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2 なべて世は事も無し

今回の作中紹介小説は「西部戦線異常なし」です



2017/5/21(初稿)

文字数(空白・改行含む):3738字

文字数(空白・改行含まない):3420字


2017/5/21(改稿)

誤字と時制の修正

文字数(空白・改行含む):3753字2017/5/22

文字数(空白・改行含まない):3432字


2017/05/25(改稿)

‘ 神の掟 ’の説明を加筆

文字数(空白・改行含む):4802字

文字数(空白・改行含まない):4344字


2017/06/02(改稿)

‘ 癒し ’と‘ 甘え ’について補足

文字数(空白・改行含む):4924字

文字数(空白・改行含まない):4436字

和人像

挿絵(By みてみん)



2 なべて世は事も無し





 ESP能力を持つミュータントの私が、私は人であると自らを定義し、人として生きようと覚悟してから1年。


 私は、‘ 野良猫としての生 ’を生きていた。


 当然、私を名づけてくれる親はいなかったので、名前は自分でつけた。


 和人と書いて‘ かずと ’と読む、ありふれた名だ。


 当然ながら、その名を呼ぶ者はいない。


 しかし、生まれは猫であっても、私は人として生きる道を選んだのだ。


 フィクションの猫のように“ 吾輩は猫である。名前はまだない ”というわけにはいかない。


 いつか、信頼できて口の堅い誰かと交流する時のために、名くらいは必要だろう。


 もっとも、現状では人間どころか、猫でさえ私を警戒して、近寄れば逃げ出す状況だが……。


 普通の人間から見れば、私は自分が人だと言い張る滑稽な猫で、猫から見れば恐怖を感じさせる異質なミュータント。


 それが現状だ。


 現状であって現実ではない。


 全ての可能性と未来を見通せない者が、‘ 現実 ’を口にするのは、見限り諦めた時か絶望した時だからだ。


 母猫でさえ認識誤認を使わねば、生まれたばかりの私を食い殺していただろう。


 異質な存在を恐れ排斥しようとするのは、人間に限った事ではなく、動物が持つ本能の一種なのだろう。


 神という存在──畏怖の象徴である究極の怪物──が造り出したといわれるだけあって、自然の摂理である淘汰システムは非情だ。


 そこには、善悪もなければ慈愛や寛容といった人の生み出したあらゆる美しさも、それとは逆の醜さも無い。


 あるのは、只々、他の生物の命を喰らい合い、生命(いのち)を繋いでいくための物理的な仕組みが有るだけだ。


 美しさも醜さも、人が創り出す精神の在り方で、人間だけのためにあるものなのだ。


 だから、人として生きる道を外れれば、安らぎはない。


 ‘ 野良猫としての生 ’とは、そういう現状(もの)だった。


 だが、まあ悪い事ばかりではない。


 人間社会では実感し難い人間の一面を猫ならば見る事ができる。


 人間相手ならば損得や見栄や好悪を考えて接しても、猫相手になら、たいていの人間は素顔を見せる。


 ‘ 吾輩は猫である ’とは、そういう事を猫の視点で描いた物語らしい。


 まあ、ESPで人の心を読める私には意味のない話なのだが……。


 やはり、どう好いところを探そうとしても‘ 野良猫としての生 ’は、人にとっては碌でもないもののようだ。

 

