9.護衛と袋と居た話。
「なんなんだよ! マジでなんなんだよお前!!」
苛立ったというよりは、悲壮感が漂う護衛の声に、セルは特に反応しない。
フクロンヌと別れた後、目の辺りに穴を二つ開け、セルは前が見えるように改良してみた。少し狭い視界だが、それで十分だった。
そうしてから一度、侍女仕部を振り返った。フクロンヌの背ももう見えず、今自分が一人であることが、心に波紋を作る。
一人は、慣れない。
フクロンヌと繋いだ手を強く握り締め、その感覚を繋ぎとめる。
別に、フクロンヌに未練があるわけではない。会えるのなら会いたいが、相手がそう思っていないなら仕方がないと思う。
ただ、『セルリア』としての自分を認め、繋ぎとめてくれた事だけは、忘れたくなかったのだ。
幾許かの時間そうした後、侍女仕部から視線を外す。手は、握りしめたままだ。
そして、セルはクビレサギの木の下がある、自分の居場所へ歩き出した。
アズリ・カートスは、誰かを探すように視線を彷徨わせ続けていた。
夕焼けを写し取ったかのような鮮やかな髪は、アズリの運動量に比例し、汗で濡れ、風で後ろに流れていた。表情には焦りと疲れが見え、息は整う暇なく繰り返されている。
アズリは見慣れた木の下に人影を見て、一瞬、目の中が輝いた。その正確な姿を目に捉えた瞬間、全力で引き返そうとしたが。
「来たか、アズリ」
女の声にしては低く、男の声にしては少し高い、聞きなれた音を、袋を被ったドレス姿の怪しい人物から聞き取った瞬間、アズリは膝から崩れ落ちた。手は前に突き、見事な脱力感を現している。
そして話は冒頭に戻る。
「俺がどれだけ! どれだけ探し回ったかお前ホントにわかってんの!?」
夜通しだぞ、夜通し走り回ったんだぞ俺!! そう言って、立ち上がりはしたものの、頭を抱えて地団駄するなど奇行をとるアズリに、セルは一歩後ろに下がった。
「なんでお前が引いてんだよ! 自分の姿を思い出せよこの野郎!! なにが、『来たか、アズリ』だ! 正直耳と目を疑った上にお前という存在を疑ったぞ俺は!」
「お前は落ち着きが足りない上にうるさいな」
自分の言った言葉に納得するようにセルは頷いた。勢い良くセルに文句を言っていたアズリは、口をそのまま大きく開けていたが、もう言葉は何も出てこなかった。あまりの理不尽さで。
もう一度膝から崩れ落ちそうになるのをぐっとこらえ、もうホントこいつイヤという本音を押さえ、眉間に手を当てるまでしてどうにか憤りを抑えるアズリ。
セルのテンションに付き合うと、心底疲れるということは、長い付き合いで嫌というほど知っている。誰かコイツの脳みそを一度洗ってみてくれないかと、どうしようもないことすら考えてしまう。
「とりあえず、説教はまた後だ。着替えながらどうしてそうなったのか説明しろこの馬鹿!」
最後の語尾が強くなったのは、収まりきらなかった憤りだ。だが、セルはアズリを見るだけで動かない。
「着替えないのか?」
不審げにアズリが言う。セルはゆっくりと両手を交差させ、自分の肩を抱いて見せた。
「きゃー、えっちー」
見事な棒読みで、セルは適格にアズリの心を逆撫でた。
セルにしてみれば、いまだ肩に力の入ったアズリに対しての軽い冗談だったのだが、結果としてはセルは頭に大きなコブを作る結果となった。
これに関しては、非常に言葉通りの自業自得というものだろう。
袋の上から頭をなで、思った以上に心配をかけていたのだとセルは少しだけ反省する。
そして、反省して満足した後、小さな二つの視界から、また手を眺めた。
手を握られることは、どれ程振りだっただろうか。脳裏に浮かぶ、母との思い出。
だが、自分の気持ちがそれを許さない。
セルは頭を振って、袋を被った、変な女に出会った昨晩からを思い出す。
―――
「走れ! どこでもいい、どっかに隠れてろ!」
女の身は、セルにとって酷く扱い辛いものであった。
黒い頭巾のジョーカーと応戦するアズリに、セルの存在は足手まといだ。セルは言われた通りに走ってその場を離れた。数人、こちらを追ってくるのがわかる。だが、距離はある。何処かに隠れれば十分に撒けるはずだと踏む。
いつもより走ることすら遅い体を叱咤して、セルは目の前の建物に滑り込んだ。
不思議なことに、建物に入ってから浸けられていた気配がなくなる。だが、他の気配が寄ってくるのが解り、セルは建物の中でも逃げ隠れすることとなった。相手が何者か解らず、どう対処すればいいのか解らない。
そんな不安定な状態で、何者かに出会わぬように階段を上り、走り、体力も限界に近いとき、いくつかの空き部屋となっているであろう所にセルは目星をつけ、その中の一室に駆け込んだ。
勢い良く開けた扉が予想外に大きな音をたてたが、セルには気にしている余裕がなかった。
あまり筋肉をつけてはいけない。それは、セルの身体が女に変わった時、直ぐに女だとわかってしまわないため。
