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天神小路

作者:







とぉりゃんせ とぉりゃんせ

ここは どこの ほそみちじゃ

てんじんさまの ほそみちじゃ

そっと とおして―――




「ゆきひろくんは『みみどしま』ね」

 それはつい昨日知ったばかりの言葉だった。

香夜が廊下を歩いていると、ちょうど居間から母が説教するときの甲高い声が聞こえてきたのだ。好奇心旺盛な年頃、怖いもの見たさでついつい忍び足になったのも無理からぬ話だろう。

ふすまの間から気付かれないようにそっと覗くと、十上の姉が母にこっぴどく叱られているところが見えた。

そしてまた、母渾身の一喝。

香夜は反射的にぶるりと身震いして一目散にその場から逃げ出した。

自分か怒られるのでなくとも、やっぱりお母さんの怒鳴り声は恐ろしい。


そんな一瞬の間だったにもかかわらず、その中にあった単語を香夜は耳聡く拾い、駆け込んだ先の祖母の部屋で開口一番その意味を尋ねた。

香夜の問いに祖母は困ったように笑って、「何でもよく知っているってことだよ」と言うのみ、後は香夜の頭をよしよしと撫でるだけでそれ以上は教えてくれなかった。



『それならどうして、お姉ちゃんはあんなに怒られてたんだろう? 物知りっていいことじゃあないの?』

そんな疑問は尽きなかったけれど、自分よりも二つ下のこの少年は香夜の知らないことをたくさん知っていて、だから彼はお母さんの言っていた『みみどしま』に違いないのだと香夜は思った。

「みみ……どしま?」

 少年はきょとんと香夜を見返した。

彼女のいうとおり歳のわりに物事をよく知っているのは確かだったが、さしもの幸浩もそんな言葉を聞くのは初めてで。

けれども知らないと思われるのはどうしても避けたいと思う一端の見栄のようなものが少年にもあった。

 きっと香夜のことだ、自分を褒めてくれているのだろう。そう考えて、適当に話をあわせられる程度に幸浩は聡い子供だった。齢五つにして世渡りのうまいこと。

「う、うん。そうだよ、みみどしま」

「ね! みみどしま!」

 精一杯の適当な相槌に香夜は満足げに頷き、土のついたお尻をぽんぽんと叩いて立ち上がった。そうして幸浩と向かい合う。

「だって かよ、こんなの知らなかったもん」

 やっぱり幸浩くんに来てもらってよかった、と自分の身長より幾分か低い位置で両腕を掲げている少年に香夜は尊敬の眼差しを向けた。


 年相応にお転婆な香夜より、よほど大人びていて賢い幸浩を、彼女は兄か師匠のように慕い、また頼るようなところがあった。そして慕われる側の幸浩もそれがまた満更でもなかった。

 誰だって、人に頼られ、褒められればうれしい。ましてや幼い子供ならなおさらだ。


幸浩と同じように香夜も頭上に手をやる。その先には掲げられた幸浩の手。二人はアーチを作るように手を握り合い、それから一緒にあの有名な童謡を歌った。



 穏やかに木々がそよぎ、風が騒げばはらはらと金木犀の花が散る。

 3mほどもあるその木は、もう何年間前から、そのこじんまりとした空き地の片隅にあった。


二人の周りで様子を伺っていた白装束の小柄な少年達がきょときょとと顔を見合わせる。それからおずおずと、掲げられた腕の下を順繰りにくぐりだし、しばらくすれば、みな一様に同じ顔をして楽しそうに輪をなしていた。

顔と同じように、これもまた誰も彼も目の上で黒髪を切り揃えた愛らしい様子に香夜の頬は自然と緩む。


「どう? たのしいって?」

 香夜が笑ったのを見て、幸浩はそう尋ねた。じっと足元を見ても、自分の視界には何の変化もない。

「うん、みんな楽しそう。あはっ、ころばないでね」

踊るように駆け、時折つまずいてはからからと嗤う童を香夜が目で追っていると、不意にそれらが黒目がちなどんぐり眼をくりくりさせた。大樹の枝がしなる音が香夜の意識を誘う。


