12.殿下の敵と侍女の心の話。
相手の動揺に満足感を得たのも数秒の事で、リュシーはこの質問が失敗だったということに気が付いた。男は目を彷徨わせて、数度遠慮がちにこちらを見る。微妙に挙動不審なのは何故だろうか。
「エ、と……」
男が呟くように声を出すが、それに言葉が繋がらない。
「ええっと……」
リュシーも言葉を探すが、このまま声を出すと恐らく「お好きな食べ物は?」の二の舞だ。たぶんサカナの塩焼き以上にどうでも良い情報を集める事になる。……嫌いな食べ物とかあるんだろうか。ありそうだ。偏食してそう。
かなり偏見混じりのイメージでリュシーは相手を決め付けた。
男は意を決したようにリュシーを見る。先ほどまでの愉快そうな笑顔でも、軽蔑の混じった無表情でもない。だが、笑顔を保とうと考えたのか、引きつった笑顔で話しかけてくる。
「聞きたいコト、他にないの? あるデショ」
「き、嫌いな食べ物はなんですか!」
話を変えたくないらしい男と、話を変えたい(早く帰りたい)リュシー。会話は成り立っているが、確実に噛み合わさっていない。
引きつった笑顔だった男の顔の、眉が下がった。弧を描いていた口は歪んでいる。
「違うでショ! おかしいよ! モットこう、さあ! ヤサイ全般がキライ!」
怒られたが、律儀に質問には答えてくれた。偏食は間違っていなかったらしい。リュシーは心の底でガッツポーズをする。
「野菜は食べないと体に悪いですよ」
「……ウン」
肩を落とした男に、リュシーは違和感を感じ始める。
……おかしい。確かに先ほどまでの雰囲気であれば、この人が殿下に罪を被せた犯人となるのだろう。だが、この男が暗殺者やジョーカーであるような気がしない。もっとこう、
「あなた――本当に、側妃様を害した方ですか?」
表に生きる人間という風にしか感じ取れない。
ただの質問ではなく、確信を持っての質問。男もそれを感じ取った。
リュシーの言葉に、男は戸惑った顔も、引きつった笑みも、全てをやめた。不用意な発言をしてしまったと後悔し、リュシーは男から数歩距離を置く。
男に、表情が無い。無表情、と簡単に言うには、表情が無さ過ぎる。もともとの美しさをあわせ見ると、まるで絵に描かれた芸術品のように生きた人間のようではない。その目に光は無く、それは闇に生きる人間の目だった。
「キミは――思った以上に侮れない。殺したいナア。コロシタイ。でも、それはダメだ」
静かに牙を剥かれるような感覚。リュシーは身構えた。殺気に当てられて、膝が震える。小刀をいつでも取り出せるように頭の中で何度も練習する。
「約束は違えないヨ。……キミがもっと不細工だったらヨカッタのに」
そうしたら――遠慮なく、コロせたのに。静かに言われた言葉に、リュシーは息も出来ないほどの圧迫感を感じた。男の言動を聞くに、殺す気はないのだろう。それも、男の気分の匙加減一つで変えられてしまいそうなものだが。息が浅くなる。駄目だ。動揺を見せるな。
「サッキの質問は内緒だけど、これだけ教えてアゲル。ボクは美しい女性の味方。そして……殿下の敵、ダヨ。」
リュシーの動揺を感じて満足したのか、そこで男は笑顔になった。初めに見たときのように、愉快そうに笑う。
「ボクの名前はラウ。覚えておいてネ」
ラウ、聞いた事も無い名前だ。リュシーは改めて目の前の男についての情報が無いことを知る。
