《異端者》※追加分
シルヴィ・フォンテーヌはまだ15歳の少女だ。
もう少し、両親が長生きしていれば、弟と2人だけの生活をこんなにも早くからする必要はなかっただろう。
「姉様、本日の晩餐はいかがいたしましょう?」
笑みを湛えた、緑の丸い2つの目が、シルヴィを見つめていた。
「あら、選ばせてくれるの?」
「ライ麦パンと…ライ麦パン!」
ケラケラと彼は笑う。
「でもね、今日はチーズもあるよ。世話係のデュランがくれたんだ!」
彼らは、救貧院の片隅の硬いベッドに2人で腰掛けている。
彼らの前に置かれた食事は簡素なものだ。
それでも、空腹で夜を越すよりは良い。
「神様、今日もお恵みに感謝します。」
「神様、今日“は”お恵みに感謝します。」
彼女の弟、アランが悪戯っぽい目でシルヴィを見た。
「お調子者ね。」
ここが教会ならきっとブツクサと怒られるところだろうが、シルヴィは気にしなかった。
むしろ、弟のこのような朗らかさを快く思っていた。
2人しかいない食卓が通夜の様だったら、耐えられない。
「今日は何をしていたの?」
行儀がいいとは言えないが、2人はパンを齧りながら、互いの言葉に耳を傾ける。
辛い1日の中で最も幸福な時間だ。
「ドニがね、ネズミを追いかけてたよ。肉が食べたいってさ。走って追いかけたって捕まるはずないのにね。僕はそれを見てた。」
シルヴィが眉を顰めた。
「ネズミなんて食べるの?病気になるわよ。」
「でもさ、僕も、もう長いこと肉は食べてないよ。」
アランの言葉に、シルヴィは胸が痛くなった。
「神父様に相談してみるわ。聖人のお祝いの日くらい、少しでいいからお肉を頂けないかって。」
「期待しないで待ってるよ。」
カタカタと風が窓を揺らし、秋の冷たい風が隙間から入ってきた。
「食べたら早く一緒に寝ましょう。夜は寒くて起きてしまうかもしれないから。」
2人は洋服を着たままベッドに上がり、1枚の毛布に包まった。
救貧院は各部屋に暖炉があるが、暖炉の側は大人の男たちがひしめいており、なかなか近づけない。
女性や子どもは、少し離れたところで寒さを和らげるしかない。
まして、2人は子どもだけだ。
部屋の1番隅にしか、居場所はなかった。
次の日も、彼らは昨日と同じように晩御飯を食べた。
「今日はね、厨房で野菜を剥くお手伝いをしたの。だから、スープの具を少し多く貰えたわ。」
「姉様、僕も良いことをしたよ。昨日、ドニがネズミを欲しがってるって言ったでしょう?昨日のパンを少し取っておいて、水瓶の上に紐で吊っておいたの。そうしたらね、ネズミが水瓶に落ちて溺れたの。それをドニにあげたらすごく喜んでた。」
「良いことをしたのね。」
シルヴィはアランの頭を撫でてやる。
「見返りを求めないで誰かに施しをするなんて、素晴らしいことだわ。貴方は姉様の誇りよ。」
目を細めてシルヴィが笑う。
「うん!」
アランも、満足げだ。
「姉様、次は鳥を取るよ。それなら、姉様も食べるでしょう?」
「そうね、楽しみにしているわ。」
心優しい姉弟の安らぎの時間が終わりに近づいている事に、彼らはまだ気がついていなかった。
数日後、アランは部屋の片隅で高熱を出し、朦朧としていた。
「アラン、大丈夫?」
「…。」
アランは辛うじて頷きはするものの、返事をするのも辛そうだ。
いつの間にかできた首のコブは、今はスカーフで隠さないといけないほど大きくなっている。
シルヴィは徐々に不安になってきた。
最近、酷い熱病が流行っていると聞いたからだ。
熱を出した者は、殴られて家から追い出されるとも聞いた。
今はまだ他の人達にバレてはいないが、アランが熱病だと知ったら、彼らはどうするだろう?