ふわり。


一際匂い高く、甘い芳香が香った。



「あ、妖精さんだ! まってたんだよ」

声を弾ませて、香夜は傍らに立つ大きな金木犀の根元を見やる。幸浩もその視線を追ったが、彼にはどっしりとした太い幹が見えるだけだった。

「うん、そう。ちっちゃい子がいたからいっしょにあそんでたの! ゆきひろくんがおしえてくれたんだよ、とおりゃんせ!」



ざわついていた風が止む。

代わりにこの場を包むのはむせ返るような花の、香り。



少女は握り合っていた手を解くと金木犀の木に駆け寄った。しかしどんなに目を凝らしても幸浩は香夜以外の者を見ることができない。

支えがなくなってしまった手を幸浩は恐る恐る下ろした。透明な子供達に当たってしまわないかと気遣いながら。


「ゆきひろくん! その子たち妖精さんのおともだちなんだって! 一緒にあそんでくれてありがとうって……―――」


温もりの消えた手を持て余して。

幸浩の心を占めていたものは、薄気味悪さでも恐怖でもなくただ寂しさだった。

香夜と同じ楽しみを分かち合えない悔しさと羨ましさ。それと……。

そんな諸々の感情があいまった寂しさをそれと理解するには余りにも短い生。不機嫌にそっぽを向くことしかできなくて、この気持ちの正体はまだわからないまま。

そんな少年を甘い香りをまとったそよ風がやさしく包み込んだ。






「幸浩くん、大変なの! 妖精さんが……!」

それから数年たったある日。香夜が小学校四年生、幸浩が二年生の秋のことだった。

血相を変えてやってきた香夜に引きずられるようにして連れて来られたのは、満開の金木犀の下。

「ほら見て!」

 香夜が指差すその先に、おそらく『妖精さん』がいるのだろう。しかしやはり、幸浩にその姿を見止めることはできなかった。

 涙ぐむ香夜の姿に、ちくりと罪悪感が胸を刺す。

ずっとずっと、秘密の場所と称して香夜が自分をここに連れてきてくれた日から、幸浩は一つの嘘を吐き続けている。

見えないなんて知られたくなかったから。いつでも人より勝っていたいから。呆れられたくなかったから。がっかりさせたくないから。


香夜が喜ぶから。



 弾かれたように。幸浩は香夜の手を取ると金木犀に背を向け走り出した。



「幸浩くん!? 待って、見えるでしょ? 妖精さんが……っ」

 力いっぱい引っ張る幸浩の手を振り払うこともできず、香夜はとうとう泣き出した。しゃくりあげる声を背中に感じて、どういうわけか自分の目からも涙がこぼれる。

 つないだ手がじんわりと熱い。



「妖精さんが透けてるの!」



 幸浩には、妖精なんて見えやしなかった。







「妖精さん……っきえちゃうの……かなぁっ?」

しばらく走って行き着いた公園のブランコに二人並んで腰掛ける。香夜は大きな目にいっぱい涙を溜めて声を震わせていた。

「泣くなよ、かよねえ……」

手を伸ばして香夜の頭を撫でる幸浩の涙は走っている間に乾いてしまった。

そうして撫でていてもなかなか泣き止んでくれない香夜を前にして少年は途方にくれた。ぽろぽろこぼれる涙を見ていると、一度引っ込んだそれがあったかい波に押し出されそうになる。

