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あなたを呼ぶ声  作者: 貴戸わたり
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第十三話 ここにいるあなた

 暖かくなって、もう入れるだろうと久しぶりに海へ降りていくと、同い年ぐらいの子供が五人も立っていた。僕はもう村の子供に負けなかったけれど、それでもこんなにいると足が震えた。

 下を向いて急いで通り過ぎようとすると、その一人が声を掛けた。

「ねぇ、暇?」

 足を止めて、なんでもないように「ううん」と答えた。勉強をしたり、リトルナーレの傍にいないといけないからだ。彼らは何も言わず、お互いの様子をうかがっていた。その様子がすごく不安そうだったから、どうして、と聞くと、その子は安心した顔で近づいてきた。

「遊ばない?」

 遊ぶ? 遊んだら、それをきっかけにまた何か意地悪を言うのだろう。僕は言われたくなかった。黙っていると、もう一人の子が前へ出て来た。

「ゲームするんだ。海中で石を探すゲーム。一番に見つけた子はお菓子を食べられる」

 その子が見せたのは、黄色の布切れが巻いてある手のひら大の石だった。

「やらない?」

 僕はすごく迷った。お菓子にすごく興味があった。でも、嫌なことがあるかもしれない。リトルナーレが心配するかも。いろいろ考えて、一度だけ家を振り返って見て、結局うなづいた。


 ゲームは簡単そうに見えて難しかった。石を先に見つけても取り合いになるからだ。水中で相手の顔を押し退けたりしていると息が苦しくなってしまう。他の子が奪い合いに加わって、苦しくても海面に顔を出せないこともあった。そうやっている隙に石を持って水上に顔を出した人の勝ちだ。石を見つけることは簡単だけど、その後が大変なのだ。

「怪我してない?」

 海面から顔を出して息を整えていると、波の向こうでその子が笑って言った。

「時々鼻血出す奴いるんだ」

 結局僕は一度も勝てなかった。悔しいと思うよりも楽しくて、浜辺に上がると寝転んで笑い続けた。不思議なことに、嫌なことは一度も言われなかった。僕は楽しい気持ちのまま、勝った子がお菓子を食べるのを見てから砂浜を出た。

 家に帰るとリトルナーレはやっぱり同じ格好で眠っていた。僕が出掛けていた事に気づいていないし、気に掛けてもいないようだった。

 僕は何だか疲れてしまって、ご飯も食べずにそのまま眠った。


 それからも誘われて、あるいは約束をして、海へ遊びに行った。他の子と親しくなるにつれて、村の人はリトルナーレの様子を見に来るようになった。初めは嫌だったけれど、村の人がリトルナーレに声を掛けるのを見ていると、それほど嫌ではなくなっていった。

「リトルナーレ、ちょっと体を動かしましょうね」

 そう言って足を動かしたり体の向きを変えたりした。それはちょっと乱暴だったけど、リトルナーレのためにやっていたから黙って見ていた。おばさんたちは僕にも言った。

「私が見ておくから、お前は出掛けてきな」

「どこに?」

「漁の手伝いをしてきておくれ。もう話はしてあるから」

 おばさんたちにリトルナーレのことを頼むのは心配だったけど、これ以上嫌だと言ってリトルナーレの周りを混乱させるのは気が引けた。だから黙って浜辺に行くと、よく知っている子が網の目を直していた。

「こっちやって」

 僕は教えてもらいながら切れた糸を繋いだ。何度も家の方を見ていると、他の子に「僕の母さんがいるだろ? 大丈夫だよ」と言われた。その子のお母さんは大人で、僕より知識も知恵もあって、だからリトルナーレの看病には僕よりも向いているのだと言った。僕もそうなのかな、と考えた。


