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あなたを呼ぶ声  作者: 貴戸わたり
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第十一話 ルディカ

 リトルナーレは朝になっても起きなかった。何度も名前を呼んで体を揺すったけれど身動きひとつせず、胸だけが呼吸で上下していた。

 僕は部屋の中を歩き回って落ち着こうとしたけれど無駄だった。こんなことは初めてだった。もしかして人間はこういう風に眠りだすのかもしれないと思った。きっとそうだ、リトルナーレは冬眠したんだ。

 そう思おうとしたけど不安だった。どうしよう。僕は冬眠している動物を実際に見たことがないからわからなかった。

 チェストの上に置かれたガラス瓶が目に入って、うらうずがいをひとつ取った。それをリトルナーレの顔の前で振って見せた。

「ほら、リトルナーレの好きなうらうずがいだよ」

 それでも彼女は起きず、次にこれは病気なんじゃないかと考えた。ずっと調子が悪かったし、溺れてどこかが悪くなったのかもしれない。だとしたらどうしよう? どうすれば治るんだろう?

 次第にお腹が空いてきて食べ物を探した。机の上に腐った果物があった。ウェルばあがくれたリトルナーレの分のパンは乾いてしまっていた。

 そうだ、ウェルばあなら何か知っているかもしれない。ウェルばあならリトルナーレを起こしてくれるかもしれない。

 僕はべちゃべちゃとした果物に見えないものを窓から投げ捨てると、一番軽い籠を持ってベッドへ戻った。

「リトルナーレ」彼女の体を軽く揺すってみる。返事はない。「ウェルばあの所に、ちょっと行ってくるよ。お腹空いたし……リトルナーレはお腹空かない?」

リトルナーレは何も言わなかった。僕は急いで家を出た。不安が僕をいつもより速く走らせた。


 ウェルばあの家に着くと、店先に立っている女の人が僕を見て家の中に駆け込んで行ってしまった。そういう反応は初めてだったので、僕はどうしようか困って家の中を覗いてみた。

「あの……ウェルばあ?」

 窓の傍にはウェルばあとさっきの人がいた。ファヴィは僕を見て鳴いた。ウェルばあは驚いた声を上げて手招きし、僕は女の人と入れ違いに部屋へ入って扉を閉めた。ウェルばあは目を見開いて何か言いたそうに口を開けた。けれど言葉が出てこないらしく、僕の肩を押えてイスに座るように促した。

「リトルナーレが溺れたんだって?」

 僕は一部始終を話し、ウェルばあは話を聞くにつれて頭を抱えていった。話が終わる頃には頭を支えたまま俯いてしまった。ウェルばあはしばらく何も言わなかった。

「医者を呼んで診てもらおう。今すぐにでも」

「じゃあ、やっぱり病気なの?」

 わからない、とウェルばあは言った。ウェルばあにわからないことなんか、僕にわかるはずもなかった。ウェルばあは外に出て女の人に何か言うと、女の人は街へ飛び出して行った。それからウェルばあは食べ物をいつもよりたくさんくれた。

「これから知り合いの医者が来てくれるから、リトルナーレを診せなさい。いいね?」

「その人はリトルナーレを起こせる?」

 ウェルばあは何度も頷いて僕を連れて通りへ出た。街に人は少なくて、しばらく待っていると右から女の人と眼鏡を掛けた人が来た。その人は白髪だらけで大きな鞄を持っていた。

「ざっと聞いたよ。案内してくれるかな」

 ウェルばあを見ると、頷いて背中を押された。そのお医者さんはサンダルを履いていたので気になったけれど、僕は家を飛び出して村への道を走り出した。街を出た所で振りかえってみると、お医者さんは鞄を抱きかかえてついてきていた。前屈みになって苦しそうに走っていたので僕は立ち止まって待った。「早く!」