俺が、かよねえを守らなきゃいけないのに。泣かせちゃいけないのに。

けれど幸浩の中にはそんな使命感と同時に、妬みや哀しさといった感情が形のない澱のようにもやもやと淀んでいた。

妖精なんか見えなくてもいいじゃないか! そんな怒りにも似た想いが、広く強く幸浩の心を占める。




『ゆきひろくん! もうね、キンモクセイがさいたの! はやく妖精さんにあいにいこうよ!』

『ゆきひろくんがいっしょにあそんでくれて、かよ、うれしい!』

『かよ、妖精さんと遊んだり、お菓子食べたりするの大好き! 妖精さんが大好き!』




楽しそうに笑っている香夜を見るのは好きだったけれど。

でも橙色の木の下で自分には見えない何かと戯れている姿を見ていると、いつも喉の奥が塩辛くなって仲間外れにされたような寂しさが胸を締め付けた。

だから少し、ほんの少しだけ、心のどこかで香夜に妖精が見えなくなることを望んでいたのかもしれない。



少年は考えた。考えて考えて。

「『妖精さん』は……妖精の国に帰るんだよ。帰らなきゃいけないんだ」

 少しでも本当だと思えるように。作り話だって気付かせないように。

 慎重に言葉を選んで話し始めた。

「どうして? かえっちゃやだ……やだよぉ……っ」

「妖精の家は妖精の国あるんだ。そこで人間みたいに家族で暮らしてるんだよ。かよねえだってお家に帰れなくなったらいやだろ? ばあちゃんに会えなくなったらいやだろ?」

ぐじゃぐしゃになった泣き顔の眉根がさらに寄せられた。でも、どうやら幸浩の言わんとすることを汲み取ってくれたようで、ぎゅっとスカートを握り締めて俯いた。

「……うん。そんなのやだ。でもじゃあ、妖精さんとは二度と会えなくなるの?」

そういう風に切り返されえて、どう答えたものか、幸浩ははたと返答に詰まってしまった。

そんなこと知らない。知らないけど、早くかよねえを泣き止ませなきゃ。

それから、早くあいつがかよねえの前からいなくなるように。


「会えるよ。またすぐ遊びに来てくれるから」

「ぜったい?」

「ぜったい! でも、かよねえがあんまり寂しがったら『妖精さん』の邪魔になるかもしれないよ。『妖精さん』、家に帰れなくなったらかわいそうだろ?」

香夜はしばらく俯いて夕焼け色に染まる地面を見つめていたけれど、やがて一つ、こくりと頷いた。

涙はまだ止まっていなかったが、しゃくりあげる頻度は減っていて、それに安堵した幸浩は自分の望むことを口にしてみる気になった。

それでも、直接言ってしまうと香夜に嫌われそうだったから、頭を精一杯働かせて。

「ねえ、かよねえ知ってる? 妖精はね、人間が近くにいると不思議な力が弱くなって自分の国に戻れなくなってしまうんだ」

 大丈夫だろうか。変に思われないだろうか。

 このまま、忘れてしまえばいいのにと少年は強く願って言葉を続けた。

「だから、『妖精さん』のために、もうあんまりあそこに行かないほうがいいと思う」

 ずる賢く、少女を誘惑の芳香から遠ざけるために。







「香夜! 先生が呼んでるよ」

「はぁい、すぐ行くー」

掃除用具入れに箒を直してから、教室の入り口近くにいたクラスメートに軽く礼を言うと、香夜はすぐ職員室に向かった。

どうして呼ばれたのか、理由は大体わかっている。この前提出した進路調査票のことだろう。

我ながら馬鹿なことを書いたかなあと思うけれど、自分の正直な思いを綴ったのだ、悔いはない。

「失礼します」

 職員室という場所は何度来ても緊張する所だ。担任の机に行き着くまでの僅かな間も、目立たないように小さな身体をさらに小さくして足早に机の間をすり抜ける。

「ああ、秋本。まあ座れ」

そういって担任は香夜に椅子を勧めて、これのことなんだが……と進路調査票を持ち出した。予想通りの展開に内心溜息が漏れる。香夜は覚悟を決めた。

