18.侍女と麗人の話。
朝日が昇りきっておらず、目に見える景色はまだ薄暗い。
だがあと少しの時間が経てば、眩しいほど明るくなるだろう。リュシーはこの日の昇りきらない微妙な時間が好きだった。
この美しい景色を見れば確かに今、生きているのだと感じる。だから同じように、美しいと感じる事のできる景色は大好きだ。
荒れた息をそのままに、リュシーは動く事をやめて手に持った棒を下ろした。
仕部館の裏を少し歩いた、湖のすぐ近く。この湖は湖とは名ばかりで、ただ美しいだけの水たまりだ。この中には魚は愚か、草や苔さえ生えない。何故なのかは知らないが、ここはそういうものなのだ。
その場にはリュシー以外の人間は居らず、響くのはリュシーの繰り返す呼吸の音だけ。空気は冷えているにも関わらず、リュシーの額には汗が流れていた。
大きく吸った冷たい空気が体中を巡っているように感じ、気持ちがいい。時間が経つに連れ、明るくなる視界と整う息。
清々しさを感じると共に、一番調子の良いときを考えると思うように動かない体に、最近は怠けていた事を自覚する。
……怠けていた原因を追求すると空しくなることは解っていたので、そこは考えないようにしたが。
つい二日前も、死と直面するような出来事があったばかりで、寝つきが悪い。
そのため少しでも長くベッドに居たかったのだが、これからも動くなら危険は付いてくると解っているし、それならば少しでも鍛錬や準備をしておきたい。それがたとえ、意味のないことだとしても。
体が止まれば思考が動く。思考が動けば保身に走る。保身に走れば恐怖で体が動かなくなるかもしれない。
それなら多少の無理をしてでも、条件反射でも、体は動くようにしておかなければ。これもまた、保身の一つではあるけれど。
動くと決めていたのに、まだうじうじと燻る気持ちをずっとリュシーはもて余していた。
結局動いて真相を知ってどうするかなんて考えきれていない。先の事から目を逸らし、ただ目の前の事だけしかできない自分自身にも苛立つ。
もっと、思い切ることができればいいのに。最近は時間があれば小瓶を握り締めている。
二日前の深夜。リュシーはジョーカーと会った。対面した。首を絞められ、簡単に殺されてもおかしくないようなところまで来た。
だが、それを解ってあの時は声を出してしまったはずだ。だが、やはりそれにも後悔はつきまとった。
生半可な覚悟で関われば、今後はもっと手痛い返しが来るだろう。それに耐えることが出来るほどの覚悟が、自分にあるだろうか。
殿下を助ける事。何よりも大切だと思っている自分の命よりも、大切なのだろうか。
――それは否だ。私は私が一番大切だ。
自分の命と、他の誰かの命。比べる前からどちらをとるかなんて、そんな事は解っている。
ジョーカーと対峙したとき。殺されるかもしれないとは思った。けれどどこかで、逃げ切れると思っていた。
けれど実際、ジョーカーが油断していなければ。もしくはもっと最初から本気であれば。そこにラウがいなければ。
そこにあるのは死だ。リュシーは怖気を感じ、身を震わせる。
本当に目の前で危険が迫ったとき、自分が何をするのか。みっともなく命乞いして、自分の命を優先するのだろうか。それができるならまだいい。
もしかするとジョーカーの時のように、殿下たちを助けようと動いてしまうかもしれない。
そんなことをして、死んでしまったら?