 人の生命(いのち)に対する敬意がなければ、猫などゴキブリ同様に駆除されているだろう。


 社会に最低限の秩序がなければ、猫など射撃の的か、非常食としか見られないだろう。


 この飽食の国では忘れられがちだが、猫は人間ではないのだから。


 そういう意味では、この国は‘ 人として生きる野良猫 ’にとっては、比較的、不幸ではないのだろう。


 もっとも、野良猫達には、人が創った概念の幸福や不幸というものはない。


 私以外に猫のミュータントがいないなら、比較的などといっても意味はないのかもしれない。


 人から見た猫の世界が幸せかどうかは、人にとっての幸せだ。


 その事を実感したのは、私が産まれてから3ヶ月ほどしての事だった。





 母猫とは季節が変る前に別れる事になり、私は春と夏の境に安息の地(なわばり)を求める旅に出る事になった。


 それは若干早いが、唯の子離れで、自然の摂理だった。


 ミュータントだからといって、肉体は特別に弱くもなかったのは幸いだった。


 だが、平均的な猫より強いわけでもない。


 コンビニや外食産業の残飯を食い漁る生活は、それほど苦でもなかった。


 しかし、それでも、この飽食の国で最下層を自認するホームレスよりも、当然ながら野良猫の生活は過酷だ。


 ホームレス狩りは重罪だが、猫狩りは捜査さえされない軽犯罪だからだ。


 だから、禁忌を損得でしか測らない者や善悪の分別が無い者は、平気で人の道を外れる。


 小動物を殺す狩りを行ったのは、ただの子供だった。


 それはイジメから始まった。


 人の心を捨てる行いをさせて、心優しい者の心を自分達と同じ醜さに染めたいという欲求が起こした事件だった。


 その初夏の日。


 私は、その3番目の犠牲として選ばれ、彼らの心を知る事になった。


 強者が弱者を貶め、蔑み、いたぶり、苛む、最悪の遊びから──。


 どうして普通の子供がそんな醜い行いに手を染めたのか。


 サイコメトリーとテレパシーとエンパシーで、私は多くを知る羽目になった。


 理不尽が自分の身に振りかかった時、人間が取る態度は、困難な事に向き合った時と同じく三つ。


 従うか、抗うか、逃げるかだ。


 争う、戦うという選択肢を上げる者もいるだろうが、暴力は常に選択肢外の選択でしかない。


 ‘ 人としての道 ’を外れない状況でしか、受け流す事は許されないから、取れる態度は暴力的な方向へと向う。


 だが、それでもそれは最後の選択できない状況で理不尽を自ら為す理外の選択だ。


 契約や脅迫や傷害という服従を強いる手段や状況。


 それが人間社会の理不尽の根幹だ。


 そういった悪意に対して善意ができる事は説得だけだが、それが叶う事は、ほとんどない。


 先進国と呼ばれる国々が‘ 神の掟 ’で動いているからだ。


 自然の脅威、老い、病、死。


 そんな‘ 人間にはどうしようもない苦難(もの)への畏怖 ’を象徴化した‘ 神 ’とは、つまりは‘ 理不尽の象徴 ’だ。


 人間達は、そんな理不尽に立ち向かおうと、共感される理想として善を創り、共存していこうとした。


 けれど、そんな理不尽に憧れる心は、人間という動物の本能の中に常にあり、暴力的手段で他者を服従させようとする。


 だから、人はその‘ 共食いの自滅本能 ’という脅威を‘ 悪 ’として定めた。


 けれど、‘ 神の掟 ’に‘ 共存の理想 ’で抗い続けているうちに、豊かさが生まれる。


 豊かさは幸福ではないが、‘ 人間にはどうしようもない苦難という不幸 ’に抗い続けて人間が得た成果だ。


 そうして豊かさの中で、“ 人間にはどうしようもない苦難(もの)への畏怖 ”を忘れた愚かな者達が生まれる。


 そして、“ ‘ その畏怖 ’に向き合わない甘え ”が豊かさを幸福だと思わせてしまったとき、‘ 神 ’を利用しようとする‘ 豊かさに甘えた者達 ’ は‘ 神の掟 ’を創った。


 ‘ 神の掟 ’は、暴力という理不尽で豊かさを奪う‘ 権威 ’として創られ、‘ 豊かさに甘えた者達 ’が与える苦難を、‘ 人間にはどうしようもない畏怖 ’として混同させた。


 そうして暴力に‘ 権力 ’という名を与えて正当化する仕組みは造られ、人は‘ 神の子孫 ’を名乗る‘ 不幸をばら撒く獣 ’に服従させらていった。


 “ 人間にはどうしようもない苦難(もの)への畏怖 ”を持ち続け、‘ 自然の理不尽 ’に抗う者達には、争そい合う事が滅びへの道だという実感があったからだ。


 そうして‘ 妥協による服従 ’が‘ 神の秩序 ’となった。


 ‘ 共存の理想 ’で生まれたお互いを支え合うために富を公平に配るという‘ 支配 ’は、‘ 神の秩序 ’による収奪へと変った。


 やがて、時が‘ 妥協による服従 ’を‘ 支配 ’と混同させて、‘ 神の秩序 ’が行き渡るうちに、‘ 権力という暴力 ’を信仰する‘ 権力者達 ’は、互いに争いあうという最悪の道を選ぶようになった。


