《失墜》
ヴェリエール男爵は、あの夜の出来事を、行く先々で言いふらした。
「サン・デュボア病院の医者は碌でもないやつだ。私の息子が死にかけていたのに、朝ごはんは生野菜以外にしろなどと抜かしたんですよ!」
ヴェリエール男爵は外面だけは良かったため、彼の言葉は、まるで真実のように出回った。
「ねえ、聞いた?ルネ先生があんな事を言うなんて!」
「そんな先生には見えませんでしたのに。」
しかし、ひっそりとではあったが、擁護する声もあった。
「聞いたかぇ?あの豚男爵、息子が死んだ夜だって、マリーのとこで飲んでたって言うじゃないか。そのくせ、ルネ先生を悪く言うなんて、地獄にでも落ちちまえば良い。」
ルネを追いかけ回す輩も出てきた。
腐った卵を投げつけたり、病院の窓を割ったりした。
ひどい時は、火のついた松明を投げ入れられた。
もはや、病院は安全な場所では無くなった。
「ごめん、ルネ。君の名誉を汚してしまった。」
「いいえ、先生。あの時は、僕も同じ気持ちでしたから。」
…あの場でいた者は、エミールが朝食を食べたいからあんな事を言ったわけじゃない事ぐらい、十分わかっている。
ただ、無責任なあの男に、一言嫌味を言ってやりたかっただけなのだと。
しかし、噂は大きくなり、実害も出てきてしまった。
「しばらくは、サントルヴィルへ帰ると良い。」
そう言うと、エミールは、彼が書いた1冊の医学書を手渡す。
「住む場所が決まったら教えて。人体のスケッチも後で送るから。」
ルネは、スケッチの出どころを知らない。
きっとどこかの大学か何かから譲り受けたものだろうと、純真に思っている。
「君はさ、見た目が僕と似ているから、損をするだろうね。」
ルネは、一瞬、何のことか分からずにきょとんとする。
美人に似て損をすることなど、あるのだろうか。
「君は、僕みたいにならないでよ。人に寄り添う医者におなりよ。」
「先生だって、寄り添ってこられたではないですか。」
ルネの疑いのない視線がエミールに刺さる。
エミールは己の罪悪感をそれ以上は出さなかった。
「そろそろ行くと良い。ちゃんと着いたら連絡をしてくれよ。」
「もちろんです、先生。」
ルネが去って数日して、また新たな噂が流れた。
ルネはエミールと容姿が似ているが、全く同じと言うわけでは当然ない。
2人とも、赤の他人なのだ。
横に並べば、間違える者はいない。
ただ、言葉で説明しようとすると、混同しかねない、というだけだ。
人々のルネへの関心が高まるにつれ、彼の容姿も頻繁に話題に上がるようになった。
「ルネ先生?知ってるわ。少し童顔で垂れ目で、優しげな雰囲気の方でしょう?」
「優しげかい?あの先生は、確かに童顔だけど、キツい目をして気が強い感じがしたけどな。」
「そうそう、私も見てもらった事があるけどね、あの人の左の首筋に小さな黒子があるんだよ。男だけど、随分と美人だったわ。」
エミールの容姿を知っている者たちは驚き、その噂の広がるスピードは加速度はさらに上がって行く。
少し前に流れた、デュボア子爵の焼却炉の噂、切り裂き魔の噂…。
不気味な噂の数々は、埋葬されていたはずのジャン・シャルボンが葬儀屋で話し込んでいた噂…。
エミールの一挙一動を、皆が好奇の目で見つめている。
皆、パンドラの箱の在処は知っているのに、それを開こうとはしない。
触らぬ神に祟りなし、というのは、どの世界でも同じだ。