でもそうやって自分が大切ならば、最初から関わらなければいいのに。
女護にだって、言われていたはずだ。それなのに、軽い覚悟で気持ちで自分は関わって行った。
だが、殿下を助けたい。これは本当だ。
これが最後の、選択のできるとき。ラウはそう言った。リュシーの希望としては薬を側付きに渡し、そのまま去りたい。だが、それは叶わないということだろうか。
助けたい、けれど、死にたくない。
死ぬと決まっているわけではない。けれど、死なないという保証もない。
思考の渦はまたリュシーを絡めとる。だが、どれだけ思考を働かせても答えはでない。
いつのまにか息が整い、体は動くことの一切をやめていた。リュシーは最後にもう一つ、大きな深呼吸をして停滞した思考を振り切り、手ぬぐいを持ち水場へ移動する。
これから、どのように動こうか。萎えそうな心を見ないふりして、また目の前の事だけを考える。
桶に汲んだ冷たい水に思い切り顔をつけて、顔を上げたリュシーは動物のように頭を振って水と思考を飛ばした。一緒に濡れた髪が勢いよく頬に当たり非常に痛くて直ぐに後悔する。
「あら、豪快」
それは綺麗な音だった。少し笑いを含んだその音は控え目ではないのに耳触りに違和感がなく、存在すら気付き損ねかけた。
気付いた瞬間、距離をとってしまったのは身体に染み付いた条件反射だった。日頃の鍛練の成果と言っていいかもしれない。
声をかけた人物を見た瞬間、リュシーはまた半歩後ろに下がった。
その言葉を発したのはまさに、麗しい、という言葉を体現したかのような女性。なぜその存在に気がつけなかったのか、気が付いてしまえば目が離せないような、美しい人。
腰よりも下まで伸びる髪はまるで水の美しい流れを表しているようだ。巻いているとは思えない自然に波打つ栗色のみずみずしい髪。眩しいほどに降り注ぐ朝日が、その髪を更に幻想的に見せる。
リュシーの髪と、色は似ているにも関わらず嫉妬も覚えることが出来ないほどに別物だ。
閉じられた目は、距離があるにも関わらず長いまつげに彩られていることが見てとれる。そして優しそうに弓をひいた眉は惜しげもなくさらされており、その形のよさを物語っている。
着ているものは寝間着だろうか。薄手の白のワンピースに、肌寒いためか羽織られた厚手の深紅の布。髪と服の色が華美でない分、その落ち着いた深紅の布がはっきりとした目鼻立ちを引き立たせていた。
息が止まるような美人。そんな女性を見てリュシーは動揺する。リュシーの表情筋は動かなかったが、醸し出す空気は張りつめていて警戒しているのが伝わっているだろう。
侍女や従者では、ない。リュシーはそう断定する。
薄手のワンピースとはいえ刺繍の施され方や布の質感、どこをとっても主人よりも目立つことが許されていない人間が身に付けられるものではない。
――そして何より。
煌びやかな姿にばかり目を取られていたが、後から気づいた彼女の鎖骨から首にかけて、大きくその存在を魅せる、朱の印の存在。真紅の布と布の境目からその顔を見せる印はこの国の人間ならば知らぬものはいない、国の刻印。いや、正しくは国の刻印とは差異がある。
印の中心に描かれた現国王独自の紋。それだけで解ること。それは、
彼女が現国王の側妃であるという事実。
リュシーは崩れ落ちるような勢いで膝間付いた。それはもう、彼女の渾身の素早さで。
「妃様とは露知らず、ご挨拶もなく無礼な振る舞いを失礼いたしました!」
棒を構えなかったことだけが不幸中の幸いである。
それでも不敬というか不作法で無礼な反応をしてしまったことは変わりない。本来ならば直ぐに礼をとり、挨拶をせねばならない相手だ。
たとえそれがこのような場にいるはずのない人であっても。
頭をあげることは出来なかったが、上から控え目な笑い声が落ちてくる。何を言われるか。指の先が冷たくなるような緊張を感じた。
「まあ。そんなに謝らないでお立ちになって。怒ってなんていないのよ。わたくし、ただ貴女とお話ししたかっただけよ」
怒っていらっしゃらない。それが解りリュシーはひどく安心する。……目下一番鍛えておくべきなのは気配を読むことかもしれない。
「ありがとうございます。その寛大なご処置とお考え、大変痛み入ります」
ゆっくりと立ち上がる時に、リュシーはあることに気がついた。服や体の印、壮麗な美貌にばかり目がいったが、彼女の手に握られている杖の存在に。
彼女は目を閉じたまま眉を上げ、口に手を当てる。
「貴女ってもしかして侍女さんかしら。こんなところでいらっしゃるし、動きからしててっきり兵士さんかと」
