《過信》
ジャックの退院は、ルカにとっても吉報だった。
時折、ジャックを見舞っていたものの、毎日行くわけにはいかない。
ルネは正直で、手術後5日目以降に熱が出たら、それですぐ死ぬとは限らないが、良くない兆候だと教えてくれていた。
ジャックの母親同様、ルカも彼の経過を指折り数えた。
9月の頭頃、ジャックは、また教会へ来れるようになった。
夏が顔をのぞかせ、陽が登るとじんわりと汗ばんでくる。
ルカがミサを終えて自室へ戻ろうとしたところで、ジャックが声をかける。
「神父様!神父様のおかげで、命拾いしたとよ。」
「それは良かった。神のお導きです。」
ジャックは、聖堂の奥に飾られた像に目をやる。
「ああ、俺さいつ死ぬかと思ったよ。祈っとるばかりじゃなくて、やっぱり、大事な時は腹決めて動かんとな。でもさぁ、やっぱりこうしてみると、祈りが通じる事もあるでぇな。」
ルカは微笑んだ。
ジャックの言う通りだ。
神は、試練を課すが、必ず救いも差し伸べてくださる。
そこへ、もう1人の信徒が話しかけてきた。
ピエール=エティエンヌ・ラフォレ。
60歳を超える長寿だ。
「ルカ神父。どうか、老身の相談にのってくれませんか。」
ピエールは若い頃、タチの悪い仲介人に騙され、広いからという理由で、アルヴァニエの農地を買っていた。
一生懸命働いたが、土地は痩せており、あまり裕福とは言えなかった。
15年前、領主が変わり、新しい領主が新しい農法に取り組み出した。
ピエールの農地は、エミールの農地からさほど離れていなかった。
当時、エミールは頻繁に畑を訪れては、苗や畑、肥料の比較をしていた。
初め、ピエールは、エミールを領主だとは思わず、農地の管理を任された使用人だと思って声をかけたのだ。
ピエールは、この若い使用人にいろんな話をしてやった。
その使用人は覚えが良く、ピエールも気分が良いくらいだった。
ある時、その使用人は、いろいろな事を教えてくれた借りを返すといって、ある種類の芋を彼に渡した。
「これは小麦より天候に左右されない。味も悪くない。不作に備えるには良いだろう。」と言って。
半信半疑で育ててみると、確かに、悪天候にも強かった。
それから、エミールの農地をよく観察するようになった。
世間話のつもりで、何をしているか聞き出そうとした事もある。
エミールの口は軽く、農業については、聞かれたことは大概答えた。
ピエールにとっては天の恵みだ。
エミールのやり方を、どんどん真似ていった。
そうするうちに、ピエールの収穫量は増え、生活に余力が出てきた。
家畜の管理方法も真似た。
それまでの、幼獣と成獣を一緒にするやり方ではなく、年齢ごとに囲いを別にした。
子を身ごもっている家畜は、子供たちが生まれてある程度大きくなるまで隔離した。
そうすると、面白いように、家畜が増えていく。
こうして得た金で、彼はさらに農地を買い、アルヴァニエでは中規模農家になったのだ。
人生が順調に回り出した矢先、足の付け根に瘤ができた。
その瘤は柔らかく、押せば引っ込んだ。
しかし、それは徐々に大きくなり、ピエールを不安にする。
「どうしたのですか、兄弟。」
「前にご相談したでしょう?瘤が出来てしまったと。」
「ええ。医者にはかかったのですか?」
ピエールが言い淀む。
「放っておけと言われたのです。」
その言葉を聞いて、ルカは焦った。
「もしや、長くないと言われたのですか?」
ピエールは首を振る。
「わからない、と言われたのです。」
若い頃、仲介人に手酷く騙されてから、彼は用心深く、ちょっとの事でも、不安になる癖がピエールにはあった。顔に苦悶が滲む。
「本来は、腹の中にあるはずのものが、瘤の中に出ているのだと。もし、横になったときに戻らなかったり、固くなれば、命がないかも知れぬと。」
既に泣き出しそうだ。
「ジャックの話を聞いて、私も助けてくれと言ったのです。ジャックは、病が見つかったのが早かったから助かったのだと、彼自身が言っていたのは、神父様もご存知でしょう?なぜ、私は病が酷くなるまで、待たねばならぬのですか?」