「害さないってヤクソクは守るヨ」
何の信用も出来ないほどコロコロと態度を変えるラウに、動揺しすぎたリュシーは何も言葉が出せず俯く。
「アレ、ちょっとイジメすぎたかな? ゴメンね。じゃあ今日のトコロは退散するよ」
ラウは俯いたリュシーに顔を近づけて、「またネ、リュシーちゃん」と、耳元で囁いた。
何故名前を! と、リュシーが勢い良く顔を上げると、先ほどまでリュシーが掃除していた窓枠に足をかけて飛び降りようとしているのが目に入る。
顔を上げたリュシーと目が合ったところでラウは、リュシーに手を振る。だが、リュシーの関心はそんな所には無かった。
「あんなに掃除したのに、土足で汚すなんて何するんですか!」
思わず叫んだリュシーに、ラウは驚いてバランスを崩した。
「うわっ、わ!」
そう言ってバランスを崩したラウは、室内の方へ倒れ背中から落ちる。リュシーもそうなる事は予想外で、いい逃げになる予定だったため、心の中でまたやらかしてしまったと頭を抱える。
リュシーの再度訪れた恐怖を余所に、ラウは恐る恐るといった感じにリュシーを見上げる。
「ご、ごめんネ?」
そう言い残し、ラウは窓枠に手を掛けて一飛びでリュシーの前から姿を消した。
取り残されたリュシーは最後の最後まで頭が付いていかず、もう一度窓枠を掃除する作業に没頭した。
終わったころには、見事に眠気は飛んでいっていた。最近本当に身の回りがよくわからない。
とりあえず、側妃様を害したのは一体誰だったのだろう。ラウがまるで自分のように言っていたが、リュシーは勘でそれを否定する。だが、ラウは殿下の敵だと言う。
『今、あなたが不用意に動けば、王宮はおそらく血を流す事になることをお忘れなきよう』
今朝の侍女長の言葉を思い出す。殿下に対し言われていたことだが、まさかその日のうちにこれほどいろいろなことが起こることは殿下も侍女長も予想していなかったのではないだろうか。
侍女長は恐らく多くのことを知っているだろう。でも、聞く事は出来ない。
『軽率な、発言は、君を滅ぼす』
『失望させるようなことは、しないと、信頼しているよ』
釘もさされてしまった。もし関わろうと思っても、出来る事なんて無い。
自分の保身の強さも、自分の身勝手さも、リュシーは知っていた。
だから、気にしなければいいのに。
関わる気なんか無いと閉じこもってしまえばいいのに。
なぜかそれが出来ない。周りを切り捨てられないし、見ない振りが出来ない。
昨日から口が軽すぎて嫌になる。
それに、起こっていることに頭が付いていかないのに周りが待ってもくれない。それが段々と怒りの気持ちになる。
全て身勝手すぎるのだ! 全部教えてくれるのではなく、小出し、小出しでこっちが気になるように仕向けているようにしか思えない!
黙々とベッドメイキングを行っていたが、思わずリュシーはベッドを力強く叩く。ベッドから埃が飛ぶのをみて、慌てて自分を抑える。窓を開けて外の空気を吸った。
リュシーに出来る事は無い。それは確定的に明らかだ。親しくも無いような殿下たちに何が出来る。
いや、そもそも関わる気が無いんだから。
まるで堂々巡りのようにリュシーの思考は同じ所を回る。
答えなんて本当は一つのはずだ。保身が強いリュシーとしては、昨日の夜からおかしかったのだ。本来なら、殿下を匿うなんてことするはずが無かった。
何故匿ってしまったのか?