彼女の言葉は断定だった。今のリュシーの格好では、侍女には見えないのにも関わらず。
リュシーは最初、彼女が杖を持っているのを見て脚が悪いのかと考えた。だが、彼女はその割に姿勢が良すぎる。杖に体重をかけているようには到底思えない。
「……何故、侍女とお分かりに?」
不躾な質問であったかもしれない。だがそう思った時にはもう口は動いていた。
口から出たものは当然だが取り消せず……それに彼女があまりに綺麗に笑うから、リュシーは取り消したい気持ちにもならなかった。
彼女はまるで空気の揺れと調和しているかのような、柔らかい笑い声を上げる。その声と顔には得意気な色も映っているのを感じた。
「わたくし、目が不自由なのよ。だから、話し方や動く音でたくさんのことがわかるのよ。とても耳が良いのよ」
自慢げだった。引け目もなく、悲しげでもなく、彼女はただ誇る。
リュシーはそんな方に出会うのは初めてで理解が追いつかない。動かないリュシーに彼女はまた優しく笑う。
「そんなに緊張しなくて良いのよ。わたくし、最近怪我をしてしまったということで、あまり外に出してもらえないのよ。だから、息抜きに抜け出してきてしまったから、とても暇なのよ」
優雅な話し方や身のふり。けれどそこに作られた色を感じる。そこまで無礼な質問はいくらなんでも、できなかったが。
「……抜け出してしまって、お加減やお付きの方は大丈夫なのですか?」
「ふふ。怪我なんて本当に大したことないのよ。皆がとても心配してくれるから。でも大丈夫よ、皆優秀だもの」
それが答えになっているのかいないのか、リュシーには解らない。
ただ優しい声、優しい笑顔、優しい雰囲気。心地が良すぎていろんな疑問なんてどうでもよくなりそうだ。リュシーは目の前の彼女に警戒心がどんどん薄くなるのを感じていた。
「失礼ながら、妃様がこのような場所でお付きの方もつけずにいるのは危険でいらっしゃいます。散策なさるにしてももっと後宮の近くで……」
リュシーのそんな言葉にも彼女は不快そうな色は一瞬も見せず、形の良い唇は楽しげな笑い声をもらす。
「全く同じことを大切なお友だちにも言われたのよ。貴女も彼女に似て、優しくて素晴らしい子なのかしら。少しだけでいいのよ。お喋りしてくださらない?」
彼女の言葉が甘く甘く、砂糖菓子のような甘さでリュシーの思考まで溶かされたような気になる。
普段のリュシーなら有り得ない行動であっただろうが、目の前にいる彼女が美しすぎて、また、最近の寝不足もあり、まるで夢の中にいるような心地になった。
浅く頷くリュシーの濡れた髪から、滴が落ちた。
美しさに目が眩む、という言葉があるのは知っていたがまさにその通りだ。そう考えるリュシーは現実を受け止めきれない。
先ほどの控えめに笑う美女はどこへ行ってしまったのだろうか。
「あ、貴女って、ほ、ほんとにここでお友達が一人しかいないの?」
息も絶え絶え。そんな言葉に相応しいように笑う彼女はそれでも憎らしいほど美しい。話す度言葉が砕けてくる目の前の彼女はその美貌を投げ出しそうな勢いで笑っている。
リュシーは恨みのこもった目を彼女に向ける。
「いいじゃないですか別に! しかもその子も、後輩なんだか友達なんだか、微妙な関係ですけど悲しくなんてないです!」
言ってて悲しくなってきた。
友達とか、いなくても生きていけるし……とリュシーの思考はどこまでも自分を必死に肯定している。でないとどこまでも落ち込みそうだった。
「あ、ご、ごめんね? ちがうのよ、笑ったのは馬鹿にしてるとかそういう訳じゃなくて……」
そんなリュシーに気がついた彼女は慌ててフォローする。その気遣いが逆に痛くていっそ笑ってくれ! と言いたくなる気分だった。
「いいんですよ、どうせ。侍女仲間の皆さんとは時折話しますけど、結局誰も私の顔とか名前なんて覚えてませんし。新入りさん? と言われる度にどれだけ切なくなるか。それも、こっちが知り合いだと思ってた人に! 侍女長だって覚えてくれてますけど上司ですし。女護さんも結局は仕事の話しかしませんし、名前も顔も知りませんし」
鬱々と話すリュシーに、美しい彼女は顔をひきつらせた。どこまでも無表情なリュシーの顔が、どこか哀愁のようなものを漂わせる。
止めとばかりに、リュシーは思い出したように付け加える。
「そう考えると名前を知って知られて、なんていう知り合いもほとんどいませんね、私。ああそういえば、なんだかよくわからない怪しい人は私の事知ってて、自己紹介までしてくださったんですけど、恐らく本名はないですね。身元不明の名前も知らない怪しい方は知り合いに入りますか、なんて」
「ごめんなさい! もういい、もういいから!」
