3 言葉は呪なれば
今回の作中紹介小説は「カーミラ」と「ドラキュラ」と「戦争と平和」です。
クトゥルフ神話は作品群で一個の小説ではなく設定も様々です。
「昴」は小説ではないですが動画検索でもすればトップに出るでしょう。
2017/05/28(初稿)
文字数(空白・改行含む):6095字
文字数(空白・改行含まない):5589字
2017/06/01(改稿)
電子精霊とその説明の追加描写
文字数(空白・改行含む):6813字
文字数(空白・改行含まない):6260字
2017/06/02(改稿)
‘ 癒し ’と‘ 甘え ’について補足
文字数(空白・改行含む):6835字
文字数(空白・改行含まない):6275字
和人像
3 言葉は呪なれば
‘ 人として生きる野良猫の生 ’は、WEB小説の冒険者に似ている。
日々、狩りをして、糧を得るために探索し、時に媚び、時に盗み、時に人が価値を見出さぬものを漁る。
他の野良猫と同じように、人が捨てた残飯を漁るのは同じだが、ヒュプノを使って安全に食物得る事が私にはできた。
ならば、普通の野良猫が冒険者なら私はチート冒険者というものなのだろうか?
母猫が心ない子供達に殺されて数ヶ月。
他にも多くの猫が殺されていった。
野良猫を駆除したいと考える者達の傲慢のせいだ。
それを考えれば人間達は野良猫にとっては魔物なのだろう。
だが、人間と戦う猫などいないので、やはり似てはいても別物なのだ。
野良猫が生きるために抗うのは、理不尽な自然の摂理であり、つまりは人から見れば‘ 神 ’だ。
心ある人間にとっては、‘ 神 ’とはそういうもので、だからこそ人は‘ 神 ’を祀り、皆の身に理不尽が降りかからぬように祈った。
けれど、誰かを服従させる生き方を選んだ者達は、争うための生き方を選ぶ事で、損得を第一に考えるようになる。
自分の身にかかる理不尽は嘆いても、他者の理不尽を嘲笑い悦ぶようになる。
そうして、‘ 神 ’に憧れ、理不尽を強制する存在になろうとしていく。
あるいは‘ 神 ’に従い理不尽を行う‘ 天使 ’のように振舞おうとする。
命は神なり、命を愛すは即ち神を愛すること。
戦争文学の代表ともいえる小説をハリウッドが映画化した時に上げた一節が、その呪いを象徴している。
‘ 神 ’を掲げる者達は、生命を持つ者として、生命を、ただ生命であるから敬意を抱くのではなく。
‘ 神 ’という‘ 暴力と権威の象徴 ’を通して見ることでしか生命に価値を見出せなくなる。
そうして、表向きで‘ 神 ’を慈愛の象徴と騙りながら、‘ 神 ’の名の下に殺戮を誓わせる矛盾を造り出すのだ。
ESPを通してみると、資本家や軍人、権力者のための司法や犯罪者の思考とは、そういう呪いに思える。
自分達のために他人を従わせる‘ 掟 ’を振りかざし、限りなく狭量に無情に残酷になっていく呪いだ。
呪いに侵された者達は、普段は 寛容に見えても、自らが損をしたと感じた時にこそ、その卑しい本性を表す。
野良猫にとっては唯の排泄であっても、それを不利益だと感じれば、殺しにかかってくるのだ。
利害が絡むなら損をして得を取るなどと考えても、そうでなければ、ほんの僅かな慈悲も無く、ただ自分の不快さや損しか見ない。
そういった者達が住む地を何度も離れ、私は旅をする事になった。
けれど、そういった者達が思うように、人間とはどうしようもない生物だとは私には思えない。
そういった者達に偽善だと批難されようと、権利を侵害していると攻撃されようと、本当に大事な想いを見失わない人間がいるからだ。
‘ 神の摂理 ’に呪われた者達は、物語に出てくる吸血鬼のように、人を服従させ心なき奴隷吸血鬼にする。
その代表ともいえる吸血鬼物語の没落貴族という設定のせいで、以後、吸血鬼は封建領主の本性を示す強大な怪物として描かれ続けた。
先に書かれた物語に出てくる女吸血鬼ではなく、吸血貴族が代表と称されるのは、そのせいなのだろう。
