《分水嶺》
周辺都市が打撃を受け、アルヴァニエに難民が流入してくるようになってから、難民キャンプは徐々に規模を拡大しては、局地的な集団感染を繰り返していた。
12月に入る頃には、気温も下がり、市内に入れない難民達の怒りは徐々に我慢の限界に達していた。
炊き出しも、麦から芋に変わり、質が落ちていった。
バン、と机を叩く音が、エミールの書斎に響いた。
「あのクソ爺め、家族ともども地獄へ落ちろ!」
怒りの発端は、アルヴァニエに流れ着いた難民の言葉だった。
なんと、アルヴァニエから28km程度離れた街、カスティエでは、アルヴァニエが難民を受け入れていると、領主が吹聴しているらしい。
連絡が途切れていたので、カスティエの状況の深刻さはわかっているつもりだったが、よりにもよってふざけたことを!
30キロ程度なら、歩いても健脚なら1、2日で着いてしまう距離だ。カスティエとアルヴァニエでは、互いに人口5000人程度と、中程度の地方都市だ。
そのカスティエが、患者を中心にアルヴァニエに人を送り出しているとは!
幸か不幸か、難民の大方は、途中で行き倒れているようだが。
これでは棄民政策ではないか!
患者を押しつけられたアルヴァニエの状況もギリギリだ。
ギリギリセーフではなく、ギリギリもうアウトなのだ。
最初の患者が流入してから、1ヶ月ちょっと。
アルヴァニエは徹底した人流の規制で、感染を抑制し続けてきた。
それは、警察組織と強権的な権力を持つエミールだから出来たことだった。
貧民街は外部との緩衝材である一方、時限爆弾でもある。
民衆の不満が高まり、制御が効かなくなれば、あっという間に決壊してしまう。
今のアルヴァニエは、奇跡の中の奇跡のようなバランスの中にいる。
「アルマン。僕の地下のコレクションを埋めてくれる?それと評議会を招集しろ。それからド・モンフォール司教と面会する。」
数時間後、エミールは教会でド・モンフォール司教と面会していた。
「何かあったのですか?」
服を燻す話が出ていたのがほんの4、5日前のことだ。
ド・モンフォール司教の胸には嫌な予感が立ち込める。
「カスティエが棄民政策を取りました。」
ド・モンフォール司教は目を閉じ、椅子背に体を預けた。
最悪の知らせだった。
「これから評議会を開きます。司教も参加してください。」
「これからどうするおつもりですか?」
「貴方の判断に任せます。」
驚いたように、ド・モンフォール司教が目を開ける。
「どういう意味ですか?」
「ここは壊滅します。カスティエが棄民政策を取れば、周辺都市はそれに倣います。割を食うのはアルヴァニエです。」
エミールが目を伏せる。
「難民に来るなといっても無駄でしょう。…モルヴェールの建物はまだ残っていますか?」
ド・モンフォール司教には、エミールの言わんとする事がわかった。
「ここを捨てて逃げろと?」
「救って欲しいのです。領民を。一旦、暴動が起きれば、ここは火の海になるでしょう。そうならなくとも、私たちは処刑されるでしょう。それはどうでも構いません。問題は、ここの機能が失われるという事です。」
ド・モンフォール司教がエミールを見つめる。
「旧市街・新市街はなんとか耐えています。でも、難民が市街へ流入すれば、すぐに感染が広がって、皆死んでしまう。」
アルヴァニエが奇跡的な幸運の元にいることくらい、ド・モンフォール司教もわかっていた。
「評議会で彼らと話をしてください。彼らと共に去るか、あなた方だけで去るか。アルヴァニエは城壁がありません。人々の流入は止められません。」
「貴方はどうするのですか?」
「貧民街へ行きます。」
それは、自分が囮となって、時間を稼ぐということ。
ド・モンフォール司教は立ち上がると、エミールに声をかけた。
「神のご加護がありますように。」
暖炉をつけていても冷たい空気が、顔を火照らせる。
「神様なんて、信じたことはありませんよ。」
ド・モンフォール司教はため息をつくと同時に、なぜルカ神父がエミールを気にかけるのかわかった気がした。
神をも畏れぬ不届者。
自らの足で立ち、自らの手で未来を掴み取る為政者。
「幸運を祈ります。」
ド・モンフォール司教は祈りの文句から“神”を省いた。
人々のために自らを捨てる覚悟がある者のために祈るのだ。
そのくらいは神もお許しくださる。
エミールが小さく頷き、去っていく。
同じ日の晩、デュボア邸で、有力市民や警察長を集めた評議会が行われた。
街を捨てて逃げるべきだという意見が多数を占めた。
皆、薄々気がついていたのだ。
暴動は時間の問題で、自分たちには逃げ場がないのだと。