 おばさんはそれから時々家に来て、僕を海へ行かせた。

 僕はもうリトルナーレを一人残して出掛けて行くことに平気になっていた。リトルナーレの看病には確かにおばさんたちの方が適任だったし、僕がいてもリトルナーレは興味がないようだった。どうせ起きないだろうと思ってウェルばあの所へも頻繁に行っていると、ウェルばあが心配そうに声を掛けた。

「リトルナーレは? リトルナーレはまだ起きないのかい?」

 そして次第に次の言葉も言うようになった。

「リトルナーレの傍にいてあげなさい」

 そう言って僕は追い出されるように家から出た。リトルナーレの傍にいても仕方がないよと言っても「いいから帰りなさい」と背中を押されるだけだった。ルディカもリトルナーレの傍にいるように言った。

 僕は渋々帰ったけれど、不満でいっぱいだった。

 日記を書いてる。ご飯もあげてるしシーツも変えてる。それ以外に出来ることはなかった。話しかけたって答えてくれないし、ちっとも僕の方を見てくれない。傍にいたって仕方がない。おばさんの方が何もかも上手くやったし、おばさんは僕に村の仕事をさせたがった。だから、どうしてウェルばあたちが傍にいなさいと言うのかわからなかった。

 僕はリトルナーレの傍でご飯を食べる代わりに海へ出て潜った。村の子と遊び、漁の手伝いもするようになった。リトルナーレの事は全部おばさんに任せていた。


  *


 暗闇の中で、私は自分の指を見た。ちゃんと五本ずつある。爪もあった。お母さんの手が伸びてきて、爪を切ってくれた。一本ずつ、指を掴んで。お母さんの手は暖かかった……暖かくて、気持ち良くて……。

「あぁ、嫌な子! こんな子知らないわ」

 お母さんはそう言って私の指から手を離した。私は短くなった爪をさわりながら俯くしかなかった。嫌な子。だから家に帰ってこないの?

 ねえ、私の何がダメだったの?

 お母さんは立ち上がって、すれ違う時に私の頭を叩いた。私は俯いたまま動かなかった。足が、黒い霧に覆われていった。

 聞きたくない言葉が、空から降ってきた。私はそれを聞きながら、お母さんに訴えた。ねぇ、お母さん。私怪我をしたの。手のひらを切っちゃったの……。すごく痛くて、すごく怖かった。ねぇ、お母さん。私怪我をしたの……。

 でもお母さんは何も言わなかった。私は涙をすぐに拭って隠した。胸が痛かった。でも、大したことじゃないと思った。私はお母さんが大好きだったから。

「頭が痛いわ」

 私は波音の合間から声を聞き続けた。

「もう、本当に。碌な事がないわ」

 今度は何が悪いのかわからなかったけど、ごめんなさい、と謝って、私は動かなかった。お母さんの機嫌が直るのを待った。直ったことなんかないけれど。でも私は待ち続けた。今日は違うかもしれなかったから。

「見てよ、あれ」

 お母さんは私を指差して笑う。私は何も聞きたくなくなって、耳を塞いでしゃがみ込んだ。真っ黒な霧に飲み込まれたけど、構わないと思った。


 光が何度かちらついて、目をゆっくり開くと、遠くで話し声が聞こえた。私は自分がベッドで眠っていることに気付いた。いつの間にベッドに入ったんだろう。台所の方へ顔を動かすと、明かりがついているのが見えた。イスが動く音が聞こえて、足音が近づいてくる。私は急いで布団で顔を隠した。

 薄闇の外から、何か言っているのが聞こえた。でもそれは不思議と聞き取れなかった。私は目を閉じて体を丸めた。お皿を置く音がする。それに水の音も。

 ねぇ、また街へ行くの?


