《悪魔の取引》
「ああ、どうすればいいの?」
ある修道女が、お腹を抱えてうめく。
血が、彼女の下着を汚している。
彼女は、マリー・モロー。
元は末席とはいえ貴族の令嬢だったが、愛する恋人との未来を捨てられず、既成事実を作ることで彼との関係を親に認めさせようとしたのだ。
しかし、彼女の両親は、彼女の予想以上に怒り、彼女を家から追い出してしまった。
彼の方も、酷く家族から責められ、若い2人は生きていく道を簡単に見失なった。
彼らの家族にしてみれば、頭を冷やして出直せということだったのだろうが。
そこで、彼らはひとまず食いつなぐために、彼は大工に、彼女は修道女になったのだ。
しかし、よりにもよって、彼女は唯一の関係で、子供を身籠もってしまった。
もし、妊娠がバレて教会にすら居場所がなくなってしまったらどうしよう?
彼女は恐怖に震えた。
いつのまにかお腹は大きくなり、ゆったりした修道服でも隠すのも難しくなってきた。
おまけに、時折、血が出るようになった。
痛くないとはいえ、不安は彼女の胸を苛む。
お腹の赤ちゃんに何かあったのかもしれない。
産むべきかどうかもわからない。
でも、そのままには出来ない。
何度目かわからない逡巡の果て。
彼女は、夜中にこっそりと抜け出すと、サン・デュボア病院へ向かった。
春とはいえ、身重の彼女に夜の空気は冷たすぎる
「ごめんください。」
彼女は、控えめに病院のドアを叩いた。
中から、眠りまなこのルネが出迎える。
「一体どうしたんです?」
マリーは目を伏せる。
「ご相談したい事があるのです。」
ルネは彼女が身重なのを一目で察すると、診察室へ通し、暖かいスープを飲ませる。
「寒くはないですか?」
ルネの目が心配そうに揺れる。
「ええ…。」
「一体、どうしたのです?」
彼女は、何度も口に出そうとしては言葉を飲み込む。
夜が深まり、風音くらいしか音がしなくなる。
彼女は、とうとう、涙と一緒に、これまでの経緯を口にした。
「それは大変でしたね。」
彼女は、小さく頷く。
「よく、相談してくれました。これから、一緒に赤ちゃんをどうするか考えましょう。」
考えると言っても、もう予定日に近くなっており、今更堕胎は出来ないのだが。
ルネは、出来るだけ暖かい声をかけようとする。
「今日はもう遅いですから、診察は明日にしませんか?今日は泊まって行ったらどうですか?ルカ神父には伝がありますから、口裏を合わせてくれるでしょう。」
「ありがとうございます。」
そういうと、彼女は気が緩んだように、声を上げずに泣き続けた。
翌日、ルネはエミールを呼んだ。
ルネはまだ、妊産婦の扱いが得意ではなかったからだ。
エミールは淡々と彼女の体を見ていった。
しかし、途中から表情が曇りだす。
そして、重い口を開いた。
「残念だが、貴方は助からない。」
マリーは言葉を失った。
ルネも、同様だった。
「…何故です?」
ルネが震える声で訪ねる。
「前置胎盤と言います。胎盤とは、母親と子供を繋ぐ絆です。それが、産道に近すぎるのです。」
「その何がいけないのですか?」
「赤ん坊が生まれるとき、産道が開きます。胎盤が近いと、産道が開いた拍子に胎盤が裂けてしまうのです。こうなれば、出血は止まらず、母子とも助かりません。」
マリーの指が震えている。
「それで、助かる道はないのですか?」
「…ありません。ただし、母親が生きているうちに腹を割いて赤子を取り出せば、赤子だけは助かるでしょう。」
まるで悪魔の取引のようだった。
マリーは何も言えなくなった。
「ルカには話をつけておきます。泊まっても良いですし、教会に戻られても構いません。今後の事は、また話しましょう。」
「…ああ、神様。」
マリーの嘆きはもっともだ。
彼女にとって、愛する人との子どもは、何よりも喜ばしいはずのものだった。