「フォルティエ医師にその事を聞かなかったのですか?」
「私は十分生きたと。歳をとってまでする事ではないと!ですが、神の前では皆、平等ではないですか!なぜ、私だけ死なねばならぬのです!」
ピエールの声は徐々に大きくなり、周囲の人物は何事かと、2人に目をやる。
「ならば、一緒に、フォルティエ医師にお会いしましょう。もしかしたら、何かご事情があるかも知れないし、気が変わられるかも知れない。」
ルカは、救いの機会は平等に与えられるべきだと思っている。
神は誰も拒まない。
ジャックの奇跡が神のご意思なら、その奇跡は皆で分かち合うべきだ。
あのルネが、助かる道がありつつそれを塞ぐような事をするなど、にわかに信じられない。
ルカは、不思議に思いつつ、サン・デュボア病院へ向かった。
外に出ると、9月の日差しがジリジリと肌を焼く。
ピエールは暑さに耐えられないのか、ハアハアと息をしている。
じっとりと汗をかきながら、2人は街中を抜けていった。
アルヴァニエは、他の街よりゴミの処理を徹底している。
糞尿と固形物は全て買い取って貰えるので、ゴミに砂を混ぜて量をかさ増しする人間がいると聞いた時には驚いたものだ。
もちろん、かさを誤魔化した事がバレれば罰金だ。
わずかな金でも、ゴミは金になるため、皆、放置はしないのだ。
それでも、夏の暑さは、側溝や台所から、わずかに腐臭や異臭を漂わせる。
心なしか、サン・デュボア病院の近くも、腐臭が漂っているような気がする。
ルネは、ピエールの訪問を喜ばなかった。
困ったように眉根を下げる。
「何度も言ったじゃないですか。ピエールさんは、年をとりすぎています。手術は体を切るんです。傷から回復するだけの体力がなければ、逆に寿命を縮めます。」
「じゃあ、先生は私に、諦めて死ぬまで何もせず待っていろというのですか?」
「本当に他に道がなくなったら手術も考えます。でも、今はやっても無駄、というより害だと言っているのです。」
「先生は、ただ死に行くものの気持ちなどお分かりにならない。今日か、明日か、と思って生きるより、ダメならダメでバーンと死んだ方がいい。」
言いたいことはわからなくもない。
しかし、助かるよりも、助からない可能性が高い手術をどうして執刀できるだろう。
「お気持ちはわかりました。もう一度、検討しますが、検討するだけですよ。」
「わかった」という言葉に、ピエールはギロリと目を見開いて言った。
「約束ですよ。絶対、やってくださいね。」
ピエールが自分の都合の良いように解釈している事に、ルネは頭が痛くなる。
なぜ、これほどまでに話が通じないのか…。
ルカは、一連の流れを見て、これまでの事も大体察しがついた。
この医者は、ピエールへの個人的感情から手術を断っているのではなく、そもそもピエールの体が弱りすぎて手術が出来ないだけだったのだ。
「ピエール、今日のところは一度帰りましょう。ルネ先生の話では、病気が急に重くならない限りは今のままでも死にはしないと仰ってるじゃないですか。」
「急に重くなるっていつです?寝ている間に悪くなったらどうするんです?」
ルネは、それならそれが寿命だと言いたかった。
しかし、ルネにはエミールとは違い、人に寄り添い続ける辛抱強さと覚悟があった。
「まだ起きていない事は分かりません。でも、いつでも最善を尽くします。」
「ピエール、一度帰りましょう。教会に戻ってもいい。心を落ち着けてから、また考えましょう?」
ピエールを何とか宥めると、ルカはピエールを連れ帰った。
ふと、ルカの頭に、エミールの影がよぎる。
エミールでもルネと同じ事を言うだろうか?
笑い薬を作った時、エミールはピエールの事を気にしていた。
もしかしたら、良い薬を知っているんじゃないか?
一瞬、自分の体で薬を試すエミールの無鉄砲さを思い出して不安を覚える。
ルカが余計な事を言って、また何か突飛な事をしないだろうか。
いや、大丈夫だ。
エミールは話せばわかるし、変な事をしないように、ルカが見張っておけば良いだけだ。