19世紀の半ば、国家の枠組みの中で服従を強いる封建領主と民主主義を利用して争っていた資本家に吸血貴族は宣伝材料として最適だったのだ。
資本主義という金銭による征服システムを造り上げた資本家達が商家を服従させて企業権力を確立させていったアメリカのハリウッドで吸血鬼は題材とされ続ける。
民衆の血を啜り、人を絶対服従の奴隷にして、人に寄生する怪物。
しかし、その姿は封建領主のみならず、当然、資本家の姿でもあった。
時代が進み、封建領主が消えていき、民主主義が民衆に理解され始めたアメリカでは、吸血鬼は身近な悪意として描かれるようになる。
赤狩りとマスメディアによって、吸血鬼を資本家の象徴とする類の作品が消されていったからなのだろう。
対して、かつての‘ 神の子孫 ’を象徴とした日本。
‘ 神の摂理 ’で呪いを振りまく権威主義の政治と資本家が利権で結びついたこの国で、吸血鬼は独自の描かれ方をしていく。
呪いが、人間や社会を語る文学を衰退させていき、メディアミックスと呼ばれる映像に頼る感覚的な娯楽が発展していく中、吸血鬼は美化されていった。
ゲームやマンガやラノベに出てくるような、忌むべき存在ではない超越者としての神祖吸血鬼という存在は、そんな美化の極致だ。
それもまた、人間の無意識を蝕む呪いなのだろう。
それは‘ 神 ’を敬い愛すのと同じ意識。
‘ 理不尽を圧倒的な暴力で覆す理不尽 ’を愛さずにいられない呪いだ。
悪を覆す悪を愛し、それが必要悪であるかどうかを考えなくなった時、呪われた者達はチートな主人公を求める。
それは、‘ 呪われた超人願望 ’だ。
そう考えるならば、やはり私はチート冒険者ではない。
ある夜、ダンボール箱に潜り、空に輝く昴を見ながら、周囲を警戒しつつ、私はそんな事を考えていた。
ESPも冬の寒さを乗り切る役には立たない。
野良猫としては当然だが、人間には辛い状況だ。
それでも、ヒュプノで認識阻害をして‘ ぬらりひょん ’として残飯を漁っても、人間を一時的に奴隷化して住居を確保し食物を貢がせたりはしない。
理不尽を受け入れた呪われた者達には、くだらない拘りに思えるかもしれない。
だが、それは‘ 人としての誇り ’というものだ。
呪いで卑大化した自我が、敵味方でしか人を判断できなくなったせいで生まれる‘ 貴族を自称する者達の下卑たプライド ’ではない。
人が人を好きだからこそ、‘ 人としての道 ’を踏み外さないでいようとする‘ 理不尽に立ち向かう誇り ’だ。
それを忘れれば、私は怪物となり、‘ クトゥルフの邪神 ’と変らぬ化物になり果てるのだ。
奇しくも、神に人の心はなく、あるのは理不尽と混沌だけという事を、あの物語は、怪奇小説の形で表現している。
そんなものになるよりは、路上で敵を警戒しながら夜を過ごすほうがいい。
呪いに抗えたとしても、それは成功ではなく達成で、抗えなかったとしても、それは挫折ではあっても失敗ではない。
成功によって得る虚栄もなく、失敗によって失う充足もなく。
達成しても挫折しても次の試練が訪れ、死か破滅のそのときまで、呪いに抗い続ける生。
“ ‘ 堕ちてしまえば幸福だ ’という甘えた偽善者の声 ”を安らぎと勘違いすれば、人間なんて皆ゲスだと考える‘下種脳’に成り果てる。
人の生き方とは、その麻薬のような‘ 甘え ’に抗おうとする希望だ。
成功を求め失敗を怖れる呪われた者達には、馬鹿な生き方だと嘲られるかもしれないが、それは人にとって最も大切な最初の約束だ。
その約束があるから、人間は繋がって生きていける。
神との契約が強大な呪いならば、その約束は繋がれる希望。
ESPを通して人の繋がりを感じられる私にはそう感じられた。
その約束が失われた時に、人間の世界は繋がりを失い滅びるのだ。
だから、私は‘ 神 ’を相手に、‘ 邪神 ’と成り果てないように、自分との約束を護り続ける。
そうやって、日々、呪いに抗いながら、私は幾千の昼と夜を越えて放浪を続けた。
だから、その安住の地を得た時の喜びは一際だった。
安住の地といっても誰かに飼われたわけではない。