 それは、‘ 自然の理不尽 ’に抗う事を忘れた‘ 甘えた者達 ’にとっては当然の事だった。


  ‘ 甘えた者達 ’は、‘ 権力という暴力 ’を失う事を恐れ、権力を(ほっ)する余りに、それに執着するからだ。


 ‘ 権力欲 ’とは‘ 共食いの自滅本能 ’、つまりは人が悪と定めた定義(もの)だ。


 そして、権力欲(それ)が“ ‘ 神 ’という理不尽を愛する呪い ”だった。


 つまり、人間が神という脅威を使って人間を従える事は、悪なのだ。


 ‘ 神の掟 ’は、それが必要な悪だとして、善を護る正義に味方して、‘ 必要悪 ’を為せというものだ。


 だが、悪と必要悪は限りなく近いものだから、簡単に誤魔化す事ができる。


 誤魔化しに誤魔化しを重ね、損得のために善を敬遠して戦う生き方こそが正しい道だという嘘が常識となる。


 そうして、善を見失った人間は増えていき、その子供達もそういう人間達だったのだ。


 それは先進国と呼ばれる国々が創りだした世界の在り方から来るモラルハザードによるものだったのだろう。


 脅迫で猫殺しをさせた子供もイジメられて私を殺そうとした子供も。


 子供達の未熟な心には、最悪の怪物への憧れがあった。


 弱者から奪う事で格差を創りながら、弱者を蔑み自分達を貴族とよんで恥じないような人間と大差ない自我を、子供達は持ってしまっていた。


 自らを貴いと、特別だなどと考えてしまえば、人間の心は他者からの理不尽に耐えられなくなる。


 けれど、今の日本という国では、それが当然なのだろう。


 建前では民主主義を掲げながら、本音では‘ 民主主義の理想である自由や平等や平和 ’を敬遠して、資本主義で服従と格差と軍拡を進める飽食の国。


 誰かに従いながら誰かを従えて、少数が多数を従えながら造り上げたカースト組織を造るのが当然と考える常識。


 死や不幸から目を逸らし、欲望を満たす事こそが幸福だと考える傲慢な甘え。


 未来への希望のために‘ 人の繋がり ’を確かめる事で得る‘ 癒し ’と、奪いあい争そいあうために欲望を充足させて得る満足感に浸る甘えを、同じものと(かた)る誤魔化し。


 暴力で──服従を強いる力で──富を集めるシステムの中で、人のためになる働きをせず、寄生して生きる在り方を貴いとする“ 貴族ならぬ‘ 寄族 ’達 ”の権威。



 その中で育ち、生や死の実感を持たずに育った子供達は、本能という神の摂理に従って、理不尽な死をばら撒こうとしたのだ。


 無知と無邪気からくる残酷さ。


 人の道から外れて、子供達が迷い込んだのは、そんな悪意の巣だった。


 そんな悪意に会えば助かる確率は低いが、ESPのおかげで、私は生き延びた。


 エンパシーでの害意の感知が、スリングショットの致死の一撃を避けさせ、テレパシーとヒュプノで子供達を警察官に補導させる事で、この事件は終わった。


 だが、この私を死へと誘った事件が、報道に大きく取り上げられる事はなかった。


 まして犠牲になった二匹の中に、私の母猫がいた事など知る人もいない出来事だった。


 (')、空にしろしめす。なべて世はこともなし。


 西部戦線異常なしという報告で終わる物語があるが、その日もその物語と同じように非常に穏やかな、静かな日だった。


 戦場でなくとも理不尽はどこにでもあり、生命(いのち)は常に失われ続ける。


 交通事故で戦争を超える人数の被害が出ても、自動車は売られ続け、国土を失っても原子力発電は続けられる。


 決して覆せない理不尽だけでなく、人間が創り出すそんな理不尽もまた‘ 神の摂理 ’として、理不尽に従って生きるのは、甘い誘惑だ。


 それを優しいと感じるのは、少なくとも飽食の国の野良猫として生きるよりはマシな境遇の人間の特権なのだろう。


 そして、甘えられる余裕を失う事を怖れ、特権のために理不尽を振りかざしながら生きるのだろう。


 それが‘ 人として生きる野良猫の生 ’よりマシな生き方かどうか──。


 そう考えるなら、この人生もそう悪くはない。

 一度きりで終わるのなら。



野良猫ってハードボイルドですよね?

ヒューマンドラマって人についての物語ですよね?


ジャンル&タグ詐欺じゃないですよね?



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