嵐の前のプロローグ (2) 川島耕太
今日はお客さんの多い日だな……と思った時。
「やあ、久しぶり!」
振り返る前に声が飛んできた。
やあ、なんてわざとらしいセリフ、本気で口に出す人間は一人しか知らない。できればこのテスト前には聞きたくない声だった。
「……お久しぶりですね、川島先輩」
「おや、つれないな。きっと君が一人で暇をしていると思って構いに来たというのに」
「どうせ先輩が受験勉強に飽きたんでしょう? 美術部員でもないのに息抜きにこの部室を使わないでください。受験、落ちても知りませんよ?」
ため息とともに振り返ると、スケッチブックの大半を占めている姿がそこにあった。
「相変わらずのツンドラ気候だねえ」
意味不明のセリフを吐いてひょい、と肩をすくめたのは川島耕太先輩――この荒神高校では最も有名な3年生。
有名な理由はやはり、この容姿にある。ついこの間までバスケ部でフォワードを務めていたため、すらりと引き締まった長身の持ち主で、またモデルを自ら申し出るほどに整った顔立ちをしている。それだけでどこにいても目立つというのに、頭に超の付くほどのナルシスト。
身長151cmのあたしにとっては、かなり見上げなくてはいけない相手だ。
しかしながら、見上げた顔はやっぱり男前だった。
視線に気づいたのか先輩の口角が少し上がる。
「見とれているのかな、風見響子さん?」
「そうです」
ただし、あたしがこの先輩の顔をまじまじと見るときは、美術品を鑑賞するときと一緒だ。
美しいものを見る。
ただ、それだけ。
「君はいつもそうだな。俺を真っすぐに見ている。他の女の子たちは真っ赤になってすぐ目を逸らすというのに!」
「赤くなる理由も目をそらす理由もありませ」
「だが、いくらでも眺めてくれて構わないよ! 俺も鏡の中の自分の顔を見飽きることはないからな」
「……帰れ。もしくはヒトの話を聞け」
ぼそりと本音を呟いたが、川島先輩には届かなかったようだ。
じろじろとあたしを見下ろして、ぽん、と頭に手をおいてしみじみと息を吐いた。
「しかし、相変わらず君は小さいな。そんな身長できちんと世界が見えているのか?」
「っっ!」
お前がでかすぎるんだ。そんなセリフは飲み込んだ。
軽く頬がひきつったがこんなことで心を乱していては川島先輩の相手はつとまらない。
平常心、平常心。
「世間では牛乳を飲めばいいと言うらしいから試してみてはどうだ?」
「もう伸びません。成長期は過ぎました。それに牛乳飲んで背が伸びるなら、今頃は世界中の仔牛が八頭身ですよ?」
「ああ、だがそれでは伸びるまでに時間がかかるな。それまでこんな姿でいるというのは非常に不憫でならない」
「人を勝手に不幸にしないでくださ」
「それじゃあてっとり早く……引っ張ってみてはどうだ?」
「ご心配ありがとうございます。でも、本当に不便してないので大丈夫です。そんな暇があるなら世界が100人の村だったらどうなるかってことについてでも考えててください」
そう言うと、川島先輩は整った唇を子供のように尖らせた。
「君は我儘だな」
「……っ!」
むかっとしたが、何とか抑える。
平常心、平常心。
しかもこれらの台詞がいやみでも挑発でも何でもなく、心の底から出ていることも分かっている。
この先輩は本気であたしの身長について心配してくれているのだ。そのうちあたしの首をつかんで引っ張りだす、という事態にもなりかねない。
まあ何にせよ、この先輩の相手は面倒だ。おとなしくモデルになっていてくれれば全く問題ないが、テスト二日前の今日、あたしも早めに帰りたかった。
はあ、と大きなため息をつく。
これはナルシストというより自信家だろうか。
もちろん言葉通り、川島先輩の成績は学年でトップクラスだ。それは知っている。
顔がよくてスポーツができて勉強ができたらどうしてもこんな人間が出来上がってしまうのだろうか? それなら、神様はもう少しでいいから能力の配分を考えた方がいい。
川島先輩はなぜか上機嫌で美術室を見渡し、突然の訪問者に呆然とたたずんでいた今井俊太に目を止めた。
「誰かいたのか。せっかく一人で寂しくここにいる君の相手をして俺の評価を上げようという計画が台無しじゃないか」
「先輩、考えてることが全部口から洩れてますよ? それにそんなことであたしの中の先輩の評価が上が」
「そこの君! いったい誰だっ!」
……ると思ったら大間違いっ、最後まで人の話を聞けーっ!
いやいや、平常心平常心。
ひとつ、深呼吸。
「あたしのクラスメイトです。美術部員だけど、吹奏楽部と兼部してるから川島先輩は初めて会うかもしれませんね」
「あ、やっぱりあなたが川島先輩だったんですね」
先輩の大声とオーバーアクションにびくびくして窓際に寄っていた今井くんは、少しほっとした顔をしてこちらに近づいてきた。
うわ、身長差が目測で約40cm。あたし以上の身長差だ。きっと先輩は今井くんの旋毛しか見えてないに違いない。
しまった、今井くんの首を掴んで引っ張りだす前に引き離さねば……!
ところが。
なぜかここで、予想外の事態が起きた。
「はじめまして、川島先輩!」
首いっぱいに見上げた今井くんがにこり、と微笑んだ瞬間。
先輩の動きが停止した。