  *


 夜、漁の手伝いのために船の中で眠った。波音の間から大人たちの声が聞こえた。目を開けると、辺りは真っ暗で、目の前には網がたくさん積んであった。波音で途切れがちな声が耳に良くて、船に揺られながらもう一度眠ろうとした。その時、大きく船が揺れて声が聞こえた。

「レステが元気になって良かったよ。街医者から勉強を教わっているそうだ」

「良かったなぁ。インタットは新しい子供が出来たんだろ? レステを迎えにくる様子もないし、その医者がいて良かったよ」

 網は船の揺れにも動かず、細かい網目を数えていると、いろんな感情が浮かんだ。お母さんたちには新しい子供がいるんだなぁとか、ルディカは街医者って言うんだなぁとか。おじさんたちは僕が元気になって良かったと言った。僕が元気になることは、おじさんにとって良かったことなんだ、と僕はちょっと不思議に思った。それは不思議な暖かさがあった。


 夜中に漁をして、翌朝浜辺に戻ってきた。おじさんは僕に終わりだと言ったので、そのまま街へ向かった。まだ波に揺られているような気がした。僕はまだおじさんたちの話していた言葉を頭の中で繰り返していた。

 元気になって良かった。新しい子供。新しい子供……。じゃあ僕は古い子供?

 街へついてウェルばあの家に行くと、丁度ルディカも来ていた。ルディカは笑って、奇遇だなぁと笑った。僕はルディカに思い切りぶつかっていった。彼は踏ん張って僕を押し戻そうとし、僕は全体重を掛けた。

「こらこら、この人はもう年寄りなんだから。骨が折れてしまうよ!」

 ウェルばあは笑いながら刺繍をしていた。ルディカはウェルばあの健診に来ていたらしく、聴診器やカルテを鞄にしまっていた。その鞄を見せてもらっていると、ウェルばあが顔を上げた。

「リトルナーレの調子はどうだい?」

「え? 変わんないよ」

 鞄の中身はノート等の紙類が多かった。ファヴィまで顔を突っ込んだ。ウェルばあは僕からその鞄を取り上げると、もう一度言った。

「リトルナーレは?」

「だから、変わんないよ」

 その返事にウェルばあは困惑し、僕も眉をひそめた。どうしたんだろう? ルディカを見ると、ルディカも顔をしかめていた。

「どうしたの?」

「彼女の傍にいてあげてる?」

 僕はぎくりとして鞄に伸ばしかけていた手を止めた。視線が痛い。ということは、僕はちゃんとそれが悪いことだとわかっているのだ。渋々答えたけれど、顔を上げることは出来なかった。

「だって、僕がいてもいなくても同じだもの」

 ルディカは僕の肩をきつく掴むと首を振った。

「そんな事はない」

「そんなことあるよ。ルディカは知らないんだよ。おばさんだって、僕にリトルナーレの傍にいるより漁に行けって言ってるよ」

 すると、ウェルばあは空を仰いでため息をついた。僕はますます下を向いた。いろんな人がいろんなことを言って、なのにリトルナーレも答えてくれない。僕にはどうしていいかわからなかった。

「友達と遊ぶのも良い。仕事を手伝うのももちろんだ。でも、リトルナーレのことを放り出すのは駄目だ」

 ルディカは、彼女は今も溺れた時のままなんだと言った。頼りになる人はレステとウェルばあだけ。算数も出来ない、村の人たちとも上手くやれない。それまでは、君と二人だからやっていけたんだと思うよ。

