4 夢見る頃をすぎても
今回の作中紹介小説は「老人と海」。
初めて読んだのは十代でしたが、歳を経て作者の人生を知って読むと違った哀切を感じる物語です。
2017/6/20(初稿)
文字数(空白・改行含む):6197字
文字数(空白・改行含まない):5668字
2017/8/23(改稿)
架空と幻想を分類して表現
文字数(空白・改行含む):6222字
文字数(空白・改行含まない):5708字
4 夢見る頃をすぎても
彼は年をとっていた。
そういう一文で始まり。
老人はライオンの夢を見ていた。
そういう一文で終わる物語がある。
戦い続け、戦い疲れた男が、戦いの在り方と虚しさを書いた物語だ。
男が戦ったのは人間達が造る理不尽の中だが、男の物語の中の理不尽は自然の過酷さだ。
人間達が造る理不尽は人間が創ったものだから人間に変えられるが、自然の過酷さは避けて耐えて抗えても変える事はできない。
その二つを同質のものと考えるのは分別のない考え方で、物事の分別がつくのが大人というものだ。
だが、この二つは争い合う者達にとっては混同したほうが都合のいい考え方だ。
何故なら、それならば自分達は‘ 神の掟 ’や‘ 自然の摂理 ’で争い合う生物だと、自分達を正しいと、甘えられるからだ。
そうでなければ、‘ 人の道 ’から外れて、人が造り上げた豊かさに寄生している存在だという自分達の本質を真っ向から受け止めなければならない。
覚悟を持って生きる人間なら、それを自覚して‘ 人の道 ’に沿って、自分達の価値が創造する者あってこそだと考えられる。
けれど、暴力で奪うのが正しい‘ 神の掟 ’と考えたり、従うしかない‘ 自然の摂理 ’だと諦めてしまう‘ 傲慢な甘え ’や‘ 怠惰な甘え ’に浸ってしまうほうが楽な生き方だ。
だから、“ ‘ 人 ’にとって有益な生き方を望まない甘えた人間 ”は、利権のためや欲望のためという言い訳をしながら、“ ‘ 人の道 ’を大切に護ろうとする人間 ”のほうが甘い考え方をしているのだと誤魔化そうとする。
そうして‘ 人としての理 ’を捻じ曲げた理屈で、自分すらも騙して誤魔化すようになれば、後は腐っていくだけだ。
物語なら、血に酔う事も。死を怖れる事も、不安に怯える事もないヒーローは描写できる。
けれど、架空と幻想のヒーローのように生きるなど、甘えた人間にできるわけがない。
騙せないのは、奪えないのは、傷つけられないのは、殺せないのは甘いのだと、自分を誤魔化しながら狂獣になっていく。
“ 自分を弱いと認めて、それでも暴力に従わずに抗う事で、‘ 人 ’として強く生きようとする人間 ”。
“ 利権や欲望に依存して、自滅本能に従って争い合う狂獣 ”。
甘えた人間が、そのどちらになっていくのかは、考えれば誰にでも解る事だ。
しかし、だからこそ甘えた人間は‘ 人 ’について何かを考えたり、善い事とは何かを識ったり、‘ 人 ’を護るために‘ 法 ’を創ろうと考える視野を人間から奪おうとする。
自分さえ、自分達の利権さえ、今さえ、現代の権力さえ、それさえ良ければいいのだと。
見知らぬ人間がどうなろうと、見知らぬ国がどうなろうと、未だ生まれぬ人間達がどうなろうと、未だ来ない世界がどうなろうと好いのだと。
有限の物資と制御できないエネルギーを無限の虚構経済と希望のエネルギーという幻想で誤魔化し。
甘えられる事こそが幸福なのだと思い込み。
現実を見ているふりをしながら都合のいい幻想を見て、人類を滅びへと導く無関心をばら撒き続ける。
そして、その陰で平等を求める者達の権利に反する掟を創り、それに異を唱える自由を罪とする掟を創り、最後に平和を壊す争いを起こす。
ESPを通して見た‘ 甘えた人間達の心 ’は、そういうふうに腐っていく共同心理だった。
誤魔化しとはそんな人間を腐らせる毒で、人を誤まらせて魔と化させる麻薬なのだ。
私が安住の地に選んだ場所は、そういう誤魔化しが通らない場所で、ESPを持つ私が余生を送るには最適の地といえた。
心に薄闇い欲望を抱えている人間や、自分を誤魔化して生きる人間には生き辛い地だった。
けれど、決して堅苦しい戒律に縛られた生き方で自分を誤魔化しながら、偽善の陰でどす黒い悪徳を育てるような地ではない。
隠し事はあっても誤魔化しのない地で、人の心を大切に生きる在り方を護ろうとする人々の住む町だった。
ESPなどなくても好い町だと感じられただろうが、私にとっては奇跡のような地だ。
絶望がこの地にはなかった。
他の場所では誰かの絶望に近い苦しみをエンパシーで感じ、何とかする隙間で生活していくのが日常だった。