このタイミングでなければ。
こんな形の妊娠でなければ。
「この子を下ろそうとした罰が当たったのね。」
「違います。」
エミールは断言した。
「人はいずれ死にます。どんな病気で死ぬのか、怪我なのか、老衰なのか。それは運です。良いも悪いもない。」
マリーはまだ若い医者を見る。
「貴方は悪くない。絶対に。」
マリーは、また何度か頷いた。
しばらくは、体調の急変に備え、ルネが常に寄り添うことになった。
マリーの頭は混乱していた。
当たり前だ。
まだ19の彼女は、自身の死をもっと先の事だと思っていたのだから。
「神様、神様。」
夜の闇に、彼女の祈りだけが響いた。
時間はあまりなかった。
彼女が破水すれば、その時が、彼女と彼女の子の命日になってしまう。
「フォルティエ先生、私、子どもだけは助けて欲しいのです。」
「麻酔で意識をなくせば、たとえ助からずとも安らかにいけます。でも、子どもを取り出すなら、麻酔は使えません。強烈な痛みです。」
「我が子のためですもの。覚悟しますわ。」
彼女の目は強い光を湛える。
「お産が命懸けのことくらい、私も知っています。母も祖母も、そうしてくれたのです。自分が助からずとも、我が子が助かるのであれば、命をかけるくらい訳もありません。」
これには、ルネやエミールでさえ、彼女の決意に気押されてしまった。
徐々に日が経ち、彼女は、この世をさる準備を始めた。
我が子に名前をつけ、生涯唯一の夫への手紙をしたためた。
自らの父母にも手紙を書いたが、結局は渡す事をやめてしまった。
今更、何を言っても遅いと感じたのだろう。
彼女は、最後に一度、彼に会いたいと言った。
彼は新市街でも端の方で仕事をしていた。
ルネやエミールは、彼を呼んだ方が良いと言ったが、彼女は自分から行くことにこだわった。
それは、これが彼女にとって、最後の外出になるであろうという予感があっての事だった。
それが、全てを変えてしまった。
「ううぅ…。」
彼にあと少しで会える、というタイミングで、彼女は大出血を起こしたのだ。
こうなってしまったら、一刻も早く赤子を取り出すしかない。
路上で、血まみれになりながら、ルネとエミールはマリーの腹を割いて赤子を取り出した。
マリーは自らの手を噛んで痛みに耐えた。
自分は助からない、
だから、せめてこの子だけは。
彼女の涙を流し、荒い息をしながら、身震いを止めようとした。我が身を裂くおぞましい刃が、我が子にとっては唯一希望の光だから。
「おぎゃあああ!」
母親の血溜まりの中で、彼女の息子は産声をあげた。
エミールは、無意味と知りつつ、出血を減らそうと傷口を押さえながら、マリーの腕に赤ん坊を抱かせた。
「ああ、私の可愛い子…、私のニコラ…。」
彼女を支えるエミールの手が、夫の手を思い出させる。
彼の手は、大きかった。
暖かくて、いつも彼女を労ってくれた。
その手を感じることは、もう2度とない。
彼女は、彼が居るであろう方向に目を向けた。
痛みにうめき、顔を顰める。
それが、彼女の最後だった。
彼女を看取った後、ルカとエミールは、苦渋の決断を迫られた。
血まみれの彼らは、そのままではどう見ても猟奇殺人犯だ。
帝王切開は、エミールでも、手が震えそうになるほど、難しい手術だったのだ。
ルネにはまだ出来ない。
ただでさえ、黒死病の件で人々から恨みを買っているエミールが、妊婦の腹を割いたと知られたらどうなるか。
彼らは、やむを得ず、他の人間が寄り付く前に、その場を離れた。
世間は大騒ぎになった。
彼女と仲に良かった修道女が、彼女が妊娠していたかもしれないと言ったことで、余計に騒ぎは大きくなった。
父親の怒りと嘆きも、尋常ではなかった。
聖職者達は、血眼で彼女の奪われた赤子を探し回ったが、見つける事はついに出来なかった。