「じゃあ、起きたら、僕みたいに勉強すればいいじゃない。大丈夫だよ……」

 それでもルディカは首を振り、ウェルばあもそうだと頷いた。

「君はリトルナーレを置いていっている。私は日記を書くように言ったね? ちゃんと書いているかい? レステ、リトルナーレにとって君は一番重要な人間なんだよ」

 僕は何のことだかわからなかった。ただ日記を書いていないことがばれて恥ずかしかった。

「でも」

俯いて言い訳する。何で僕が怒られるんだろう? それに、リトルナーレにとって一番重要なのはお母さんだ。

「一緒にいても仕方がないよ。リトルナーレは起きないよ」

 ルディカは僕をイスに座らせると自分も座った。

「レステ、リトルナーレは何を考えて泣いていたと思う?」

「……お母さんのこと」

「そうだ。お母さんは彼女を置いて街へ行ってしまったんだろう? リトルナーレは帰りをずっと待っていた。そうだね?」

 僕は頷いた。

「レステ、君はリトルナーレに起きてほしいんだろう。帰ってきてほしいんだろう?」

 僕はルディカが言わんとしている事がやっと分かった。

「返事がないからといって、リトルナーレが君のことを忘れた訳じゃない。最初に言ったね。口に水を入れれば飲み込むんだ。きっと君が傍にいないことを感じているよ」

 僕はふいに昔よく感じていた悲しい気持ちを思い出した。

 家の中には誰もいない。たまに会う村人は悪口を言った。僕は毎日毎日部屋の中で海を眺めた。誰もいないし、話もしない。誰も僕のことを好きじゃない。それだけの日常がひどく苦しかった。

 それから紅貝を思い出した。僕は帰らなくちゃと呟いた。すぐに帰らなくちゃ。リトルナーレが泣いてる気がした。嫌な夢を見ているような気がした。夢から覚めないのは良い夢だからだと思っていた。でもルディカは心の問題だと言う。だったら、見ているのは嫌な夢だ。

 ルディカは僕の腕を強く掴んで顔を上げさせた。彼は先ほどとは変わって笑っていた。

「今まで通り、遊んで、仕事をして、勉強をしなさい。でもそれと同じくらい、リトルナーレのことを大事にしてあげるんだ。彼女が元気だった頃みたいにね」


 僕は走って家へ戻った。

 家の窓は開けられていた。おばさんはいない。僕はどれくらい家にいなかったか数えた。奥の部屋で、リトルナーレはいつもと変わらず眠っていた。息を整えながらベッドに近づくと、顔を覗き込んだ。泣いてもいないし、笑ってもいない。

 僕は彼女の胸に耳を当てて目を閉じた。

「リトルナーレ、夢を見てるの?」

 心臓の音が聞こえる。

「僕が、離れていく夢?」

 リトルナーレは返事をしなかった。僕は突然込み上がってくるものを我慢できずに声を上げて泣いてしまった。何が何だかわからなくなった。

 泣けば泣くほど、なぜか以前の元気だったリトルナーレを思い出して悲しくなった。森へ行ってファヴィと遊んで、本を読んで、パイを焼いて、紅貝を拾っていた、そういうリトルナーレは一体どうしてしまったんだろう?

 彼女の両親も、どこかへ行って、新しい子供をつくったのだろうか。

「リトルナーレ……」

 お母さんを待ってるの? まだ待ってるの?

「お母さんは帰ってこないよ。お父さんも。僕のお母さんもそうだ。リトルナーレ、帰ってこないのはどうしようもないよ。僕らどうにもできない。待つだけだ」

 彼女の胸が呼吸で上下していた。

「お母さんもお父さんもいないよ、でも僕とか、ウェルばあがいるよ。それじゃだめなの?」

 だめなの、と聞こえた気がした。お母さんじゃないと、と。リトルナーレはいつもお母さんのことを気にしていた。僕らはお母さんの代わりになれないのかもしれない。

「でも、僕ら君に元気になってほしいんだ。それで十分じゃない?」

 返事はなかった。古い子供の僕とリトルナーレは、もういらないだろう家で眠った。


 僕はその夜を夢を見た。

 リトルナーレが白い服を着て白い砂浜を眩しそうに歩いている。浅瀬に入って紅貝を拾い、手に乗せては眺めていた。僕は沖で他の子たちと遊んでいた。リトルナーレに気付いて、うらうらうずがいを持つ手を振ると、彼女も手を振りながら何かを言った。でも遠すぎて聞こえなかった。

 僕は砂浜に向かって泳いだ。リトルナーレにうらうずがいをあげようと思った。彼女はいつまでも手を振っていた。



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