幸か不幸か、中性的ともてはやされる身体は、本物の女性になっても一見なんの違和感も無いらしい。
護身術は最低限備えているが、セルには制限があった。実際は政務よりも体を動かすことが好きだ。だが、鍛えすぎてはいけなかった。女性の身体の線は男の線と比べ細い。筋肉を付けすぎると、変化が露骨になってしまう。
自分の身体はこうなのだと、セルはとっくに理解はしたのだ。こんな身体でもいいのだと言われ、自分の中でも決着がついた。
それでも、今日のように足でまといになったとき、どうしようもなく情けなくなる。身体が女になると、考え方まで変わるのか、気分も女々しくなる。それだけは、いつになっても慣れることができない。
息が整い、安心した瞬間、どうしようもない気持ちが、口をついて出た。
そして、声のすぐあと、部屋の物音でセルは初めてこの部屋の住人に気づき顔を合わせた。気配を感じなかったとはいえ、油断しすぎたと焦り、即座に構える。
相手は、どうみても袋だったため、顔を合わせたと言う表現は間違いかもしれない。と、言葉を交わし終えた後に思った。いや、そこは重要なことではないが。
変わっている女、というのが第一印象で間違いない。
彼女……フクロンヌは、こちらが何者か言わずとも理解しているようで、警戒すべき人……人? だった。
だが、彼女は今セルが女性なのだから助けると。
今一番の負い目であった部分を強みにさせられ、セルの気持ちの固い部分が少し解れ、何となく警戒する気持ちが薄れた。
変わっているヤツだ。それが第一印象ではなく確定的な印象となるまでに時間はかからなかった。
それを言う前に、フクロンヌから変わっていると力強く言われてしまったのだが。側付きたちと話す時ともまた違った、なんの意味もない軽い会話。
相手の顔色を伺いながら話すのは苦手だったが、顔色を伺う必要もなく、また伺っても仕方のないフクロンヌは、セルにとって無条件に好ましく思えた。
気が付けば迷惑をかけているようで、最初は申し訳なく思ったが、不遜な態度を見ていると、まあいいか、と思った。
それは、まるで旧知の友人のように。
だが、預けろと言われた時に、疑う気持ちがあったのは事実だ。いや、常に裏切られた時のための心積もりがセルにはあった。こんなときに手放しで信じられる風には育っていない。
けれど。
『セルリア様、ようこそ侍女仕部へ』
悩むのは面倒で嫌いだ。どうせ選べる答えは一つしかない。決断は基本的に側付きに任せていた。だが、今は自分しかいない。
ならば、どうやって選ぶか。
……そんなもの、直感に決まっている。
悩み続けるのは性に合わない。側付き達ならこいつを絶対に信じないが、今は自分一人だ。面倒な事な起これば、後で側付きに押し付ければ良い。
生涯、もう使うことがないと思っていた名前を使わせたこいつを、無駄に信じて見ようかと。
それは、最初から最後まで、どこまでもセルにしかできない、直感だけに頼る決断だった。後々の事はかなり人頼みだが。
あ、そういえばここが側付き達が入るなと言っていた侍女仕部か。
どこかで聞いたことがあると思っていたが、セルは部屋を出るあたりでやっと侍女仕部について、側付きたちの忠告を思い出した。
―――
「……で、侍女長に見逃され、多分侍女な女にそのまま外まで連れていってもらった、と?」
セルは着替えながら昨日からの話をした。アズリは信じがたい部分を確認として、セルと同じ言葉で繰り返した。
「そうだ」
無表情に頷くセルの髪は、袋を被っていたせいでぼさぼさだった。セルはそれを気にする風でもなく、ただ手で2回梳かして納得したようである。
アズリは息を吐いた。もう吐ける息がないだろうと言うところまで。
ああ、そうか。こいつ、馬鹿なんだ。勉強ができる馬鹿というものをアズリは心底実感させられた。
「言いたいことはいろいろある。なんで袋かぶってんだとか、気配がなんでないのかとか、お前警戒心どこに置いてきたんだとか、相手の名前がまずおかしいとか! なんだよフクロンヌって!」
叫びだしそうな勢いで言うアズリに、セルは普通に冷静だった。
「偽名らしいぞ」
「ああそうか。そうだろうな。そりゃそうだ!」
だんだんと言語が崩壊してきたアズリに、セルは初めて心配するような目で見た。疲れているんだな。セルはもう一度反省しておいた。
「つーかどうすんだよ! バラされっかも知れないんだろ!」
「お前はもう少し落ち着いたほうがいいぞ」
反省していた割りに、セルは尊大だった。アズリは一度下を向いた。握りしめた拳が震えている。
「お、ま、え、が! 少しは焦れよくそ馬鹿野郎!!」
今日のコブは二段重ねとなりそうだ。拳骨を甘んじて受け止めたセルは悠長にもそう思った。
「まあ、正直バラされても、俺たちには問題ないだろう?」
