《神の姿》※追加分
12月のある日、早朝。
ルカは1人、穴を掘られただけの墓場を遠くから眺めていた。
昨日の夜、壁越しに魂の救済を祈った相手がそこにいる。
「はぁ…。」
小さなため息が出た。
白い息が空へ昇っていく。
冷たい手を擦り合わせ、ルカは仮眠の為に一時詰所に戻った。
難民キャンプの一画にある一時詰所はしっかりした作りとは言えないが、雨風を防ぐには十分な強度の小屋だ。
ノミを殺すために入り口付近に作られた簡易的な暖炉の前に外套を掛ける。
窓から入る朝の白い光が目に染みる。
爽やかな風や鳥の囀りを締め出すように、ルカは窓を半分だけ閉めた。
…エミールのやる事リストに換気が入っていなかったら、全部閉めていたのに。
桶の水で顔を洗い、寝台に潜り込む。
「はぁ。」
ルカはもう一度、小さなため息をついた。
体は疲れているものに、頭はまるで起きたばかりのように冴えている。
目を閉じても、眠れなどしそうもない。
それでも…。
「よく寝ろ。眠れなければ目をつぶって横になれ。」がリストにある。
エミールが彼らに渡したリストは、事細かに書かれており、司祭服の長さやストッキングの履き方にまで注文をつけている。
守るには手間のかかるこれらのリストを、ルカは律儀に守っていた。
それだけではなく、ルカは周囲の人間にもこのリストを守らせようとしてきた。
ルカは近代的な統計の手法など知らないが、その場を生きている者として、このリストが自分たちを守ってくれているという体感があった。
リストを守っても、黒死病にならないとは限らないが、好むと好まざるとに関わらず、リストをより多く破ったものから短期間で病に冒されていくのだから。
外では、誰かが荷車を押す音が聞こえる。
先週は2台だったのに、今日は1台分しか聞こえない。
エミールはどうしているだろうか。
ソファーで踏ん反りながら、この苦境を打破しようと頭を悩ませているに違いない。
自然と笑みが浮かんだ。
貧民街は地獄だ。
ここに来てすぐの頃は、神の奇跡を願った。
しかし、ルカの祈りは通じなかった。
祈っても祈っても死んでいく。
もう何人看取った事か。
本来であれば、死に際に額にかけてやるべき聖油を、何度空中に撒いたことか。
まるでそこに人がいるように、何度芝居をしたことか。
魂の救済が神学を無視したこんな猿真似の芝居で出来るのだろうか?
瞼の裏に、これまで看取った患者や家族の姿が浮かび上がる。
「神父様。最後に最後の秘蹟を頂けただけで、私りゃ恵まれてるよ。」
家の中から、そう声をかけられた事もあった。
「神父様、まだ死にたくねぇ。助けてくれよ!」
そう泣かれた事もあった。
ルカの祈りも、エミールの医術も、死の淵にいる人間には役に立たなかった。
家の外で、そんな彼らの声が聞こえなくなるまでただ祈った。
10人に1人くらい、顔が爛れても助かる者もいた。
「こんなんじゃ、皆と一緒に死んだ方がマシだった!」
そう叫んだ若者もいた。
虚しさで、胸が張り裂けそうだ。
神も医術も人々を完璧には救わない。
なぜ、神は敬虔な信者にこのような苦しみを与えて給うのか。
疑ってはいけないと思いつつも疑ってしまう。
補給場から離れたゴミ捨て場。
深く掘られたソレが墓穴だと気づいた時、怒りよりも乾いた笑いが出た。
ゴミ捨て場の整備は、エミールが真っ先に手をつけた事の一つだったからだ。
…人を救うための手立てで、真っ先にやる事が墓穴を掘る事だとは。
今でも、あの無情な墓穴を見ると腹が立つと同時に、あの時、エミールが見ていた世界を思う。
一体、彼にはどこまで見えていたのだろう。
これから先、もっと酷い地獄が待ち構えているのだろうか。
「ルカ神父、昼飯はいつも通り置いとくよ!」
突然、大きな声がして、ルカは浅い眠りから引き戻された。
どうやら昼食の配給の時間らしい。
「はぁ。」
またもため息をついて、ドアを開けると、芋だけが乗った皿が置いてあった。
ルカは冷めた芋だけを掴んで部屋に戻る。
無言で、芋を割り、かけらを口に運ぶ。