「これ、本気なのか?」

「はい、本気です」

その返答を聞いて教師は困ったように頭を掻いた。

「まあ、お前の性格からして冗談は書かないと思ったけど……なあ、とりあえず高校行かないか?」

 思ったとおりの反応が返ってきた。

まあ、ちょっと突拍子もなかったかとも思う。でもやるなら早いうちからがいいっておばあちゃんが言ってたもの、と開き直ってみたけれど正直なところ香夜の心は揺れていた。

「お前のなりたいもんを否定するわけじゃないが、まだ中三の春だ。成績も悪いわけじゃない。とりあえず高校いっとけ。な?」

 香夜だって、高校に行きたくないわけじゃない。ただ、進路と聞かれて真っ先に考え付くものを書いてみただけだった。

 先生に、もう少し考えてみろと言われて、香夜には自分の心が進学に傾いたのがわかった。と同時にそのほうが世間的にも将来的にも正しい選択だと打算的な考えが浮かぶ。

 職員室を後にしながら、香夜は釈然としない気分でぼんやりと『進路』というヤツについて考えていた。



「かよねえ!」

 唐突に後ろから肩をたたかれてはっとして振り向けば、そこには数年前までは毎日のように見ていたのに今やもう懐かしくなってしまった姿。二年のうちに大分成長してしまったけれどすぐにわかった。

「幸浩くん! そっか、今年入学だったよね」

「うん。久しぶりだな、かよねえ」

 幸浩とは、香夜が小学校を卒業したことで面白いほど唐突に顔を合わせなくなった。

卒業する前はこれからも変わらず一緒に遊んだりできるものだと何の疑いもなく思っていた香夜だったが、小学生と中学生の壁は思いのほか厚くて、なんとなくお互いに会わなくなってしまったというのが実際だった。

二年ぶりに会った幸浩は背も伸びて少し見上げなければいけないくらいで、顔つきもなんだか大人っぽい。

ほんとに久しぶりなんだと、香夜は懐かしい思いに駆られた。

「もっと早く会いに来てくれればよかったのに」

 顔を見れば一緒に遊んだころを思い出して、香夜の心は弾んだ。

そう古くもない思い出は目まぐるしく過ぎる日常と環境の変化にほんのりと色褪せていたが、それゆえに取り戻せない柔らかな魅力をまとっているのも事実だった。

「ごめん、なんか後ろめたくってさ」

幸浩は少し困ったように表情を歪めた。不思議に思って聞き返す。

「後ろめたい? どうして?」

「んーっと……ちょっと来て」

 すこし逡巡するそぶりを見せてから、幸浩は意を決して香夜の手をとった。そして階段を駆け下りる。突然の行動に、香夜は為されるがままになっていた。

「え、どこ行くの? ちょっと幸浩くん!?」



 行き着いた先は校舎裏の一角だった。

「ねえ、一体どうしたの?」

「ん、ここならゆっくり話ができるだろ」

その問いかけには答えずに、幸浩は掴んでいた手を離すと香夜の方に向き直った。改まった様子で背筋を伸ばす様子に、香夜もただならぬ空気を感じ、固唾を呑んで幸浩を見守る。

「ごめん!」 

ガバッと。直立不動の体勢から勢いよくお辞儀をされて、状況のわからない香夜はただ面食らうばかりだった。

そんな謝られるようなことあったかな。考えてみたけれど、思い当たる節はない。

とりあえず、香夜は沈黙でもって続きを促すことにした。

「俺、かよねえに謝らなくちゃならないことがあるんだ」

幸浩はそう切り出した。


「俺さ、かよねえに適当なことばっか言って……気づいてなかったかもしれないけど、ほんと俺、適当だったんだ」

 そんな告白に香夜は内心、にやりとした。

 いけないいけない。これは内緒にしてなくちゃ。

そりゃ小さいころはただ純粋で、彼の言うことを頭から信じ込んでいた香夜だったけれど、何年も一緒にいて自分もだんだんと成長していけばそういうことも薄々わかってくるものだ。