話したことも昨日まで無く、(気づかれていないため)一方的に見ていただけの間柄。
だが。
「一方的になら、もう十年見てますからね……」
リュシーは静かに呟いた。
特技といえる特技はお茶淹れしかないような、凡庸な子ども。
七歳で王宮の侍女となり、八歳で侍女長にお茶淹れを頼まれた。あれから十年。
殿下方の成長も、喧嘩も絆も、努力も、苦労も、一方的ではあるが多くを見てきた。
そりゃあ情もわくだろう。リュシーは自分にそう言う。
殿下たちへの贔屓の理由を改めて考えて、少し心が楽になった。
そして、殿下たちの優秀さも、思い出す事ができ、リュシーは悩んでいた事が無駄に感じる。
心配なんてする必要は無いのだ。きっと、すぐにこれだけ考えていた事も馬鹿らしくなるほど殿下たちは普通に、ただの小さな障害であったとこの事件を払いのけるだろう。
それがいままで殿下たちを見ていたリュシーの信頼であり、安心であった。
きっと、明日になれば何でもなかったかのように生活できるだろう。
そして、私もまた勘付かれずにお茶淹れに戻る事が出来る。平凡な日常って、大切なんだな、とリュシーは改めて納得する。
もう振り回されるのは今日で最後だと、シーツを伸ばしていい音が聞こえた。
仕事も終わり、ぐちゃぐちゃだった気持ちが整理でき、改めてこの仕事が好きだと思う事ができた。
「リュシーさん! 仕事終わりましたっスか?」
「はい。終わりましたよ」
クレアは突進をやめてくれたようだ。笑顔で走り寄ってきてくれる。
「なんだかいい笑顔っスね! 良いことでもあったっスか?」
「良いこと、は無かったんですが、悩みがとれたというか、久しぶりにゆっくり眠れそうです」
珍しく上機嫌なリュシーに、クレアは首を傾げたがすぐにまた笑顔に戻った。
「そうっスか! じゃあご飯、一緒に食べましょうっス!」
クレアが手を出してリュシーの手をとる。手を繋ぐ事は侍女としてあまりよい事では無いと思うが、クレアの手は暖かくてひどく安心する。
「クレア。手、凄くあったかいですね」
「よく言われるっス! でもみんなひどいんスよ! 子ども体温っていうんっス!」
「え、そのとおりじゃ……」
「……リュシーさんのバカー!!」
クレアと手を繋ぎ歩いて、気の抜けるような話をして。これが自分の日常だと心になにかが落ちた。
「リュシーさん、手、冷たいっスね」
「そうですか? この前は――」
ふと、思い出す。
『お前の手は熱いぐらいだな』
日常の外側。もうかけられる事は無いのだと分かっているはずの、声を思い出す。リュシーよりももっと冷たい手を思い出す。心が、ざわりと予感を与えてくる。
「リュシーさん?」
クレアにそう言われて現実に戻る。銀であるはずが無い、橙の元気なクレアの色が見えた。
「え、あ、すいません」
「この前ってことは、私以外の誰かと手を繋いだってことっスか! ひどいっス! 私というものがありながら!」
わざとらしくクレアが顔を手で覆う。その間もリュシーの手を外さない。
「そんなよくわからないこと言わなくていいんですよ! まったく、そんな言葉どこで覚えてくるんですか!」
クレアと目を合わせて笑う。先ほどの、ざわりとした予感を忘れて。
リュシーの予感を余所に、二日が経った。あれから、変な噂も出ないし、表面上は非常に平和だ。
お茶淹れだけはいまだに行っていないが、それは考えないようにしていた。時間が経てば、また行く事になるだろうと。
そして三日後――
「リュシーさん!」
「いたあ!!」
クレアが突進してくる。またか! と思いながら怒った顔をクレアに向けると、クレアは非常に動揺した顔をしている。リュシーを探して走ってくれたのか、息が荒い。その顔に、リュシーはクレアに耳を傾ける。
「セルヴァーグ殿下が、側妃様を傷つけた事を後悔して、自害された、って、噂、が!」
思考が、止まる。じ、がい? リュシーが思考を動かす前に、クレアは先を続けてくれる。
「側付き様に、とめられて、未遂とは、なってるらしいっスけど、」
生きている、という情報だけで腰が抜けそうになる。
「もしかしたら、継承権剥奪!? という話まで出てきてるらしいっス!」
リュシーの想像をはるかに超える、国を動かすような策略。
「継承権争いまで、起こるかもしれないって、みなさん噂されてた、っス。どこまで、本当かわからないっスけど」
出来る事はなかったと決着をつけているのに、自分の安全を一番にしたのに、何故自分は後悔しているのだろうか。頭に鈍器でもぶつけられてしまったようだ。
クレアが戸惑ったように話す言葉を聞きながら、リュシーは潰されるような後悔に身を打たれていた。