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《明日》

ジャックの手術中、病院の待合室には、トマに連れられてジャックの母親が来ていた。


手術が終わったと聞くや、曲がった腰で杖をつきながら、彼女にとっての最大速で駆けて行った。


生後8ヶ月の赤子とどちらが早いかという程度ではあったが。


そして、病室にたどり着くと、オイオイと大声を出して泣き始めた。


「ジャック!ジャック!どうしたんだい!こんな姿になっちまって…。」


親というものは、いつまでも我が子に5歳の頃の面影を見てしまうのだろう。


手術後のジャックの方がまだ落ち着いていた。


ルネは、2人に、手術が終わっても、最低でも半月は入院しなくてはならないと言った。


病は手術で切り取ったが、その傷を治す体力がなければ、傷が膿んで命を落とす事もあり得るからと。


体力というのは、力が強いとか体が大きいということではなく、体に備わる生命力で、本人すら分かりようが無いものだと。


「それで助かるんなら、安いもんだ。」


母親は、祈るようにいった。


ルネが個室をあてがってやったので、それから半月、この親子は病院に住んでいるようなものだった。


薬にはいい面と悪い面がある。

ラウダラムは、痛みを取ってくれる代わり、呼吸を出来なくさせたり、腸の動きを止めてしまったりする。


だからと言って、痛み止めを使わねば、痛みで体に力が入り、傷が開いてしまう。


我慢しすぎも、しなさすぎも悪いのだ。


人生で生きたまま腹の中を弄られる経験をする人間などそういない。


初めてのことを、自分の感覚頼みでやらねばならない。

それではうまくいかないので、医者が目安を示しながら伴走するのだ。


「今までに1番痛かった事を10、全く痛くないのが0だとしたら、今はどれくらいの痛みですか?」

「7か8…。」

「なら、薬を増やしましょう。でも、これ以上は危ないですからダメです。」


最初の数日は、痛みが強すぎて何かを食べるどころの話ではない。

しかし、時間経過とともに、痛みは和らぎ、熱も引いてきた。

創部の熱感も良くなった。


術後3日目。

ルネは傷に触れないように抑えながら、ジャックの腹に耳をつけて音を聞く。


「腸の音がしますね。これなら、食事をとっても大丈夫でしょう。」


そう言って、ジャックの机に粥の入った腕を置く。


サン・デュボア病院では、アルヴェニエに住民票があって納税の義務を負っている者であれば、患者と付き添い1人分の食事は無料で提供される。

手術料を請求される事もない。


これは、エミールが強制的に、健康保険的なものを作ろうとしたからだ。


この仕組みがまだ上手くいっているのは、医学が未発達で、提供できる医療行為が少なく、入院適応になる患者が少ないことが大きい。


現代なら、手術の適応になる人々は、アルヴァニエにたくさんいる。


しかし、その殆どを、ここでは救えない。


つまり、この制度を使える人間が大していないから、手厚くできるというだけなのだ。


我が子を失う危機を経験した彼女は、何がなんでも息子を守ってやりたいのだろう。


本来は、切ったのは下腹部なので、腕は問題ないのだが、息子に粥を食べる匙すら持たせない勢いだ。


「ほら、ジャック。口をお開け。」

「プシャールさん、やりすぎは逆効果になる事もありますから。」


見かねたルネが、ジャックに匙を持たせる。

病は気からという言葉があるが、どうやらその逆もあるらしい。


老親に甲斐甲斐しく世話をされ、気力が戻ってきたのだろう。

傷の経過はルネやエミールの想像よりずっといいものだった。


それでも、ルネの顔から、緊張の色は長らく取れなかった。

エミールには寝るように言われたが、どうしても寝付けなかったのだ。


感染兆候が出れば、傷を開いて膿を出さねばならない。

その時の手順も、覚えておかねば。


物品だって用意しておかねばならない。

10日を過ぎれば、表面の糸を外さねばならない。


そんな事が頭をよぎり続けた。


食事の味もわからない。

ただひたすらに、ジャックの容体に変化がないか見続けた。


幸運にも、感染兆候はなく、抜糸も無事終わった。


この頃には、ジャックと母親に緊張感はほとんどなく、傷口の扱いも身についていた。


「母さん、帰ったら、豆のスープを作ってくれよ。ここのは味が薄すぎて、食べる気がしねぇや。」


「文句をお言いじゃないよ。お医者様が言っていたじゃねぇか。今は体に良いものを食わにゃならんのだて。」


親子が自然に笑い合うのは久しぶりだった。


ジャックは家を空けている事が多かったし、母親も普段は張子や内職に忙しくて、こんなに長い時間、息子を構った事がなかった。


平和な時間が流れ、術後、15日で退院出来る運びとなった。


「先生、ありがとうごぜぇますだ。」


老婆の節くれだった手が、ルネの手を握る。

執刀したのはエミールなので、ルネは少し気まずい思いだった。


術後の管理はルネがしていたわけだし、後ろめたく思う必要はなかったのだが。


「先生さ、俺もお袋が歳だし、大工にでもなろうかと思うてさ。体だけは丈夫じゃけ、先生も力仕事が必要なら呼んでくれよ。」

「ありがとうございます。でも、ジャックはまだ完全には治っていないわけですからね。重いものを持つのはやめてください。風邪をひいたり、何か具合がおかしいと思ったらすぐ病院に来るように。それと、何もなくても様子を確認しますから、来週来るのを忘れないで。」


何度も、ルネは2人に言い聞かせた。

せっかくの幸運の上に得られた命だ。

無駄にしてほしくなかった。


エミールに状況を報告すると、彼は上機嫌になった。


「やはり、若いと回復がいい。それに今回は私がいなくとも抜糸は出来たようだしね。」


万一を考え、ルネは常にエミールの予定を確認し、大きな処理は、急変があってもエミールが対応できるタイミングで実施していた。


「今回の事を論文にまとめておいて。君の名前で構わないから、大学の医学協会に出しておこう。」

「私は何も出来ていません。先生のお名前で出すべきです。」

「君は良くやったよ。術前のアセスメントはまあまあだったけど、致命的なミスはなかった。術後管理は完璧だったし。」


何より、自分の手に余ると感じた時、すぐに上級医を呼ぶという選択が出来た事自体が、彼の素晴らしい医師としての資質である事に、彼自身はまだ気がついていない。


「素質あると思うよ。」


師からの期待。


ルネにとっては、この上のない喜びだ。

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