セルのその言葉を聞き、アズリは眉間に皺を寄せた後、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「そいつを、気に入ってたんじゃねえのかよ」
セルは笑う。セルは無表情のときよりも、笑った時の方が表情が読み取れない。
「そうなったら、それまでだったということだろう? こればかりは仕方ない」
満月の夜、確かにセルは女の身体になるが、それ以外は当たり前だが男の身体だ。確認もとられているし、だから正式に王位後継継承権第一位を持つことが出来ている。
それを、誰かが女だと言えば。
今まで誰にも知られなかったかと言えば、そうではないのだ。
侍女に満月の日、身体を見られたことがあった。
年若い侍女には、口を押さえることができなかったようで。
与えられた罰は不敬罪。彼女の証言を信じるものはいなかった。命を取られるほどではないが、王家に不敬をとったとされる彼女の行く末を、セルは知る気もなかった。
たとえ、それが心を砕いていた一人であったとしても。
「一応、一度忠告はしておいた。かなり助けられたしな。フクロンヌも感づいたようだし、大丈夫だろう。元から知っていたようでもあったしな」
アズリは頭をかいて、複雑そうな顔をした。
「助けられたってんなら、大丈夫だろ。とりあえず、お前の身体の事を知ってた袋女は置いといて、侍女長の方が厄介だな」
そう話を変えたアズリに、セルは何かを考えるように下を向いた。アズリの心遣いには気が付かない振りをする。
「そうだな。何を知っていて、何を隠しているのか」
二人の意識はここでわざと侍女長に変えられた。
侍女長にも助けられたようではあるが、それ以上に謎に包まれた侍女長は、下手をすればセルたちにとって脅威となるかもしれない。
「何者だ、あの侍女長は。女護にしても、あれだけの私兵を個人的に扱うことは許されているのか?」
気配も感じ取れない侍女長。そして、最後の言葉。全てを知っているような態度。
自分が何を知らないのか。それが解らない事が、セルには気に入らない。
「俺も詳しくはねえし、そういう話に詳しいのは俺たちじゃなく、アイツだろ。とりあえず、執務室に戻るぞ。多分、キレられるが」
心底嫌そうにアズリがそう言って、クビレサギの木に背を向ける。セルも、同意して後に続いた。
「ああ、アズリ。言い忘れていたが、心配をかけたようですまない」
思い出したように言うセルに、アズリは足を止め、また溜め息を吐いた。
「お前はそれは最初に言うべき事だろ。だからズレてんだよお前は! ……まあ、今回は許してやる」
その言葉が予想外だったかのように少しだけ目と口を開くセル。
「甘いな」
そう言ったセルに、お前が言うなとまた拳を作るアズリ。だが、拳はそのまま収められ、アズリはまたセルの前を歩き始めた。ここでこれ以上体力を使うことはやめたらしい。
「俺は、な。あいつはたぶん、甘くないぞ。そして確実に俺もキレられる」
その言葉を聞き、セルは空を仰ぎ見て、呟いた。
「殺されないといいが」
「やめてくれ。俺はまだ死にたくない」
今まで話してきたどの話の時よりも、二人の声も表情も苦かった。
ふいに、前を歩くアズリの手が目に入り、その手とは全く違うだろうフクロンヌの手を、また思い出した。
繰り返し思い出す事に、自分自身で違和感を感じる。
「……少しは、ときめいた、のか?」
その言葉は、小さく響き、前を歩くアズリには聞こえなかった。
女になった自分よりも小さな、暖かい手。痛いほどに握りしめられた時の安心感。
昨日の事を思い出して、袋を思い出して、これが吊り橋効果かと、セルは一人で納得していた。古い迷信も、案外馬鹿には出来ないようだ。
そう思いはしたが、数日もすれば忘れるだろう、とあまり興味も無いように視線を外して、また違う事を考える。
ただ、いつも冷たい手だけが、なんとなく温かいような気がして。少し嬉しかく思った事は忘れたくないな、と思う。
「何してたんだ!」
執務室に戻り、部屋に入った瞬間。爆発したような音量で、セルたちは怒鳴られた。
「え、待てリオ。なんでもう怒って、」
声の主に目を向けて、言い訳の体制に入ろうとする二人は、そのまま言葉を切ることとなった。
なぜなら、声の主は二人の予想の通りにただ怒っていたのではなく。
「王の寵妃が暗殺されかけた」
その言葉で、二人の目が驚きに染められた。
「は?」
アズリが理解しきれず声に出すも、リオと呼ばれた男はそれを無視して言葉を続ける。
「場所が場所だからね。僕らが――いや、セルが、かなり疑われてる」
先ほどとは打って変わって、感情を押し殺したような声。悔しそうな、焦っているような、怒っているような。
そんな彼に告げられた言葉に、セルは表情を変えることも、何かを言う事も出来なかった。
ただ、手が。
手だけが、また、氷のように冷たくなっていた。