第十二話 置いて行かないで
陽が落ちてくるとベッドの横にイスを持ってきてそこへ座った。窓から入ってくる西日がリトルナーレを照らし、宙に舞う埃を照らした。
ふいに、リトルナーレはこのまま死んでしまうのではないかと思った。でもルディカは大丈夫と言った。お医者さんが言うんだから大丈夫に決まっている。
それでもしばらくの間、リトルナーレが死んでしまうという恐怖で落ち着かなかった。僕は彼女の手を力一杯握り締めた。眠っているだけだ。夢を見ているだけ。暖かい体温を感じながら、何度もそう強く思った。
僕はガラス瓶から貝をひとつ取り出すと、彼女の手に握らせた。手を放すと、彼女の手が少し浮いた。手のひらの傷が、白くなっていた。
二日も経つと、僕まで死んだように眠るようになっていた。海に行っても寒くて泳げず、街へ行くのも一度で十分食べ物は保った。少し眠っては起き、食べてはまた寝るという穴熊みたいな生活がとても嫌だった。けれど何もすることがなかった。
砂浜へ行く気にもなれなかった。リトルナーレがいないからだ。彼女が起きたら一緒に行こうと決めてから、ますます外へ出なくなった。
そんな僕を見かねてか、ルディカは三冊の本とノートを僕に買って来てくれた。
「学校には行ってないんだろう?」
それには記号と数字が書かれていた。僕は本をめくりながら「これは何?」と聞いた。
「算数だよ」
ルディカは新しい鉛筆もくれて、これを毎日やりなさいと言った。僕はその本やノートを抱えて不安になった。
「どうしてこんなにたくさんの物をくれるの?」
リトルナーレのお母さんは絵本をくれたと言った。じゃあお父さんはノートをくれるのだろうか? もしかしたらルディカは僕のお父さんじゃないかと聞いた。
でも、ルディカは首を振って、私はただの医者だと言った。僕は少し残念な気がしたけれど、お父さんじゃなくて良かったような気もした。
僕は足し算のやり方を教えてもらって、次に引き算を教えてもらった。一ページやると、ルディカは今度はノートを手に取って開いて見せた。
「これは日記帳だよ。毎日のあったこと、考えてることを書くんだ」
「どうして?」
ルディカはリトルナーレの方を振り返った。それで僕は何となく分かった。これは必要なことなのだ。
「分かった。毎日書くよ」
僕は毎日、算数の問題を解いて日記を書くことに集中した。
足し算、引き算の他に、ルディカは国語の問題集を持ってきてくれた。勉強をよくしておきなさいと言った。ノートに何個も短い文章を書いた。海は寒いよ、かもめがいたよ、ウェルばあが風邪ひいたよ、氷が張ったんだ、……。
それから街へ行って食べ物を買った。紙袋一杯に食べ物を買って家へ帰った。道ですれ違う村人たちとも言葉を交わすようになった。リトルナーレの調子はどう? 僕はいつも簡単に答えた。眠ってるよ。
リトルナーレは文字通り眠っていた。何も変わらなかった。僕はリトルナーレを見ながらご飯を食べた。パンを食べて牛乳を飲もうと思ったらリトルナーレが突然滲んで見えた。
こうなるともう落ち着くまで泣いていなければいけなかった。ウェルばあやルディカやたくさんの物があっても、無性にさみしくて悲しくて泣いた。たくさんの優しくておもしろいものがあるほど一人ばっちに感じた。
一ヶ月後には、足し算や掛け算が少し出来るようになっていた。あれほど嫌だった村人たちとも話せるようになった。でも、リトルナーレは計算どころかルディカさえ知らなかった。彼女の知らない事を知っていくのはとても怖いことだった。僕はリトルナーレを裏切っているような気がした。そんな時はいつもより長く泣いて彼女の手を離さなかった。
*
耳が痛くて頭を押さえた。
ここはどこかしら?
気がつくと暗い道にいた。
足を動かしていないのに、周りの風景は過ぎて行った。私は誰かに背負われていた。私とその人は海に入ったように体が濡れていて、体が冷たかった。私はその人の耳にイヤリングがついているのに気付いた。
お母さんだった。
私はほっとして抱きついた。あぁお母さんだ。帰ってきてくれた。でもどこへ行こうとしているのかしら。どうして私を背負ってるのかしら……。
「何もできないんだよ」
突然そう言われた。私は怖くなってお母さんの服を握りしめて声をかけたけど、振り向いてくれなかった。よく見ると、お母さんの膝から下が真っ黒な霧に覆われていた。周りも真っ暗だった。私は叫んだ。
どこへ行くの? 私をどうするの? 降ろさないで、置いて行かないで!