けれど香夜は黙って聞いていることにした。

「でもあれは、あれだけは自分の言ったことずっと気にしてて……後悔したんだ。ずっと悪いことしたって思ってた。かよねえが寂しそうにしてるの見てて、何度も言い出そうと思ってたけど、言えなかった」

 そのうち月日が過ぎて、かよねえはもう妖精のこと言わなくなって。それで機会をつかめないまま、離れ離れになって。

 もしかしたら俺が忘れてしまえと思ったから記憶がなくなったのかも、なんて馬鹿なことまで考えて、香夜が卒業したあと、一人であの金木犀の木まで行ってみたこともあった。けれどやはり、そこには風に吹かれる大樹があるだけで。

幸浩の心には晴れない気持ちだけが残った。

「あの妖精の話、全部作り話だったんだ。だから……」

「知ってたよ」

 え、と幸浩は思わず聞き返した。どうしても逸らしがちだった視線が、初めて香夜の顔に焦点を結ぶ。

昔はどこか頼りなさ気な印象だったのに、今目の前にあるのはこんな顔だったかと疑ってしまうくらい、凛とした雰囲気を漂わせる表情で、幸浩の心臓はとくりと波打った。

「なんとなく、わかってた。幸浩くん、ほんとは『妖精さん』のこと見えなかったんでしょ?」

あんまり必死な様子がなんだか可哀想になって、香夜は幸浩の言葉を遮ったのだ。

彼女にとって幸浩の告白はまさに寝耳に水で、正直なところ、どうして謝られているのか自分には理解できないくらいだった。そんなの、幸浩が気に病むことじゃないのに。

 香夜の言葉に幸浩は無言で頷く。

 その反応に、香夜の方こそ申し訳ない気持ちになった。そんなことで悩んでたなんて、全く気がつかなかった自分が情けない。

「やっぱり。私に合わせてくれたんだよね。あの話も、私があんなに泣いたから慰めようとしてくれたんだよね」

 そんなことを考えると他にもいろんなことが思い出され、その所為で搾り出すように発せられた言葉がちくりと幸浩の胸を刺した。

それだけじゃない。そう言おうとして、喉まで出掛かった言葉を飲み込んでしまう。

 決心してかよねえに会いに来たはずなのに、何やってるんだ俺は。

幸浩は奥歯を噛み締めた。

「私にもね、もうぜんぜん見えないの」

そう言って、香夜は寂しそうに笑った。わずかに潤んだ目はそう遠くもない思い出を探っているのだろう。

「そりゃあね、あの時はすっごく怖くって寂しくって『どうして?』って思ったよ」





香夜は生まれつき、人には見えないものが見える不思議な力があった。

それが妖精とか物の怪とかと呼ばれる類のものであると知ったのは物心ついてしばらくたった頃だったけれど、香夜にとってはそれらのいる世界が日常だったので、恐ろしく思うことはなかった。