 するとお医者さんはにっこり笑ってまた走り出した。僕も走りながら、家に置いてきたリトルナーレのことが心配になった。もしかしたら起きてるかもしれない、それとも……。

「どっちだね、右か、左か?」

「右だよ!」

 お医者さんは僕よりも足が遅かったけれど、普段よりも早く家に着いた。お医者さんを急いで家へ押し込んで部屋に行ってみたけれど、リトルナーレは眠ったままで、僕は少し安心した。お医者さんは息を整えてから、鞄から長い管を取り出してリトルナーレを見ながら聞いた。

「溺れる前の様子はどうだった? 何か変わったことは?」

 僕は彼女が家から出られなくなっていたこと、桟橋で手を怪我したことなどを話した。お母さんをずっと待ってたこと、でも帰ってこなくなったこと、しょっちゅう泣いていたこと。お医者さんはそれに一つ一つ頷いて、リトルナーレの腕を持ったり目を無理矢理開いたりしていた。

「まず栄養失調だな」

 ライトを取り出してぐるぐる回している。僕はそれを覗き込んだ。何度もそう言われたよ、と僕は答えた。

「リトルナーレはどうしちゃったと思う?」

 何でこんなに眠るのかわかる?

 お医者さんは聴診器をしまうとゆっくりリトルナーレの頭を撫でた。

「眠ってるだけだね。ぐっすり眠っているだけだよ」

「……でも、普通はこんなに寝ないよ」

「うん、問題があるんだ。でもそれは体じゃない、多分心の問題だね」お医者さんは僕にも手を伸ばして頭を撫でた。「よく頑張ったんだね」

 僕は撫でられながら、何故かはわからないけれど涙が出た。頬を伝う涙はかゆくて何度も拭った。お医者さんは僕の手とリトルナーレの手を合わせて握った。

「心配いらないよ。リトルナーレはちょっと疲れちゃったんだ。ゆっくり眠って、元気になったらまた目を覚ますよ」

「いつ?」

 お医者さんはわからないと言った。それはリトルナーレにしかわからないと。

「街へ連れて行きたいのだけどね……」

 街の方が手を打ちやすいのだ、とお医者さんは言った。僕は悩んだ。リトルナーレを起こしてほしいけれど、海辺の近くにいた方が良いと思った。何故かはわからないけれど、ガラス瓶の紅貝とうらうずがいを見ていると、海から離れるのは不安な感じがした。

 そう言うとお医者さんは何度も頷いてから僕の目を覗き込んだ。

「リトルナーレは海が好きだった?」

「海っていうより、砂浜とか、貝殻が大好きだった。ほら、これ僕とリトルナーレで獲ったんだよ」

 僕はガラス瓶を見せて説明した。これがうらうずがいで、これが紅貝。お医者さんは初めてそういう貝を見るみたいだった。

 ガラス瓶を戻すと、お医者さんは僕に椅子に座るように言った。言われた通りに座ると、お医者さんは僕の方を向いてゆっくり言った。

「レステ、だったね? リトルナーレは眠っているけど、こちらの声は聞こえてるんだ」

「でも答えてくれないよ」

「反応できないだけで、聞こえてるんだよ。潮の香りで海の傍にいることも分かってる。全部聞こえてるし香りもわかるし味も恐らく感じるだろう」

 僕はそうかなぁと思った。でも確かに、僕も寝ている時に雨音で目が覚めることがあった。お医者さんは家の中をぐるっと見渡してから持っていた長い管を仕舞った。

「私が街から通おう」

「僕はどうすればいい? どうしたらリトルナーレは起きる?」

 お医者さんはじっとぼくを見た。上から下まで見て、また家の中を見渡した。

「そうだな、まずもっと食べなさい。果物なんてものじゃなく、もっとバランスの取れた栄養価の高いものをたくさん食べなさい。君たちはまだ子供なんだから、甘えられるうちはうんと甘えておきなさい」

 お医者さんは鞄から袋を取り出して、お金を五枚くれた。それから紙のお金を二枚くれた。僕はお金を手にしたのは初めてだったので不思議に思えた。特に紙のお金が不思議だった。「破っちゃだめだよ。落書きも」

