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あなたを呼ぶ声  作者: 貴戸わたり
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第十話 暗い海

 リトルナーレは家に入れてくれるようになったけれど、あまり話さなくなった。笑うことも少なくなって、すごくしんどそうだった。いつも何かに疲れているようだった。

リトルナーレはうらうずがいの瓶を引き寄せると、蓋を開けてからベッドにもたれた。

 僕は彼女の持っているガラス瓶からうらうずがいを一つ取り出した。リトルナーレはガラス瓶を置いたまま抱きしめて言った。

「……何でだろう? 何がいけなかったんだろう?」

 リトルナーレはガラス瓶を抱きしめたまま声を上げて泣いた。涙が落ちてうらうずがいを濡らした。名前を呼ぶと、瓶を離して僕に抱きついて泣いた。

「どうして? 私の何がそんなにダメだったの?」

 僕は何も言えなかった。リトルナーレの涙と息は僕の服を濡らしたけれど、僕もリトルナーレの服を濡らしていた。


 リトルナーレの傍にいてあげたかったけれど、僕は食べ物のために森に出掛けた。海にも誘って行こうとしたけれど、リトルナーレは家から出ることが出来なかった。

「怖くて動けないの」

 彼女はいつも扉の前で座り込んでしまった。僕恐ろしくてたまらなかった。何か怖いことが起こっているような気がした。リトルナーレは扉の取っ手にふれたまま項垂れていた。


 僕はリトルナーレのために何かしたかった。でも何をすればいいのか分からなかった。何が欲しいと聞いても、何もいらないと言った。彼女が欲しいものはもうどこにもなかった。僕はリトルナーレのお母さんに腹が立った。どうしてリトルナーレがこんなに思っているのに帰って来てくれないんだろう。どうしてリトルナーレが望むものはどこにもないんだろう。

 怒っても何をしてもリトルナーレのお母さんは帰ってこなかった。床に座り込んで、暮れ始めて赤くなった壁と天井をリトルナーレはじっと見ていた。

「お母さん、待ってるの?」

 リトルナーレはゆっくり天井から視線を離して、それからささやいた。

「もう、待ってないわ」

 そう言ったけど、リトルナーレは泣きながら顔を覆ってしまった。僕は慌てて彼女の背を撫でた。髪を撫でてあげると、リトルナーレが涙を拭いて呟いた。

「レステ、お母さんみたい」

「僕が?」それはちょっとおもしろい話だった。僕は笑ったけど、リトルナーレは笑わなかった。

「だって、一緒に海へ行って、こうしていてくれるじゃない」


 夜になってもリトルナーレはぼうっとしていた。何を考えているんだろうと思ったけれど、やっぱりお母さんのことなんだろうと思った。僕はリトルナーレに元気を出してほしくて、そしてほんの少し僕のことも見てほしくて服に触れた。

「ねぇ、何か欲しいものはない? 僕なんでもするよ。何にだってなるよ」

 リトルナーレは何度か瞬きをし、ぼんやりしていたけれど、しばらくして海を見ながら言った。

「月日貝が欲しい」

「月日貝?」

 僕は困ってしまった。月日貝はとても深い所にあるし、何より今はもう冬の初めだった。とても今は泳げる海じゃなかった。でも言い出したのは僕の方だ。どうしようと呆然とする僕の腕をリトルナーレは揺らした。

「ねぇ、月日貝採ってきて。うらうずがいでもいいから」

 リトルナーレは泣き声になりながら言った。僕も泣きたくなった。絶対に無理だと思った。うらうずがいを考えたけど、きっとうらうずがいじゃもうリトルナーレは喜ばないだろうと思った。

「僕、じゃあ、獲ってくる」

「本当? 本当に?」

「ねぇ、リトルナーレも行こう。今日獲ってみせるから!」

 そう言うと、リトルナーレはまた顔を歪めた。

「外に出るの? ……もう夜なのよ、危ないわ」

「大丈夫だよ。僕絶対獲ってくるから。ねぇ、行こう、海だよ」

リトルナーレはあべこべな事を言い続けた。きっと、本当は月日貝なんか欲しいくないのだ。それでも僕は獲るつもりだった。獲れば少しは気分が晴れると思ったからだ。彼女はまた泣きだして、小さくごめんね、と言った。僕はリトルナーレの隣りにしゃがんで背中を撫でた。

「でも……でもレステ。私出られない。すごく怖いの」

「うん、大丈夫。僕も手伝うよ」

 桟橋で手を怪我した時のように背負おうとしたけれど、出来なかった。リトルナーレも痩せていたけれど、僕も痩せていたのだ。それでも何とか頑張って何とか背負うことが出来た。

 リトルナーレは僕の背中で泣いた。バランスを取りながら壁で支えてゆっくりと歩いた。足がふらふらした。僕は扉を開けた。リトルナーレの腕が僕の首に巻かれた。

「ほら」僕はリトルナーレの足をずらして地面に降ろした。「出れた」

 リトルナーレは笑った。僕らはゆっくりと海へ向かった。


 海の水は冷たくて、リトルナーレは砂浜まで行けなかった。寒くて冷たくて、浜辺に一度戻った。浜辺の前で、リトルナーレは自分の体を抱きしめて震えていた。

「待ってて。ここにいて」

 僕は準備体操をしながら呼吸を整えた。船は一隻もなく、水平線が見えないほど暗かった。目の前にある真っ黒な闇に、圧倒されて後ろに倒れそうになった。波音だけがやけに大きく響いていて、昼間の海からは想像もできなかった。

