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《撤退戦》

エミールは市内報告書を読み漁り、市内を監視し続けた。


報告書には、エミールが子供の頃、トイレットペーパーを作ろうとして出来た失敗作の山が役に立った。


エミールが子供の頃、上流貴族の館では城壁から突き出たトイレで用を足し、布でお尻を拭いていた。


これが、嫌で堪らなかったのだ。


このような衛生レベルでは、感染性胃腸炎にならない方がおかしい。


寄生虫にだって罹るかもしれない。


寄生虫は真核生物で、人の細胞と似ている。

そのため、寄生虫に罹っても寄生虫だけを狙って薬の効果を出すのは難しいのだ。


ギョウ虫か回虫にでも感染しようものなら、死んでやる、くらいの気持ちだった。


布ではなく木を使って、紙を大量生産する。

これが、エミールの最初の目標だった。


その残骸が、デュボア邸にはまだ残っていた。


それでも、先は見えない。

年単位で流行が続けば、これとていつまで保つかわからない。


考えるべき事ばかりだ。


近隣の都市の領主とは、情報共有のため、早馬で互いに使者を送り合っていたが、連絡が途切れたところもあり、芳しい状況とは言えなかった。


おそらく、領主からの連絡が途絶えた事と、その地方の難民の流入が増えた事を考えると、おそらく相当な被害を出したのだろう。


貧民街の人口は膨れ上がり、貧民街の外側に、野営する人達も出てきた。


エミールは頭を抱えた。

何もかも、想定外の事だらけだ。

まさか難民キャンプが立つほど人が流れてくるとは思わなかった。


殺虫剤は、疫学調査に投入した聖職者に優先して回していたが、聖職者にも感染者が出始めた。


報告書に、ルカの名前を見つけると安心した。

報告書に名前がない日は、夜も眠れなかった。

何度も報告書の記載者を確認して、それでも彼の名前がないとわかると、少しだけアルコールに手を出した。

それでも、一向に眠気は来なかった。


ルネとマチューは、教会の応援に行かせた。

そこなら後方支援で比較的安全だと思ったし、2人の能力を活かせると思ったからだ。


2人からも報告が来たが、情報が錯綜し、何が最新の情報かわからなくなった。


貧民街では、死体を埋める穴がなくなり、患者に死体を運ばせて焼いているというニュースも入ってきた。


難民のせいで、備蓄は急速に減りつつある。

だからといって、難民が来るのを止めることも出来ない…。


しかも、貧民街での患者発生は、予期せぬパターンをとるのだ。


エミールは毎日、各地区にネズミの罠の量や撒いた殺鼠剤の数を報告させている。


貧民街ではなぜか、ネズミの捕獲量が少なく、リスクが少ないはずの場所で患者が集団発生する事があるのだ。

難民が流入してすぐの場所なら、わからなくもないが、なぜネズミの駆除が成功したはずの場所で患者がでるのだ?


しかも、集団発生しているのは、肺ペストだけではなく、腺ペストもなのだ。


黒死病、ペストには大きく分けて2つのパターンがある。リンパ節が腫れる腺ペスト、咳や呼吸困難がでる肺ペスト。


肺ペストなら、飛沫で感染するので、広範囲で集団感染してもおかしくない。


一方の、腺ペストはノミからの感染が主なはずなので、家庭内での集団感染なら納得がいくが、周辺でも多発するなんて事は、理屈に合わないように感じる。


エミールの執務室にはアルヴァニエの地図が壁にかけられ、患者が出た場所にはピンが刺さっている。


エミールはボーっとその地図を眺めた。

疫学の父、ジョン・スノウは、井戸と患者の関係に気がついた。


自分は、一体、何を見落としているんだ?

いったい何が起きている?


なぜ、鼠が減った場所で…。

そこまで考えて、ゾッとする仮説に行き着いた。


違う。


“鼠が減った”から、“人につくノミ”が増えたんだ。


アルヴァニエでは、ペストの流入に備えて、先行してネズミを駆除した。


ノミだけ減らしても、供給源である鼠が多ければ、意味がないと考えたからだ。


おそらく、その時、ネズミという寄生先を失ったノミは人間に寄生するようになったのだ。


その時、すでに交易は遮断していたため、新市街・旧市街への病原体を持ったノミの流入は抑えられたのだ。

しかも、旧市街・新市街は比較的裕福な地域で、服を定期的に洗濯するという習慣があった。


しかし、貧民街では、服を洗濯する習慣も、洗濯ができるような水場も少ない。

最下層では、下水道の水を使って生活する者もいるくらいなのだから。


そにため、旧市街・新市街の患者は抑制され、ノミが人につくようになった貧民街で黒死病が飛び火しているのだ。


吐きそうだ。


順番を間違った。

助かる命があったはずなのに!


出来るなら、今からでも全戸、殺虫剤を噴霧したい。

しかし、そんな余力はない。


ひたすら、地図を眺める。

どこかに使える井戸はないか、考えうる方法はないか。


…エミールは、数週間ぶりに、セント・クレール教会を訪れた。


ド・モンフォール司教は、ガラッと人が変わったように老けてしまった。


それもそうだろう。


若い時は若すぎるという理由で前線を外され、今は全体を指揮する人間が必要だという理由で、前線を外された。


何人かの神父が発症したが、発症者は野戦病院という名のキャンプへ送られた。


治療法などない。

体力が保てば治るし、そうでなければ死ぬだけだ。


ド・モンフォール司教は、彼らのための手を握って祈る事すら許されなかった。


エミールも、顔は血の気が引き、唇は乾燥して裂け、かつての神秘的な美貌は、廃退的な美しさへ変わってしまった。


「お久しぶりです。」


互いに口元を布で隠し、距離をとって会話する。


「報告書を読んでいて、気になる事があって参りました。」


そして、鼠の駆除と、ノミの飛散についての仮説を述べた。


「なるほど。貧民街には、殆ど井戸がないですからね。それで、服の洗濯が出来ないと。」

「そうです。ノミが減らねば、次いつ黒死病が発生するかわからないのです。」

「…ノミを減らせば良いのであれば、燻したらどうですか?薪なら、水と違って運びやすい。」

「段取りは取れますか?」

「子爵が仰った通り、神父の担当する地区は固定してあります。旧市街・新市街では洗濯や洗髪の敢行させましょう。貧民街では、ノミが着きそうな物は持ち主に焼却させ、服は燻し、髪は切るか、洗うか、燻すか…出来る範囲で対策させましょう。」

「商家に言って、衣類やシーツは出来る限り供出させます。」


互いに、淡々と、これからの対応を確認し合う。

それが終わると、エミールが席を立った。


「ルカ神父なら、もう少しで貧民街から戻るでしょう。」

「まだ25歳の神父をよく行かせましたね。」


ただの八つ当たりとわかっていても、言わずにいられなかった。


「前に担当していた神父が亡くなったのですよ。そんな所へは、誰も行きたくないでしょう。そんな場所に、彼は望んで行ったのです。」


…聖職者を感染対策の要員として巻き込んだのは、エミールの責任でもある。


「もう帰ります。ルカ神父には、よろしくお伝えください。」


胸が張り裂けそうだったが、領主として、それ以上の言葉は紡げない。


「エミール様、エミール様も無理がないように。」

「司教も。」


ド・モンフォール司教の目には、孫達を心配する祖父のように温かい光が宿っていた。

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