ESPがなければ気づかない通りすがりの見知らぬ誰かの苦しみが、家族や親しい人間の苦しみと同じくらいに近い苦悩に感じてしまうのがエンパシーだ。
逆にこちらの苦しみをそういうふうにも感じさせられるし、誰かの苦しみを誰かに近い苦悩に感じさせる事もできる。
その能力で人々を繋ぐ事ができるのは素晴らしいのだが、疲れる能力ではある。
図らずもこの世界の世直しに関わってしまったせいで疲れ果てていた私には最適の地だったのだ。
とはいえ、そんな地でも甘えた人間や心を腐らせた者達が入って来ない訳ではない。
そして、そういう者達がそんな地でトラブルを起こさないわけはない。
私が、その少女と出会ったのは、そのトラブルの真っ只中だった。
「とりあえず土下座してもらおーか」
そう言ってへらへらと何もかもを蔑むような厭らしい笑みを浮かべた若い男を、その少女は傷だらけになりながらも睨み返していた。
テレパシーとエンパシーで瞬時に察知できなくても、この状況なら、どちらが悪いかは一目瞭然かもしれないが、私は思考加速と思考分割を併用しながら、最短で事情を探った。
若い男は、私も関わった政財官の癒着を一掃する大掃除で逮捕された男の一人息子だった。
そして、少女は、美咲静日。
この地に私が興味を持つ切欠となった新政党群の党首の一人娘だ。
とはいっても、旧政党の世襲議員のような財産と権力の継承はできないように法改正されているので、静日は唯の一市民でしかない。
法的には男と同じ参政権の制限を受けた身だ。
だが、その事について、どう感じているかは正反対だった。
男の心には、“ 自分は他人を見下す立場だったのにという‘ 不平 ’ ”と、“ 依存できる親から与えられた甘えられる立場を失った‘ 不満 ’ ”。
静日の心には、“ 自分だけが特別である立場を造る‘ 不平等 ’” を望まない潔さと、立場や欲望に甘えないという‘ 自負 ’。
男の心を占める欲望は差別する立場にいたいという執着で、静日の心を占める理想は暴力で造られる差別を見過ごさない人間であろうとする覚悟だった。
男の心には、親の死後の財産相続が得られず、生前分与の総最高限度額を贈与前年度の平均国民所得の10年分と限定する法改正で、思うように欲望を満たせなくなった事への‘ 社会への恨み ’があふれ。
静日の心には、財産相続などへの関心は一切なく、代わりに男の心には一切なかった両親への尊敬や愛情があふれていた。
男が財産に執着するのは、金銭こそが力だと感じているからで、静日が財産に執着しないのは、富が幸福ではないと識っているからだった。
かつて特権階級の一族であり差別する立場でなくなった事に不平を唱える一般市民と、差別のための特権を失くす法を創った政治家の娘が出会った。
それだけを知れば、逆恨みによる暴挙という可能性を一番に思い浮かべるだろうが、男の心にあったのは‘ 理不尽な復讐心 ’などではない。
唯、気高い者を妬み、自分と同じ醜い存在にしたいという暗い嗜虐欲だけだった。
正しいのは自分ではないと心の底では判っていても、それを認めない‘ 甘え ’が、美しく正しく見える者を汚し、見下したいという欲望だ。
男はそれを人間が本来持つ欲望で、人の本質だと思い込もうとしていた。
だから、少し脅して、心を傷つけいたぶってやろうという程度の男にとっては軽い気晴らしの遊び程度の感覚だった。
全てを失っていたのなら違ったのかもしれないが、男にはそれなりの財と地位があった。
父親が企業の内部情報を得て、リークされた情報を元に株取引で築いた財産と、父親の手下だった男の天下り枠を奪って得た地位だ。
男の心に在るのは、どうしようもない悲しみと理不尽な暴力への怒りから生まれる復讐心ではなく、報復のための嗜虐。
かつて、今ではもう憶えていないような些細な原因でクラスメートを苛めた時と同じだった。
鬱屈とした暗い嗜虐欲が、男の感覚をそういう嗜虐的な性癖にしていた。
けれど、ESPを通して見れば、その嗜虐欲も、また‘ 甘え ’によって歪められた欲望なのだという事が容易に判る。
男の中で叫んでいる小さな子供がいた。
男の過去をサイコメトリーとテレパシーとエンパシーを複合させて読み取った男の残滓。
自分を見て欲しいという──ただ、それだけの想いだ。
子供が、誰かとの繋がりを求め、自分の居場所を求める真っ直ぐな想いを、周囲の‘ 甘えた小人達 ’が歪めていった。
心で繋がりたいという想いに、子供の一時の欲望を満たすという誤魔化しで応え、‘ パブロフの犬 ’のように想いを掏り換えていった
“ ‘ 人 ’と‘ 人 ’が心で繋がるための最初の約束 ”は、男も気づかぬ深層に閉じ込められて、羨望になる。