私が姿同様に心まで野良猫ならば、それも好い話だろう。
野良猫達は、殺される事を恐怖しても嘆いたりはしないように、飼われる事が“ ‘ 人 ’として‘ 人 ’と共に歩む ”生き方に背くものだとしても、何も感じない。
猫は飼われても人ではなく、人は呪われなければ飼われる事はできない。
本能に従順な野良猫達は、全ての理不尽を受け入れる代わりに、神など必要としないし理想も持たない。
人にとっては‘ 神 ’に従う呪いでも、自分以外を顧みない野良猫達には、ただ生きる事にすぎない。
物語が擬人化した猫のような存在ではなく、野良猫達はそういう存在だからだ。
だが、私はESPで人の心に共感して育った‘ 人として生きるミュータント ’だ。
寄る辺はなくても理想はある。
猫のふりをして誰かを欺きながら、家族のように共に生きようなどとは思わない。
猫のように、そう思えないのならしかたないが、私にはそう思えるのだ。
だから、私は思わない。
私がただの人間なら、堅苦しく考えすぎと言う者もいるだろう。
だが、私はいつでも‘ 邪神 ’となれるミュータントだ。
ESPを持つ私が怪物になるのは簡単だ。
甘えるだけでいい。
自分を甘やかすだけでいい。
そうすれば、ゆっくりと腐敗が進むように、社会を悪が満たしていくように、私は側にいる者の精神を侵す‘ 邪神 ’となれるだろう。
そうして私が人を狂気に導く思考を地球全体にエンパシーで無差別に送ったなら、人類という種は終わる。
そう私の‘ 能力限定の予知 ’は告げていた。
だから、私は‘ 甘え ’でなく‘ 癒し ’を求め。
飼い主ではなく、友となれるかもしれない人間を探したのだ。
そのためにESPで、‘ 理不尽を愛さずにいられない呪い ’に侵食されていない地を探した。
そして、私はその田舎町にたどり着いた。
その道中で、悪辣なテロリストや犯罪者を自首させたり捕まえたり。
国会議事堂で汚職議員や政財官の癒着による不正を一掃したりと。
超人願望などないのだが、ESPのせいで判ってしまえば助けないわけにもいかず、人助けの連鎖で、つい色々とやらかしてしまったが、それも今ではいい想い出だ。
エンパシーは人の害意だけでなく、心の痛みを伝えるので、周囲を警戒する野良猫の生き方をしていれば、どうしても他人事では済ませられない。
だから、厄介事は、私の人生に深く結びついて離れようとしない。
特に、議員の大半が逮捕されたり辞職したりして、政治的な空白が生まれたのをどうにかするため、最短の期間で、まともな人間で、国会を再構成する手助けをした時は苦労した。
ヒュプノで操るのではなく、エンパシーで良心を増幅させた結果なので、予想もつかない連鎖が起こったのだ。
だが、操られた結果ではなかったという事実が重要なので、それ以外の手段は取れなかった。
人間をヒュプノで操るのは、神になりたいと望む呪われた者の手法だ。
だが、エンパシーによる良心の増幅は、人の可能性の一つを取り出す手段だ。
だからこそ、手間がかかる手段でも、そうしなければならない。
手段を選べないのなら、それは間違いと過ちの中にいるという事なのだ。
防いだ暗殺が14件、脅迫は数百件、詐欺が数十件。
その余波で中国、ロシア、アメリカ、南北朝鮮の陰謀が暴かれたり。
テロネットワークと軍産複合体の多国籍企業との繋がりが公表されたり。
様々な事件に対処するうちに、十数ヶ月でかなり国際情勢は変ってしまった。
この国でも、桜に始まり、メディア、菊、鶴などの宗教、在日、中共、核、菱と多くのタブーの裏で起こった悪事が明るみに出て、裏の常識といわれるものが壊れていった。
その動きの陰に、ただの野良猫に見えるミュータントがいたと判れば、きっと全ての猫が駆除されていただろう。
現に政府機関の幾つかは、超能力者の関与というものを疑っていた。
防いだ暗殺の内、1件はそれがらみだ。
取るに足らない理想家の机上の空論と考えていた民主主義の復活が実現しそうになって焦った既得権益を貪る組織が起こした事件の一つだった。
