2.彼女の話。
リュシー・ヒューレント。
侍女長の他、誰も知らないが、セル・ヴァーグ殿下付きの侍女だ。
ただし、殿下付きといっても、彼女が殿下に行うのはお茶を用意し、運ぶ事だけ。それ以外は雑用として王宮内で仕事をしている。
そんな彼女は、殿下、殿下付き護衛、殿下傍付きの三人が座る執務室のテーブルの上に、今日も今日とて、無心でお茶を用意していた。
殿下のお茶を淹れるということは、それだけで光栄な事だ。信頼されているという事であり、お茶を淹れる事に関して認められていると言う事である。
だが、――関わると面倒なことになる。というか、バレるとやばい。
リュシーの思考はこれに尽きる。
人によっては、大義名分の下に、殿下の傍に近づく事ができるお茶淹れの役割は、飛び上がるほど喜ばしい事だろう。また、それだけ王宮内から認められている立場として、鼻に掛けることだってできる。
だが、そのどれもがリュシーにとっては、欠片も魅力的には見えない。彼女は平穏に暮らす事が好きだ。自分から非日常に飛び込むような勇気も、被虐趣味も持ち合わせていない。
そのため、殿下のお茶淹れなど、本当は非常に不本意だった。バレれば、嫌がらせ、嫌味、妬み、媚など、面倒な事のオンパレードだ。
ただ、お茶を淹れる事は好きであるし、侍女長にその腕前を認められていると言うのは非常に嬉しかった。女性にしては高すぎる身長でも、気にしていないというように、背筋も態度も心根も、凛と真っ直ぐな侍女長が、リュシーは大好きで、心から尊敬している。
そんな侍女長に、褒められ、おだてられ、お願いされ、気がついたらお茶入れをしていた。意思の弱さに泣けた。が、侍女長の手腕の前では、どんな強固な意思も無意味だと気持ちを持ち直した。
そんなリュシーは、気づかれたくないという一心で、長い間、毎日毎日お茶を淹れ続けていた。
無心で、無駄な行動は一つも出さないようにし、音も必要最小限。そんな行動が実を結んだのか、誰にも何も言われず、普段は平穏に過ごす事ができた。
ただ、問題は――
気付かれなさすぎた。
目の前でお茶を置いているというのに、重要機密そうな言葉が出たり、知ってはいけない国の裏側を覗けたりと、気がつけば、あれ、これ知ってたら駄目なんじゃないか?というような立場になった。
誰も話すことを止めなかったと言うことは、誰もリュシーの存在に気がついていなかったということ。その事に気がついたリュシーは、存在感を消そうと努力しまくった自分を責めた。
けれども、「失礼します」「お茶を淹れに参りました」と、必要最小限の言葉だって出しているリュシーを誰が責められるだろうか。
悪いことは何もしていないのに、気がつけば正規では知ることが出来ない知識がたっぷりと。
もう後戻りは出来ないと解ってからはそれまで以上に存在感を無くすことに全力を注いだ。安全に生きていたかったのになぜ空回りするのか。リュシーは嘆き、頭を抱えた。
それからも、努力の甲斐あってか、殿下を始め、殿下の周りの側付きにもその存在を感じとらせず、のうのうと生きることができた。首皮一枚で繋がっている日常に過ぎないような気はしたが、そんな事を気にしては生きていけない。
だが、その首皮一枚の均衡を変える一言が、殿下の側付きからでた。首皮一枚の均衡は、少しの事で驚くほどぶれる。
「セルの所のお茶、いつも美味しいよね。このお茶って誰がいれてるの?」
淹れた人が目の前に居るとは思ってもみないだろう側付きは、リュシーの目の前で爆弾発言をした。褒められて嬉しいと思う前に、お茶の話題が出た瞬間、無心を貫いてきた脳が一気に働いた。
誰が~のくだりでリュシーは音もなくその場を辞した。そこまで鍛えてはいなかったが、生存本能が動いたらしい。
大丈夫大丈夫大丈夫と脳内で繰り返し、言い聞かせながら、リュシーは侍女長の元に行く。
国家機密を知っていることをさすがに言えなかったが、自分がお茶淹れをしている事を殿下他二名に言わないよう、しっかりと口止めをお願いしておいた。
殿下含め三人に色目を使わない、真面目に仕事をする、自分がお茶淹れであることをひけらかさない。
お茶淹れの腕も然ることながら、そういったリュシーの気質が侍女長に気に入られてお茶淹れを任されているなんて、リュシーは全く知らなかった。
今回の口止めも、侍女長には非常に好意的に受け止められたと言う事を、リュシーは気づけない。
殿下側も、側付きのお茶の発言により、初めてその違和感の裾を捉えた。ここから、リュシーの平凡は、少しずつ崩れだす事となる。
リュシーはその日、寝つけないのを全力でごまかして見た夢は、側付きに似たの人形の口を縫い合わせるという、全力で深層心理を現した夢だった。
夢から覚めて、彼女は人形作りに取り掛かったが、意識が覚醒し、我を取り戻してやめた。