 それからお医者さんは街での買い物の仕方について教えてくれた。日持ちのするものをたくさん買っておくこと、リトルナーレには柔らかいものを口に入れてあげること。水を忘れずに飲ませてあげること。体の向きを変えることや排泄のことなども教えてくれて、僕はリトルナーレの服とシーツを取って井戸で洗った。

「ねぇ」僕はシーツを擦りながら聞いた。「眠っているのなら、リトルナーレは夢を見てる?」

「そうだね、夢でも見ているのかもしれない」

 それならきっと良い夢なんだろうなと思った。悪い夢は見ていないはずだ。だって起きてこないんだから!

「そうだ、先にリトルナーレに何か食べさせてあげよう」

 お医者さんはそう言うと家に戻り、ウェルばあにもらってきた籠からパンを手に取った。

「これをふやかすんだ。よく潰して、水で流し込む」

 僕は言われた通りに彼女の上半身を起こし、水を持ってどろどろになったパンを流し込んだ。お医者さんは僕の手をとって細かく教えてくれた。するとリトルナーレの喉が動いて飲み込んだのがわかった。

「あれ? 起きてる!」

「いや、体が反応してるだけだよ。ほら」そう言ってリトルナーレの膝を叩くと、足先が少し跳ねた。

 半分ぐらいこぼしたけど、食べ物を口に入れて飲み込ませてから、外へ行ってシーツと服を干した。部屋へ戻ると、お医者さんは小さな四角い紙をくれた。

「三日に一度くらいはこちらへ来るけれど、何かあったらウェルに言いなさい。村にも連絡しておくからね」

 僕が嫌な顔をしたからか、お医者さんはたしなめるように言った。

「君たちのことを心配しているよ。ウェルに話してくれたのは村の人だ。君たちがたくさん食べられるようにと、ウェルにお金を払ってくれてたんだよ」

 お金、と言われて僕はもらったお金を見た。お医者さんの言うことはちょっと僕にはよくわからなかったけど、とにかく村の人を嫌がるなということだと思った。

「いいね、リトルナーレを気に掛けるんだよ」

 そう言って、今度は歩いて街へ帰っていった。僕はその後ろ姿をずっと眺めてから家へ戻った。

 渡してくれた紙には「医師」とあって、その後ろに「ルディカ・クルジア」と書かれていた。僕はそれを口に出して復唱し、頭を撫でてくれた厚くてがさがさの手を思い返した。

 部屋へ戻ると、眠っているリトルナーレにもその紙を見せた。

「聞いた? ルディカだって」

 それをチェストの引き出しに入れて、ウェルばあからもらった果物を剥いて食べた。

「街の人の方が、意外と優しいのかもしれないね」

 言ってから、村人たちも優しくないわけじゃないけれど、と付け足した。そう、僕らを気にかけてはくれた。嫌なこともたくさん言ったけれど、でも、気に掛けてもくれた。それで今度はお金をくれたらしい。どうしてだろう? 僕にはわからない。食べながらそんなことを考えていると、涙が滲んで前が見えなくなった。

 突然すごく悲しくなった。リトルナーレは笑いもしなければ怒りもしなかった。

 そんな彼女を見ながら、リトルナーレはどんな気持ちで帰ってきた両親といたんだろうと思った。きっと彼女は優しくしてもらっていなかったんだ。だからあんなに不安がっていたのだ。

 僕はリトルナーレの代わりに泣いた。涙は尽きたりしなかった。


  *


 何も見えなかった。口の中は潮の味がした。

 深く潜っていたらしく、ゆっくりと浮上していった。息苦しくもなく、耳鳴りもせず、ただ体が浮いていっていることだけわかった。


 誰かの声が聞こえた。誰かが私の名前を呼んでる。

 辺りを見回しても誰もいなかった。私の体はまだ浮上し続けて、何だか眠くて真っ暗な海の中で目を閉じた。


 誰かが私を呼んでる。


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