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《医者の仮面》

ジャック・ブシャール。彼は30代の船乗りだ。


先月、母親が危篤と聞いて帰ってきたが、母親は元気になり、あべこべに息子が病になっている。


船乗りであるジャックは、いろんな都市で、これまでに何人も、病院に行ったまま戻らない仲間を見てきた。


行かなければ命がないが、行ってもダメな時がそれなりにある場所、それが彼の病院に対するイメージだった。


だから、これまでは、具合が悪くても、その後にちょっとでも良くなると、そのまま治ることに期待して病院へは行かなかったのである。


そのような彼だったから、一昨日の深夜、少し腹が痛いと思っても病院へは行かず、布団に包まっていただけだったのである。


しかし、痛みは徐々に強くなっていった。


明け方、母親にその話をすると、母親は青ざめて医者に行くよう言った。彼の父親も、腹の病でこの世を去ったからだ。


老いた母親にとって、息子を失うのは何よりの喪失だ。


母親は、アルヴァニエの奇跡の医者の話も風の噂で聞いていた。それで、息子を何度も説得したが、ジャックはいい歳をした大人だ。そう簡単に考えは曲げない。


結局、彼は病院へ行こうとしなかった。


行けば最後かも知れない、そんな恐怖もあったのだろう。


朝になると、彼は教会へ祈りに行った。ミサは彼の日課だ。教会のそばに滞在しているときは必ず出向く。

教会へ向かう道は、普段より足元が悪く感じられ、腹に痛みが走る。


一歩一歩が試練のようだった。


ミサの間、夏の暑さが始まるまでの短い時間。彼は痛みに冷やせをかきながら苦悩していた。


神様、お助け下さい。神様。


教会の木製の椅子は硬く、苦痛を和らげてはくれない。


「ジャック!ジャック!」


大声で名前を呼ばれ、ジャックは顔を上げた。


ヴァレンティーニ神父の慌てた顔が見える。周囲には遠巻きにジャックを見つめる目がある。駆け寄ってきて貰えないのは、彼がこの街の出身とはいえ、船乗りで一年の大半を他所で暮らしているからだ。


他の信者にしてみれば、身内としての心配より、何か変な流行病でも持っているんじゃないかという心配の方が大きい。


ジャックは肩で息をした。

神父の腕が彼を支える。


ミサはどうやら終わっているようだ。


「ラヴァル助祭に馬車を用意させろ!早く!」


トマ・ド・ラヴァル助祭が聖堂の前に、一頭立ての馬車をつける。ジャックは、ルカに引きずられるように、聖堂を後にした。そして、ルカとトマに担がれ、サン・デュボア病院へ運び込まれた。


ルネ・フォルティエは勤勉だ。彼は、医学というものの未来を確信していた。大学にもいた。熱意に燃えるエリートなのだ。


そんな彼が、この片田舎の病院にいる理由は簡単だ。ここには未来がある。これまで、外科医は内科医より一段劣った職業だと言われてきた。理髪師が外科医を兼ねてることさえもあった。


手術とは、命が危うくなった者が最後にする博打であって、手術をさせない事が医者の誉と思っていた。


しかし、サン・デュボア病院では違う。


ここでは、手術は科学だ。手術で助かる可能性と、そのまま経過を見たときの余命を比較して、長い方をとる。


「高いリスクは取らない、低いリスクは取る。」これこそが、この病院の理念なのだ。


急患の一報を受けたとき、ルネは、1枚の論文を読んでいた。


「ルネ先生、急病です。」


この世には分からないことも多い。だから、彼は学び続ける。


ルネが診察室に入ると、痛みで冷や汗をかくジャックと、ルカ、それにトマが3畳ほどの狭い部屋にひしめいていた。


ジャックはすでに、診察台に横たえられていた。


「貴方の名前を教えてください。」


ルネがジャックに呼びかける。


「ジャック・ブシャールさんです。先ほど教会で…。」

「今は本人の話が聞きたいんです。」


トマが話し始めたのを、ルネが、柔らかい口調ではっきりと遮る。


「名前はわかりますか?」

「ジャック・ブシャール。」

「年はおいくつですか?」

「30は超えたと思う。」


痛みに耐えつつ、ジャックが答える。


「痛いところはどこですか?」


ジャックは、右下腹部に触れる。


「ここですね。」


ルネが触ると、ジャックは呻いた。


「今からお腹を押します。離した時に痛かったら教えてください。」

「うっ」


それから、ルネはジャックの右足を伸ばして持ち上げたり、膝を曲げてみたりした。

幸いなことに、痛みはなかった。


「腹痛はいつからですか?」


ジャックは返答に窮した。


「昨日の晩くらいさ。」

「手術になりそうです。もう少し調べますから、待っていていください。」


使用人の控え室に行くと、エミールを呼ぶための秘密のベルを引いた。それから、使用人に、マチューから約束の荷物を受け取るように命じる。


ルネが裏口で待っていると、アルマンに連れられてエミールがやってきた。いざとういう時に、建物が近いと便がいい。


「何があったんだ?」

「急な手術が必要かも知れません。」


ルネが続ける。


「マックバーニー点は陽性、モンロー、ランツ点は陰性です。反跳痛は軽い陽性、キュンメル点は陽性ですが限定的、筋性防御も軽いです。パソヒ徴候、オブターター徴候はありません。」


エミールが、ニコニコして頷く。ルネが続けた。


「虫垂炎です。マックバーニー点が陽性なので、虫垂の位置は前下方、一般的な場所です。軽い反跳痛を認めるため、腹膜炎を疑いますが、キュンメル点が限定的なので、局所腹膜炎だと思います。パソヒ徴候、オブターター徴候もないため、炎症は骨盤内後方までは広がっていないものと思います。今の段階で、かろうじて手術適応だと思います。」


エミールが応える。


「バイタルはとったのかな?発熱は?バイタルは全ての基本だよ。特に、手術適応なら、バイタルは取るべきだろう。打診と聴診は?腸閉塞の有無は見たかな?嘔吐や下痢の有無だって、腸がしっかり動いているかを見るには役に立つんだぞ?」


ルネの言葉が詰まる。


「麻酔の手配は?」

「終わってます。」

「手術室の準備は?」

「大方終わってます。」

「大方というのは、どういう意味かな?準備が終わっているのは何かな?」


焦るルネを見て、エミールが笑う。


「大丈夫、出来ることをするだけだ。…器具の滅菌は?」

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