射器でリトルナーレの血を採った。僕はアルコールの臭いに鼻をつまんだ。

「リトルナーレが起きたら、ルディカのことを嫌いになるかもね。針で刺したって」

 そう言うと、ルディカは注射器を丁寧に仕舞いながら大きな声で笑った。

「そうかもしれないなぁ。私はリトルナーレが大好きなんだけどな」

 それを聞いて僕はすごく驚いた。ルディカはリトルナーレを大好きだったのか。そんなこと知らなかった。

「どうしてリトルナーレが大好きなの? 話したこともないのに、どうしてわかるの?」

 ルディカは笑って、そうだなぁと眼鏡を外して拭いた。きれいになった眼鏡を掛けて、チェストの上のガラス瓶を見た。

「私は彼女をよく知らないけど、君たちが取ってきた貝があんなにある。それも大切に仕舞ってある。私はそういうことをする子は好きだ。起きたらもっと彼女を好きになると思うな」

 ルディカは笑って言った。僕はため息をついた。分かったようで、分からなかったけど、ルディカがリトルナーレを褒めたのは分かった。

「リトルナーレが聞いたら喜ぶと思う」

「そうだね。起きたら楽しいことがたくさんある、自分のことを好きな人がたくさんいるってことを教えてあげなきゃならないね」

 そう言うとルディカはリトルナーレの頭を撫でて、頬も撫でた。

「ゆっくり休んで、それから目を開けてごらん。そしたら今度はもっとよく周りが見えるだろう……」

 リトルナーレは何も言わなかった。僕も彼女の手を握って話しかけた。

 ルディカは明るくリトルナーレに話しかけたけど、ウェルばあはどちらかというと悲しそうに話しかけた。僕はそれを聞いていると少し気が滅入った。

「もっと声を掛けてあげればよかった。こんなことになってしまうとは」

 そういうことを何度も言った。ウェルばあは首を振った。僕はその度に説明した。

「リトルナーレはお母さんに帰ってきてほしかったんだよ。ずっと待ってたんだ」

「リトルナーレ」ウェルばあは手を握って擦ってあげた。「お母さんが大好きなんだね」

 そして僕に向き合うと言った。

「私はあんたたちの母親にはなれない。でも、大事なことはそこじゃない。それがリトルナーレにも伝わっていると思っていた。お前は分かってるね、レステ?」

 正直言うと全くわからなかった。それがウェルばあにもわかったらしく、僕の腕を強く掴んで言った。

「母親だけが、あんたらを気にしてる訳じゃないんだよ。わかるね。そりゃあ、母親のようにはなれないよ。でも幸せになってもらいたいと思ってるんだよ。その気持ちを無碍にしないでおくれよ」

 さっぱりわからなかった。まずムゲという言葉がわからなかった。ウェルばあがお母さんじゃないのは知ってると言うと、ウェルばあはうーんと唸った後、もう一度言ってくれた。

「つまり、あんたたちが大好きだってことだよ」

 わかった、そういうことだと僕は笑って頷いた。僕もウェルばあが大好きだと言った。


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