みなまで言わせまいと美しい彼女はリュシーの言葉を遮った。
悪気がなかったのにこんなことになってしまって彼女も驚いたことだろう。リュシーも驚いた。自分がこれほど寂しい人間とは思っていなかった。
「あの……ほら! 貴女って、ここに来てどれくらい? 今からきっとたくさん友達なんてできるわ!」
さっきまで笑っていた人に真剣に慰められている。
リュシーはもう、遠くを眺めながらの覇気の感じられない声しか出せない。
「ふふ、そうですよねー。10年いて一人友達みたいな子が出来たんですから、あと30年もすればきっともう一人か二人くらい……」
なんと切ない計画だろうか。ここに積極性が感じられないのがきっと原因であるということに、リュシーは気がつけない。
視線が定まらないような遠くをみるリュシーに美しい彼女は優雅さを投げ捨てた。
「もういいの! 謝る、謝るからあ! ほら、私だって本当は友達なんて少ないのよ!」
あまりのリュシーの悲惨な状況に一人称まで素が出た美しい彼女は、自分の言葉に自分で傷付き、誰も得をしない不毛な会話に終止符を打った。
不毛なお喋りを含め、色々と話しをした結果、最初の固さはどこへやらといった風に話すリュシーと美しい彼女。
……主に彼女らを繋ぐ主なものは(人間関係が寂しいという)同族意識かもしれない。
今は二人して座り込み、緩やかな風を受けていた。
もちろん、外で草の上にに座らせるなんてとんでもない! 隣に座るだなんてとんでもない! とリュシーは何度も言ったが、リュシーは押しに負けた。
美しい彼女の下に布を引くことしかリュシーの言葉は受け入れられず、疲れたリュシーはなるようになれ、と力尽きた。
「ふふ、それでね。頭にきたコーリア様ったら、ぬるいお茶をわざわざ用意させて、メル様の頭の上から流したのよ。ティーポットから直接。並々注がれた中身が全部なくなるまで。周りの皆もメル様も流し終えるまで固まっちゃったわー」
「そ、それはなんとも……コーリア妃様は落ち着いてらっしゃったんです、ね?」
話題提供は下手なリュシーだが、話しを聞く事には非常に長けている。ただし、あまり口は挟まないで相づちをするだけに限る。
美しい彼女は彼女で、最初からは考えられないほど砕けた口調や素振りでリュシーに色々な話題を出してくれるので、初対面とは考えられないほど今は和やかな空気が流れている。
後宮内での面白話、最近あったたわいもないことから天気に至るまで。どんなことでも細かく相づちをくれて会話をしてくれるリュシーに、彼女はとても嬉しそうに笑った。
「ふふ、貴女ってとても聞き上手。聞いてもらうのって楽しいわ。でも貴女のお話ももっと聞きたい」
そう誉められて悪い気はしないがこちとら先程大笑いされたばかりだ。それに話すといってもいざ話題の提供となるとなんの話も浮かばない。
「光栄なことではありますが、妃様が喜ばれるような話など……」
言葉を濁すリュシーに、彼女はその言葉の内容よりも違うところが気になったようだ。手を口にあて首をかしげる、という淑女の模範的な動作をして彼女は口を開いた。
「……あら? そういえば名前を言ってなかったわね。私はマリシア。家名はあまり好きではないからマリーって呼んで。貴女の名前を聞いてもいい?」
そう言われて名前を名乗っていなかったことに気が付かなかったリュシーは慌てて自分の名前を言おうとする。
「す、すいません! 妃様からお名前を先に頂くなんて! 私はリュシー、……」
言い募ろうとしたがマリシアという名前への聞き覚えがあり、リュシーは固まる。
聞いた言葉が一瞬遅れてリュシーの頭に入った。浅く息を飲み込み、思考が駆け巡る。
マリシア妃。噂の渦中の人。現国王の寵妃様。
何者かに害され怪我をなさった、側妃様。
「あなたが、マリシア様」
予想外の遭遇にリュシーは声をなくす。その反応にマリシアは些か不満そうな顔をした。
「ひどい驚きようね……私がマリシアで問題でもあるの?」
できるだけ平静を装っていた。けれど、そんなものは無意味だというようにマリシアはリュシーの驚きを読み取る。
問題なんて気持ち的には大有りです。などと口に出せるはずもないリュシーは懸命にもその言葉を飲み込み、
「いえ、お噂でかねがねお聞きしていたので……吹けば飛んでいきそうなたおやかな方を想像していました」
「まるで私がたおやかな女性ではないようにいうのね?」
やはり失言を口にした。
ああ、一番縫わなくてはいけないのは私の口か。
ひどく迫力のあるマリシアの笑顔に、リュシーは乾いたはずの汗が新たに背中を伝っていくのを感じた。