思考加速と思考分割で幾つものESPを使えても、精神の一部を人間に憑依して守護霊のような真似ができても、肉体がただの猫では限界がある。
特に、私はミュータントのせいか、肉体的には一歳にわずかに満たない仔猫くらいの大きさで成長が止まったのか体重は3kgあるかどうかだ。
公共の交通網や自動車を利用しても一日の活動時間と範囲は限られてしまう。
事件を揉み消そうとした検察官や警察官僚を自首させて、警察と司法が自浄作用を取り戻していなければ、多くの血が流れただろう。
私が起こしてしまった流れに、多くの人々が理不尽を正したいと願う者が共感し。
その共感を私がエンパシーで繋ぎ、その‘ 和 ’の連環を広げていく。
おそらく十余年しかないだろう猫の寿命の内の数年を、そんな美しい理想と醜い情念のぶつかり合いの中で、呪いに抗いながら生きた。
理想を持つ者をエンパシーで繋ぎ、呪いに従う者の呪いを祓い、呪いを愛す者の繋がりをテレパシーで暴き。
多数の権力者の起訴の陰で、起こりそうになる犯罪を防ぐ。
殺人未遂、百数十件、傷害未遂、数百件、脅迫、多数。
その中で救えなかった命はかろうじてなかったが、後遺症が残る怪我をするものは何人か出た。
思考加速のせいで数百年にも感じる時間を、燃え尽きる事もなく生きられたのは、多くの理想を信じる人間の心をエンパシー能力で共感できたからだろう。
それでも肉体は否応なく消耗していき、私は隠居を考えるようになる。
陰で生きる生活に倦み疲れていたのもあった。
だが、非合法な手段を使う国内外の組織が、手を引いたのと防犯防諜組織が政府ではなく司法警察とは別の一部門として立ち上がった安堵が隠居を考えた最大の理由だった。
公私混同の膿を出して重犯罪や国内外の特定利権に関わった人間を除き、政府の指揮下に入った公安警察。
政治家や同盟国の政府や企業と癒着した検察官を一掃して、元弁護士と元裁判官と元検察官から選挙で選ばれた民主司法院の指揮下で動く司法防犯局。
全ての野党議員から選出された代表の指揮下で動く特定秘密行政監査局。
その三つの組織があれば、私がいなくても大丈夫だと確信したのだ。
そういった政治の変革は海外へも伝わり、民主主義運動と権威主義の抑制運動に資本主義競争の平等化や世界的平和条約の締結による人類統一を目指す者達も育ちつつある。
インターネット回線で伝わるエンパシーを介して深く繋がった無数の信頼による共感が時代の流れとして現れたのだ。
とうに、それができるくらい人類は豊かさを持っていた。
あとは、暴力による収奪を否定し、共存の支配へと還す理性で、‘ 呪いを打ち破ろうとする人間達を害する‘ 権力の闇 ’を暴き、明るみに出してやるだけでよかった。
それだけで、権威主義はこの国でのように力を失っていくだろう。
それは、コンピューター内で働くESPで創った‘ 電子精霊 ’を通じて確信できた。
精霊達は隠れた電子パターンとしてネット内で活動し続け、私の代わりに‘ 人 ’を信頼で繋ぐエンパシーを発し続ける守護霊だ。
罪を暴くべく、悪人の良心に働きかけ改心させるような力はないが、嫌な予感や虫の知らせのように危機を知らせたり、信頼できる人を教える弱いエンパシーを使う。
何度かエンパシーを使えば消えてしまう儚い精神エネルギーによる存在だが、人の意志から精神エネルギーを補充できるし、私は数年間、毎日20~100の‘ 電子精霊 ’をネットに流し続けた。
未だ無数の精霊が世界中で働き続けている。
非合法な手段を使う海外の組織が日本の政治から手を引いたのは、精霊達が繋ぐ手助けをした人々の働きで足元に火がつき、それどころではなくなったからだ。
そうして新体制の政治が始まり、国民のための政治を実現しようという多くの新人議員達が創った幾つかの政党が政治基盤を固め終えた時を見計らい、遷都間近の東京を離れた。
私が旅の果てにたどり着いたその町は、その政党の一つの若い党首の故郷だった。
彼女の心に残った故郷への想いが、私に余生を過ごす安住の地を与える事になったのだ。