‘ 甘え ’によって刷り込まれた‘ 神に憧れる呪い ’。
男は、その傲慢な‘ 暴力と権威への信仰 ’では、決して叶わない羨望を誤魔化し続ける。
そして、際限なく強い欲望を満たしたいという麻薬のような悦楽に溺れた哀れな自分を認める事を許さない‘ 甘え ’が、男の羨望を更に歪めていく。
羨望が、叶わない想いを叶えた人間への嫉みを生み。
‘ 持たざる者が持つ者に対して持つ憎しみ ’を‘ 弱者が強者に対して持つ憎しみ ’だと考える‘ 神に憧れる呪い ’は、その妬みすらも、男に認めることを許さなかった。
‘ 神に憧れる呪い ’とは“ 弱者であることへの恐怖を認められない‘ 甘え ’ ”だ。
暴力や権威では決して叶う事のないものを認められない‘ 甘え ’は、終には心の奥の羨望を、暴力や権威で否定する。
“ ‘ 人 ’と‘ 人 ’が心で繋がるための最初の約束 ”を護ろうとする者達を、甘えた人間と蔑み。
弱者として虐げる事で、‘ 神という幻想に縋った人間でしかない自分の弱さ ’を否定しようとする嗜虐欲は、こうして生まれる。
もし、静日が男に立ち向かわなければ、男も身体を傷つけるような暴力は使わず、心を傷つける暴力だけで済ませるつもりだった。
けれど、静日は、男の‘ 甘え ’を見抜き、怯える事なく、理不尽に立ち向かった。
ESPなどなくても、人の心というものについて考える事ができる人間なら、時間をかければ男の‘ 甘え ’くらいは解るものだ。
だが、男の‘ 甘え ’が、嗜虐欲になっている事までは、静日には判らなかった。
静日は、飽食の国の高校生でしかなく、また醜い人間の情念に触れる機会はこの地では少なかったのだ
辺りに人影のない公園だったのも不運だった。
論破された男は冷静さの仮面を容易くはがし、物理的な暴力を振るい始めたというのが、この状況のようだった。
暴力原理に甘える者の冷静さは仮面にすぎない。
理性で暴力衝動を抑えるのでも制御するのでもなく。
公権力というより巨大な暴力の権威に怯え。
精神的暴力や経済的暴力を振るう事で欲望を満たしているにすぎない。
だから、仮面を外せる状況が訪れれば、直ぐに‘ 共食いの毛無猿 ’の狂った本能を満たそうとする。
心理学者がサイコパスやソシオパスと呼ぶ者達は、そういう存在だ。
‘ 甘え ’と‘ 呪い ’で造られた征服と服従の仕組みがそういった精神を育んで創り出す。
この男の場合は、無責任と権威主義で利己的な欲望を満たし続けた親から受け継いだ精神だった
成功とは功績によって力で成り上がる事だという。
そして失敗とは敗れて力を失う事だという。
その二つこそが人生の根幹にあると妄信する生き方が、男を醜く哀れな存在にしたのだ。
そんな生き方は、理不尽に屈した者の‘ 甘え ’だが、それを認めるだけの強さも潔さも男は持たなかった。
そうして、自らの‘ 甘え ’を認めないために、誰も彼もを自分と同等以下に貶めようと、カーストという架空のピラミッドに縋りついた。
そうして、その愚かな行いに参加しない者を甘いと蔑みながら自分を誤魔化した。
その愚かな行いが社会を‘ 共食いの凶獣の争う煉獄 ’へと変えるのだという自覚もなく。
強いから争い、敗者を弱者として貶められるという幻想にしがみついて、 静日を汚そうとしたのだ。
思考加速で到着とほぼ同時に並列して、テレパシーとエンパシーとサイコメトリで、私が識る事になったのは、そういった事実だった。
男を、テレパシーによるヒュプノで誘導した警官に引き渡すまで足止めするために、私は男の精神がこれ以上暴力を実行しないように誘導して時間を稼ぎ。
駆けつけた警官に捕り押えられた哀れな男が人としての在り方を取り戻せることを願って、ヒュプノとエンパシーで良心を思い出せるように、ほんの少し細工をした。
人格が急激に変るようなものではなく、自分のしたことと本当にしたかった事の違いを判らせるための些細な干渉だ。
‘ 良心増幅 ’と私がつけた能力だが、効くかどうかは本人次第だ。
そして良心を取り戻したとしても、‘ 甘え ’や‘ 神の呪い ’が、再び心を陰に沈める事もある。
それでも、男の心を識ってしまえば、願わずにはいられないのだ。
男が人としての喜びを得て幸せになれる事を。
ESPを持つとはそういう事だ。
こうして、とりあえず、 静日の安全と、この地の平和を護る事に私は成功した。
だが、不用意に近づきすぎたせいで、猫好きの 静日にお持帰りされる事になる。
それに私は抗わなかった。
警察沙汰の最中で、自分が被害者という立場で、野良猫に愛を注ごうなどと考える静日に期待を抱いたからだ。
人と人として友になれる相手になるのではないかという期待を────。