数多いる妖の中でも特にあの橙色の花の香りをまとった穏やかで優しい少年が大好きで、ずっとずっと、毎年秋になるのが待ち遠しかった。

だから、幼さゆえの感受性が敏感に働いたのだろう。そんな日常が遠ざかっていく漠然とした不安と、愛しい者との別れを予感させる徴に。




「でもだんだん、なんとなくわかってきたの」

 きっと、仕方がないことなんだって。それが大人になることだって。

 六年生の秋、鮮やかに咲く金木犀の前を走り抜けながら、香夜は妖精の悲しそうな顔を見た。様な気がした。




「いつだったかな、幸浩くんがとおりゃんせを教えてくれて、みんなで遊んだよね。あの歌の意味、知ってる?」

 そう前置いて天神詣でのあの歌を少し癖のある声で歌い出せば、呼応するように裏庭の木々がさわさわと揺れた。それを見て香夜は愛おしそうに微笑む。



 とおりゃんせに歌われるのは大人になる儀式だ。

神の住まう国から俗世に降りて初めて、幼子は神の子から人の子になる。神に守られた子供は天神様に別れを告げて、来た道を帰って行く。



「だから、『行きはよいよい、帰りは怖い』なんだって」

 ただ守られていれば済んだ時はいつか確実に終わりを告げる。そうして人は現実を進み行く。延々と。

「でも私、帰り道なんてないんじゃないかって思うの」

 幼稚園、小学校、中学校と短いながらも確実に年を取り、高校、大学、そうしていつか必ず大人になる。その成長は誰にでも約束されていて、だからこそ逃れることはできない。留まってはいられない。目を瞑っていても俯いていても抗っていても、じりじりと、しかし確実に日々は過ぎ、去ってしまった一瞬一瞬を思い出し記憶として操ることはできても、そこに昔に戻るという選択肢はない。

「今はまだ、寂しいって思う気持ちが残ってるけれど、この気持ちも大人になったらきっと忘れちゃう。そういうことなんじゃないかって」

 時々現れては甘酸っぱく心を締め付ける思い出。決して消えたりはしないけれど、時を重ねることで徐々にその密度は薄くなってしまう。

「幸浩くんのことも、もう少しで思い出になっちゃうとこだった」

 冗談めかして言ってみせてから、香夜は手を伸ばして幸浩の頭をぽんぽんと叩いた。

「私、こうしてまた、幸浩くんと話せて嬉しい。だから、そんなに気にしないで」

 そう言って笑った香夜の顔はやっぱり寂しそうだった。

その表情を見ていると幸浩の胸にも寂しさが込み上げてきたが、それ以上に不甲斐無さとか遣る瀬無さとかそんなものの合わさった想いが熱を伴って暴れ出すのを感じた。

 

逃げ回ってばっかりじゃあ、もう駄目なんじゃないのか。狡賢く頭働かせたって、伝わらないんだから。

一度切れかけた絆は、絹糸よりも繊細だったんだって思い知っただろう。


今日こそはと何度も奮い立たせた勇気が、ようやく幸浩を動かした。

下ろされる小さな手を強く握って。


「俺は香夜の思い出にはなりたくない」

 

触れ合った手はとても熱くて、指先から鼓動が伝わった。







一人でここに来るのは二回目だった。


幸浩はざらりとした幹にそっと手を置いて、祈るように目を閉じた。もしかしたら伝わるかもしれない。

「ごめんな、香夜のこと取り上げて」

香夜はああ言ってたけど、あいつがここに近づかないように仕向けたのはやっぱり俺なんだ。

怒っただろ。俺のこと、憎んだだろ。

「妖精の見える人間なんてそういないよな」

きっと、お前にとっても香夜はかけがえのない存在だったろうに。


秋ももう深まりを見せ始めている時分、短い盛りの金木犀はすでに葉の色が目立ち始めていた。ぱらぱらと小さな花弁が舞い落ちて、幸浩の頬を掠める。


「俺お前のこと嫌いじゃなかった」

 ここの空気が実は好きだったんだ。


ふわりと、終わりかけの金木犀から最後の香が香った。

それはあの頃と変わらず、優しい色合いを見せながら幸浩の周りを漂い、穏やかに収束した。

それはまるで自分を気遣っているかのようで、もしかしたらまだ俺は神様に守られているのかもしれないと幸浩は思った。






「ああそうだ」


 これ、教えてやろうと思って来たんだった。罪滅ぼしになるかわかんないけど。


「なあ、香夜の夢、知ってるか?」


 俺にさ、嬉しそうに話すんだ。進路希望表に書いたってんだから、相変わらずなんというか、だよなあ。

『大人になったら忘れちゃうかも』って、それじゃ忘れたくても忘れられないだろうに。


あーあ、ったく。


「庭師だってさ」


 俺、一生お前に勝てそうもないよ。





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