シルヴィは恐怖で指を噛んだ。
ふと、しばらく前に聞いた魔術師の話を思い出した。
その老婆はどんな病も治してくれるという。
「アラン、お医者様に見てもらいましょう。歩けるかしら?」
「…。」
アランは、毛布を巻きつけたまま、無言で立ち上がった。
シルヴィは、他の利用者の目につかないよう、細心の注意を払うと、2人で裏口から逃げ出した。
「…どこに行くの?」
「すぐに着くわ。」
アランはトボトボと、俯いて歩いている。
額に手を当てると、まるで真夏の石畳のように熱い。
人の体がこれほど暑くなる事を、シルヴィは初めて知った。
「姉様が背負ってあげるわ。」
そう言うと、彼女はアランを背負って歩き出す。
15歳の少女にとって、7歳の弟は重く、一歩一歩が苦行のようだ。
それでも、背に感じる体温が、彼女に力を与えた。
噂を頼りに歩き回り、幸か不幸か、日没までには噂の老婆を見つけることができた。
「お願いします。弟を見て頂きたいのです。」
「お断りだね、なんで私がそんな事をしなきゃならんのさ!」
ボサボサの髪の老婆は、2人の身なりを見ると、ピシャリと言い放った。
「少ないですが、これで何とかなりませんか?」
シルヴィは赤い宝石のついた指輪を老婆に見せた。
これだけは手放すまいと大事に隠していた母の唯一の遺品。
金があるとわかると、老婆は手を返した。
宝石のついた指輪など、貧民街ではそうそうお目にかからない。
売ったらきっと大金になる。
「早く入りな。」
シルヴィは老婆に言われるまま、彼女の家に入った。
そこは暗くジメジメしてはいるものの、他の貧民の掘立て小屋のような家に比べれば、荒屋とはいえ木の屋根があるだけ立派だ。
中には小さな囲炉裏もある。
「そこに寝かせな。」
「これは弟が治ったらお渡しします。」
老婆が何か言う前に、シルヴィは釘を刺した。
最初で最後の切り札なのだ。
絶対に失敗できない。
「…好きにしな。」
そう言うと、老婆は芋の入ったスープを彼らに出してやった。
小娘1人、例えば何かあったところで、そこら辺のゴロツキに腕の1本や2本でも折らせれば良い。
どうせ弟がいる以上、ここを離れるわけにはいかないのだから。
怪我をして弱ったところを襲えば、指輪も簡単に手に入る。
この家に入った時点で、あの指輪は老婆の物だ。
「良いかい、神に背く覚悟はあるんだね?」
食事が終わると、老婆は物々しく切り出した。
「はい、弟が助かるのならば。」
シルヴィの汚れなく強い瞳が老婆を映した。
「良かろう、それならば始めよう。まずは鶏の血を持っておいで。それから、ヤギの角も。」
シルヴィは絶句した。ここに来れば助かると思ったのに、来ただけではダメだなんて。
老婆は、心の中でニマニマと嗤った。
どうせ、そんなものを持って来ることなど出来はしないだろう。
それならば、助けられなくても老婆が悪いわけではない。
シルヴィがゴネたところで、助かる方法を教えてやったのだからと言って、指輪を奪ってしまえば手間もかからない。
「わかりました。少し時間を頂けますか?」
震える唇を噛み、シルヴィは呟いた。
真夜中、シルヴィは老婆の家を抜け出し、そして貧民街の外れまで来た。
そこは、役所で買われたゴミが行き着く最終処分場の一つだ。
そこでゴミを片っ端からひっくり返し、骨がないか探した。
動物の角や牙は、薬や呪術用に売れるので、こんな場所にある事は滅多にない。
病気で死んだ動物でなければ。
何時間もかけて、彼女はやっと、子ヤギの頭蓋骨を見つけた。
小さくても、ヤギの角には変わりない。
ポツポツと、雨が降ってくる。
濡れるのも構わず、彼女は教会に走った。
教会には鶏小屋があるのだ。
もちろん、鶏小屋には入れないが、そばに行けば鶏の羽は手に入る。
いくつか羽を拾い、ボロ切れに包む。
そして、持っていた小さなナイフで、自分の足を切った。
老婆の家に戻ると、ちょうど老婆が起き出してきたところだった。
「これで弟を治してください。」
「もう見つけてきたって!?」
老婆は驚いた。あんな無理難題を一晩で片付けってしまうとは。
しかし、シルヴィが差し出したものを見て、老婆は鼻白んだ。
「何だね、これは。」
「ヤギの角と鶏の血です。これで治せるんでしょう?」
シルヴィは信仰を捨てたのだ。弟のためなら、嘘だってつける。
「それにしたって、あんたね。大人のヤギの角に決まってるだろう。こんなガラクタじゃ、大した効果はないかもしれないよ。」
「それでも良いんです。まずは始めてください。」
老婆も、少し良心が痛んできた。
老婆も我が子を失った事がある。
黒魔術に傾倒し始めたのもそのためだ。
あの子が大きくなったなら、この子達のようになっただろうか。
「わかったよ、あんたは顔を洗って少し寝ておいで。」
初めて、老婆の声に温かみが籠った。
囲炉裏に火を入れ、力なく横たわるアランの側に座った。
そして、ヤギの角とシルヴィの血で悪魔のための祭壇を作った。
「神を拒む者、暗がりに巣食うものよ。今、あなたをお迎えします。どうか、我らの祈りに応え、お姿を現してください。」
老婆は、囲炉裏に鳥の羽と血の染みた布を投げ込む。
湿った布は、煙を上げて燻っている。
シルヴィは煙の奥に、何かの姿を見た気がした。
それから7日、老婆は悪魔に祈り続けた。
老婆だって、根っからの悪人ではなかったのだ。
死にゆく命の前で、嘘でも拝むふりくらいは出来る。
…アランは徐々に良くなった。外に出歩けるようにもなった。
それを見られてしまったのだ。
自警団に。
アルヴァニエでは、自警団を禁止しているが、全てをなくせる訳ではない。
自警団の男たちは恐怖した。
魔術師と噂の老婆が、悪魔と取引して生かした子どもだ。
こんな“モノ”を生かしておいたら、神の怒りに触れてしまう!
ある日を境に、老婆の家は空き家になった。