「置いて行かないよ」
それでも私は嫌だと頭を振った。でも、いつも出掛けてしまうことを知っていた。私が嫌がったって、泣いたって、お母さんは行ってしまう。
「街へ行くんだ」
どうして街へ行くの? 家なんかいらないから、早く帰ってきて。
左手がシクシク痛んだ。何か暖かいもので濡れている。私はお母さんの背中に顔を埋めた。
白い家なんかいらない。ここにいようよ、それか私も連れていって。
「待ってて」
涙がポタリとお母さんの肩へ落ちていった。私は何度も置いて行かないでと言ったけど、お母さんは一度も私の方を見もしなかった。
待ってる。浜辺で待ってる。家で待ってる。だから帰ってきてね。置いて行かないでね。私……私、良い子にしてるから。だから笑って、早く帰ってきて。
そう頼んだけれど、両脇を抱えられ、ゆっくりと降ろされた。私は柔らかい布越しに小石を踏んだ。顔を上げると、お母さんとお父さんが立っていた。
「絵本をあげるわ。もらったから」
お母さんが絵本を差し出した。私は怖くなって後退さった。確かに後ろへ歩いているはずなのに、差し出された絵本から離れられなかった。
絵本をもらったら、また街へ行ってしまうと思った。そして何日も帰ってこない。私は金切声で叫んだ。
「いらない、欲しくないの!」
お母さんはムッとした顔をして消えてしまった。私はしまったと思ったけど、もうお母さんたちはいなくなってしまった。私が嫌がったから、いらないって言ったから怒って街へ行ってしまった。私が言うことを聞かないから、お母さんは街から戻ってきてくれないんだ。
私はまた泣いた。良い子にするから、言うことをちゃんと聞くから、だからお母さん帰ってきて……今度は頑張るから。
その時、暗闇の中にぽつんと扉が現れた。扉は鈍い音を立てて独りでに開いていった。扉の向こうにはいつもの草と木と花が見えた。
ここは私の家だわ。
振り返ると、闇は消えていた。扉もなくなって、今度は一本の砂利道があった。浜辺への道だ。それを歩き始めると、小さな渦を巻いた貝殻が落ちているのを見つけた。うらうずがいだ。これをよく知ってる気がする。たくさん瓶の中に入れて……、あときれいなピンクの貝も……。
頭が痛んで、考えるのをやめた。苦しい。それでも言葉がぐるぐる回る。
貝……誰かがくれたわ。靴も、絵本も。絵本? 頭が痛む。あれは誰だった? 全然思い出せない。毎日一緒にいたはずなのに。
「リトルナーレ」
名前を呼ばれて振り向くと誰かがいた。二人いる。太陽の光が眩しくてよく見えなかったけれど、それは確かに両親だった。私はうらうずがいを握り締めて俯いた。
足が震える。嬉しいよりも怖かった。ねぇ、良い子にするから。お母さんが嫌いなものは私も嫌いになるから。だから、だから……ねぇ、帰ってきて。
お母さん……。
何か言われて目を開くと、目の前は闇だった。私はすぐに飲み込まれて手足が見えなくなった。頭が痛くて寒かった。私は目を開いているのか閉じているのかわからなくなって、それきり何も見えなくなった。
*
リトルナーレの髪をといていると、空気が濁ったように感じて窓を開けた。風が少しだけ暖かくなっているような気がした。
手に乗せた髪は乾いていて、風が吹くとぱらぱらと落ちた。以前はもう少しきれいだった。街へ行くと、そんな事をウェルばあに話した。僕は何も知らずに小麦をつつくファヴィに訴えた。
「リトルナーレのお見舞いに来てよ。今大変なんだよ」
ファヴィは全く関係ないといった様子で小麦をつつき続けた。ファヴィを連れていったらリトルナーレは起きるかなぁと思ったけど、無駄なような気もした。ファヴィはリトルナーレがいないことを悲しんでないからだ。
ウェルばあは食べ物と一緒に三冊の童話集をくれて、それをリトルナーレに読んでおあげと言った。
僕はそれを一日一篇読み上げていった。リトルナーレは多分聞いていなかったけれど、僕は頑張って朗読した。
読み終わった本を片付けようと台所へ行くと、棚から本が溢れていたので片付けを始めた。絵本と、料理の本と、何て書いてあるかわからない分厚い本。
リトルナーレのお母さんが買った本だろう。お母さんというのは子供を置いてどこかへ行ってしまうものなのだろうか。僕は悲しくなった。悲しくなったけど、頭の中は動き続けた。僕はどうして生まれてきたんだろう。どうして両親は僕を捨てたんだろう。
項垂れたまま、リトルナーレの傍に行った。僕はリトルナーレを捨てたりしないと決めた。とても大切だからだ。捨てて行ったりしない。でも、リトルナーレは僕を置いて夢の中へ行ってしまった。するとやっぱり悲しくなって、僕は少し泣いた。