塩だけで味付けされたソレは、家畜のエサとどっちがマシかわからない。
ぼーっとしていると、また、ドアの向こうから声が掛かった。
「キャンプ端の婆さんが、孫の為に祈ってくれってさ!」
ルカも怒鳴り返す。
「すぐに行くと伝えてください!」
それから、残った芋を水で口に流し込んだ。
キャンプ端というのは、貧民街の最も外側の一画の一つだ。
外側に行けば行くほど、小屋の残骸だかただのガラクタだかわからない、“吹き抜けの家”が増えてくる。
彼女の“家“もそんな場所にあった。
「神父様!良かった、来て下すった!」
老婆は木の板の影に隠した子どもを指差した。
「あの子を助けてくださらんか。わしは熱が出て動けん。だが、孫は無事なんだ!塀の内に連れてってくれんか?」
ルカは返答に困った。
本当に孫が無事なのなら、老婆を近づけるわけにはいかない。
だが、自分が近づけば、自分が黒死病を広げる方になるかもしれない。
そんなルカの心の中を知ってか、老婆は懇願する。
「神父様が言ったんじゃろ。ノミはイカンと。ノミがつかんようにちゃんと見とったんじゃ。だからどうか…。」
老婆の話を聞いて、ルカは目をつぶった。
老婆は、ルカが周囲に口を酸っぱくしていい続けた事を信じ、孫が触るものにはノミがつかないように、野良犬を遠ざけ、寝床に敷いていたワラは焼いた。
支援に入っている役人から、やっとの思いで石鹸と布切れをくすねた。
そして孫の体を洗った。
孫の体だけは湯で洗ったが、自分の分の湯はなかった。
それでも、自分についたノミが孫にうつったら困ると、真冬に水で体を清めた。
老人は熱を出し、動けなくなったが、孫だけは助けたいと、こうしてルカを頼ったのだった。
「わしはもう十分生きた。神様に呼ばれても構わんさぁ。でもなぁ、まだ歩けん孫まで連れて行くこたぁ、ないじゃろ。」
あえて孫にもルカにも近づかない老婆に、ルカは神の姿を見た気がした。
「お話はわかりました。ひとまず、場所を変えましょう。歩けますか?」
「…。」
老婆は沈黙したが、ルカは続けた。
「お孫さんを守るためと思って、もう一度、頑張ってください。」
ルカは物陰から、まだ1歳になるかどうかくらいの子どもを抱き上げる。
これが黒死病のリスクになり得ることは十分わかっていた。
しかし、老婆の誠実な様子や、遠目から孫の様子を見て、心が揺らいだ。
老婆の話が本当であれば、この子が黒死病の可能性は低いだろう。
老婆とて、コブがあるようにも見えない。
真冬に水を被って風邪をひいているだけかもしれない。
「うわーーーん!」
大きな鳴き声が周囲に響いた。
子どもは必死に祖母を探すと、小さい体で全力でそちらの方に向かおうとした。
老婆も、手を途中まで伸ばしたまま、目に涙を浮かべる。
「一緒に来てください。」
ルカは何度も休憩を挟みながら、一時詰所から少し離れた空き家に、老婆を案内した。
…1ヶ月程前、空き家になった家だ。
それから、ルカは一時詰所で、老婆はこの家で、1週間の監禁生活を送った。
ルカは祈った。
老婆に救いがあることを。
この子どもに神の祝福があることを。
“命が助かる”奇跡はなくても、神は魂の救済はしてくださる。
そう信じる事にした。
1週間経っても、孫は元気だった。
それを聞くと、老婆は泣いて喜び、奇跡を神に感謝した。
老婆もまた、1週間で熱が下がり、動けるようになっていた。
ふと、ルカはこの“奇跡”が当然のように感じられた。
老婆は、我が身を削って孫に尽くした。
精一杯、病を遠ざけた。
そして孫の為に神に祈った。
例え、孫が神に召されても、彼女は神を恨まなかっただろう。
孫が神の門をくぐれることを祈ったはずだ。
ルカはようやく、何かがわかった気がした。
彼女は孫に、完璧な医術と信仰を与えたのではないかと。
相手に無用な苦しみを与えはしない、その覚悟こそ医術ではないかと。
結果がどうであれ、神の愛をただ信じ続けるこの姿こそ、信仰そのものではないかと。
…久しぶりに、ルカは神を側に感じる事が出来た。
…少しだけ、肩の荷が下りた気がした。