「ねぇ、本当に大丈夫なの?」

 リトルナーレはもう泣いていなかった。でも顔は泣きそうに、不安そうに歪んでいた。

「大丈夫だよ。本当だよ。絶対戻ってくるから」

「絶対戻ってくるのね」

 僕は頷いた。浅瀬に足を入れるやっぱり水の冷たさに震えたけれど、何とか沖まで泳いでいった。浜辺からどれぐらい泳いだのかわからず、光はひとつもなく、怖くて戻りたくなった。

 浜辺の方を振り返ると、かろうじてリトルナーレの白いスカートが見えた。白いスカート。僕は底の見えない海を見下ろした。呼吸法をして海へ潜る。何としてでも貝を獲らなければと思った。


 海の中は真っ暗で、海底の砂一粒見えなかった。両手を伸ばして泳いでいっても、指先には何も触れなかった。海底まで潜れなかった。寒くて頭はがんがんと痛み出して、溺れてしまうかもしれないと不安になった。冬の海は凍っていない氷のようだった。

 苦しくなったり頭が痛くなると海面に上がっていき、息を整えるとまた潜るを繰り返した。岩にさえ指は触れず、僕は海の中で焦った。月日貝どこか、何も見えなかった。

 何回目かに海面へ上がろうとすると、光が見えた。火の光だ。船が出ているのだ。

 海面から顔を出すと、浜辺にたくさんの明かりと人がいるのが見えた。「いたぞ!」

 後ろからも声がして驚いて振り向くと、三隻も船が出ていた。そのうちの一つがすぐ近くにいて、知らない人が叫んだ。

「レステ、早く上がれ! リトルナーレが大変なんだ」

「リトルナーレ? リトルナーレがどうしたの。浜辺にいるよ」

「違う、リトルナーレが溺れたんだ!」

 溺れた? どうして? 僕は頭が回らなかった。弱った体で海へ入るなんて、信じられなかった。家の扉の前で、浜辺で自分の体を抱いて震えていた様子を思い出した。

 後ろから船に乗れと声が聞こえたけれど、僕は泳いで戻った。泳ぐ方が早いはずだ。浜辺には人がたくさんいた。灯りもたくさんあって、怖い感じがした。

「レステだ! 来たよ!」

 浅瀬に足をついて走ると同時に村の人が近づいてきた。「レステ、リトルナーレが」

 僕は息を整えながら歩いた。寒さを感じなくなっていて、リトルナーレはどこ、と息をつきながら近くにいた人に聞いた。

「息はしてる。でも目を覚まさない」

 人だかりの中心にリトルナーレは寝かされていた。名前を呼んでも、呼吸はしていたけれど動かなかった。苦しそうな顔はしていなくて、僕は少し安心して彼女の顔に張り付いた髪を退けた。

「どうして溺れてたの?」

 リトルナーレの傍にも見知らぬ人がいた。その人はもう一度呼吸を確認した。

「大したことじゃない。浅瀬だよ。足を取られたのかもしれない」

 すると別の網を持った人が言った。「少し前から様子がおかしかったんだ」

「最初は浅瀬に立っていたんだよ。珍しいなと思って声を掛けたんだけど返事しなくてさ、どうしたのかと思ったら独り言を言ってたよ。何だか普通じゃなくて、ほら、お前らいつも一緒にいたから、レステはどうしたんだって聞いてみても答えなくて……ちょっと目を離したら倒れてたんだよ」

 話を聞きながら腹が立って泣きたくなった。僕は寒さに痛む頭を振って怒鳴った。

「どうして放っておいたりしたの!」

「いや、放っておくつもりなんかなかったさ! どうせ遠くには行かないと思ったんだよ」

 僕は頭が混乱していた。月日貝は採れなかったし、リトルナーレは溺れるし、知らない人はたくさんいるしリトルナーレのお母さんは帰って来ないし!

 震える手で強く目を擦って、大人たちを退けてリトルナーレを背負おうとしたけれど、海へ入る前よりも体が重くて背負えなかった。「無理だよ。お前、そんなに痩せてんだから」

 それでも何とかリトルナーレを背負った。彼女は冷たくて、僕も寒くて仕方がなかった。リトルナーレも冷たい海に入ったのだ。どうしてだか分からなかった。月日貝は僕が獲ってくるのに。

「どこへ行くの!」

「帰るんだよ」

「だめよ、私の家にいらっしゃい。もし万が一リトルナーレに何かあったらどうするの」

 腕を掴んでくる知らない手を振り払った。その拍子に倒れたけれど、僕は唇を噛んでまた立ち上がった。今更だと思った。リトルナーレが倒れてからそんなことを言ったって……。

 後ろから「言うことを聞かない奴だな」と言う声が聞こえた。「親がいないんだもの、しょうがないわよ」それから、子供の声。「何で夜に海に入ってたんだろ?」

 足が痛くて、リトルナーレは重くて、家までいつもの倍の時間がかかった。冬の冷たい風が吹いて体中が震えた。ベッドに彼女を寝かせてから、シーツで体を拭いた。

「リトルナーレ」

 苦しそうではなかった。でも心地良さそうでもなかった。

「どうして海に入ったの? 何を言っていたの?」

 暗い海を見ながら、何を考えていたんだろう。両親のことだろうか。それとも僕のこと? ウェルばあのこと? ファヴィのこと?

「ねぇ、リトルナーレ……」

 次の日になっても、リトルナーレは目を覚まさなかった。リトルナーレと名前を呼んで、僕はベッドの傍で立ち尽くした。

 リトルナーレは眠ってしまった。

 僕はそっと泣いた。


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