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《遠い記憶》

エミールは、この世界で、アルヴァニエ以外をあまり知らない。


それは、小さい頃に領主を継いだからという事もあるが、アルヴァニエでやらねばならぬことが多すぎたからだ。


彼は、小さい頃、乳母に抱かれていた事を覚えている。

彼女の幼い子どもが亡くなり、その子の分の乳を3歳までわけてもらえた。


誰かの不幸が、自分を豊かにした。


もう少し大きくなってからも、その思いは変わらなかった。


屋根に登れば、遠くに貧民街が見える。

彼らに渡るべき富を、市民が奪っている。


貴族が宝石を一つ売れば、市民が貧民を安い値段でゴミの処理に使わなければ。


彼らは、人間らしい生活を享受出来たはずなのだ。


父が健在の間は、いろんな人が父に謁見を求めた。


愚かなものや賢いものがいた。


皆、口先だけの綺麗事を並べ、自分の有利になるような政策をするよう持ちかける。


「領主様の偉大なるお知恵を借りにきました。」


そう言いつつ、裏では領主をコケにする。

そして、領主が、いつバカな事をするか、今か今かと待ち侘びているのだ。


まるで、弱った獲物を狙うピラニアが集う川のようだ。


そんな中、アルマンだけは父に尽くしてくれた。


政治的手腕がからっきしで、よく騙された父を。


母のことも良くしてくれた。

好きで嫁いだわけでもないのに浮気され、あまつさえ先に男子を産まれてしまった母にも。


あの人にも良くしてくれた。

好きで妾になったわけでもないのに、母から目の敵にされ、男子を産んだせいで、立場が危うくなったあの人にも。


エミール自身にも。


貧しさが簡単に理不尽に結びつく世界で、エミールは幼少期を過ごして。

エミールは豊かになりたいと思った。


富は自由を保障するものではないが、自由を得るためにはなくてはならない。


母は愛する人と結ばれる事が出来なかった。

彼女が自分の財布を持っていなかったから。


妾もそうだ。

身売りのような結婚しか、生きる術がなかった。


優秀な兄は、非嫡出子として差別され、代わりにエミールに金が回ってきた。


弟達も、エミールや兄ほど、金を使ってもらえなかった。


可哀想なのは、姉妹達だ。

存在するのに、政略結婚くらいにしか役に立たない道具にされる。


母や妾と同じように。


「兄さんはいいな。」


諦めのような妹のぼやきが、エミールを追い立てる。

皆が、己の思うままに生きれたらいい。


早く、この土地、この民を、豊かにしなくては。


これ以上、誰かから奪った幸せを享受しなくてもいいように。


エミールは、理想主義者ではない。

刹那主義者だ。


遠い未来に縋ってでしか、今を生きられない。

エミールだけが知っている、懐かしく、もう2度と味わう事がない未来。


未来にも理不尽はあるだろう。


それでも、今よりはずっとマシなはずだ。

エミールを培ってきた、エミールが嫌ってやまないこの世界。


死にたいとは思わないが、生きたいとも思わない。


しかし、やらねばならぬ事は待ってくれない。


瀉血がこのアルヴァニエの治療の一環として定着してることを知った時。


エミールは医学の進歩を願った。

瀉血で失われる命を見たくはなかった。


だが、瀉血だけ止めても意味がないのだ。


瀉血は“治療”として行われるのだから。


初めて、墓を荒らした時。


エミールは、最初の一線を踏み越えた。


見たくないものを、見ずに済むため。


医学の時計を1秒でも早く回す。


その為なら、目をつぶれる事が、彼にはある。

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