《笑えない笑い》
ある日、ルカはエミールを訪ねると、玄関先で白髪混じりの女性とすれ違った。
ルカの鼻を微に酸や硫黄の香りがくすぐる。
「誰か来ていたのかい?」
「うん、まあね。薬師の婆さんだよ。」
乞食の件以来、2人はぎこちなくも、親密な交流を続けていた。
ルカは、様子を見ながら、エミールに“常識”を教えていった。
なぜ、乞食があのように言ったのか。
なぜ、周囲の者が沈黙を貫いたのか。
意味深な視線の意味は。
エミールは、何も言わなかった。ルカの言葉を否定するでもなく、ただ「そっか。」とだけ言った。
ルカのエミールを見る目も、着実に変わっていった。
エミールが、あの子に、「あの子の風邪に効く薬はまだないが、せめて栄養のあるものを渡してこい」と、召使いに命じたと聞いた。
そういう人物なのだ。不器用で、1人で背伸びをしようとする。
「ルカ、そう言えばさ。昨日、教会に足の付け根に瘤があるって言ってた爺さん居たでしょ?…元気?」
エミールは一瞬、言い淀んでから聞く。これまでなら、「まだ生きているんですか?」とでも言い放っていただろう。ルカの教育の成果だ。
「ああ、元気だよ。会いたいのかい?」
エミールは言いにくそうに言葉を続ける。
「ちょっと気になった事があってさ。さっきの婆さん、マチュー・ロランって言うんだけどさ。面白いものを開発したって言うんだよ。」
「何を作ったんだい?」
「わからない。」
ルカは肩透かしを食った。
「わからないけど、その爺さんには良いかもしれない。」
エミールは上目遣いで、ルカを見る。
「興味あるなら、一緒に来る?」
「良いのか?」
エミールは、手慣れた様子で、屋敷を抜け出す準備を始めた。馬小屋で一頭、馬をくすねると、2人はマチューの家を目指した。
ルカは神父になってからは馬車に乗る事が多かったので、乗馬には多少の不安があったが、デュボア子爵邸の馬はキッチリと調教されており、馬に振り落とされるという心配は杞憂で済んだ。
変装しているとはいえ、エミールを人目に晒したくないルカは、比較的安全で人通りが少ない道を選んでいく。
馬の歩くリズムにあわせて、エミールの体が揺れる。
雲一つない快晴で、木陰の道を抜ける風は爽やかだ。
「よく住所を知っていたな。」
「神父様はご存知ないみたいだけどね、この街じゃ、薬師や錬金術師は届出制なんだよ。」
疲れてしまったのか、エミールがルカの胸に体を沈める。
「助成金を出してやってるんだ。居場所ぐらいは教えといて貰わないと。」
マチューは町外れの一戸建てに住んでいた。家の周囲は、数々のハーブが生い茂っている。
「マチューさん!」
木製のドアを叩く。蝶番が、少し緩くなっているらしく、ギシギシと音を立てた。
「なんだね?」
しばらくして、先ほどの女性が顔を出す。
マチューは、エミールとルカを見ると、訝しげに言う。
「ご用なら、こちらから伺いましたのに。」
「いやいや、教えを乞う相手にはこちらから出向かねば。それより、先ほどのものを見せてもらえませんか?」
マチューはドアを開けて2人を迎え入れる。
その瞬間、ハーブや金属、アルコールや硫黄といった匂いがいっぺんに襲いかかってくる。
ルカは、思わず、たじろいだ。
一方のエミールは、ズカズカと中へ入っていく。
マチューの家は、たくさんの物が所狭しと並べられていた。乾燥した植物に、何かの鉱石、ガラスの容器に、金属製の実験道具たち…。
マチューは、薄い金属板を乗せた、大きな木のテーブルに2人を案内する。どうやら、これが彼女の実験台らしい。
そこには、水の入った大きな鉢や、三角フラスコ、鉄の棒に固定された細い金属製の管などが広げられていた。
マチューは、金属製の支柱に空中で固定された丸底フラスコの中に白い砂のようなものを入れると、火をかける。
丸底フラスコの先は細い金属の管が貫通したコルク栓がつけられている。その金属製の管は、水の入った瓶の中を通り、最終的に三角フラスコの中に入っている。
火にかけられた白い砂は、ユラユラと何かを立ち上らせている。
風が窓を揺らす以外、何の音もしない。
しばらくすると、マチューは三角フラスコから金属製の管をそっと抜き、コルクで栓をした。
「試したいんだけど?」
マチューが嫌そうな顔をする。
「デュボア子爵が仰るのであればそうします。でも、責任は取りませんよ。」
エミールはニコニコしながら、勝手にマチューの安楽椅子に腰掛ける。
エミールの動きにあわせて、椅子がギシギシと軋む。
「マチュー、痛み刺激の実験をしよう。やり方はわかってるでしょう?爪と目と足だよ。」
そういうと、フラスコの栓を抜き、手で仰ぐようにして、見えない何かを吸い込んだ。
途端に、エミールが笑い出す。何かを言いたげだが、笑いすぎて言葉にならないらしい。
ルカは、悪魔がついたようなエミールを見て、一歩後ずさった。
マチューはエミールの爪に何かを押し当てる。それから、靴を脱がせると、アキレス腱の上を摘む。最後に、両目の上部の骨を押す。
その間、エミールは子供のように微笑み続けた。何か遠くを見ているような眼差しは、庇護欲と同時に切なさを抱かせる。
実験台の炎の熱と、時折何かが軋む音。
エミールはフラスコを持つのが面倒臭くなったのか、胸に置くように抱え、中身を嗅ぎ続ける。
しばらくして、マチューはエミールの様子を見ながら、もう一度同じことを繰り返した。そして、エミールからフラスコを取り上げた。
少しすると、エミールが疲れた表情をして起き上がる。
「何分?」
「砂時計2回分。30分程度さね。」
まだ少し、ボーっとしているようだ。
「反応は?」
「全部無かったよ。」
エミールが小さく唸る。
「僕も痛みは覚えてない、と言うことは、そういう事なんだろう。」
頭を振りながら、エミールが言う。
「とりあえず、3本分。」
ルカには、何の話をしているのかまるきり分からなかったが、何かしらの危険があることを2人がしていることは察した。
「エミール!」
ルカが、大きな声を出す。
「ちゃんと説明しろ。これは、どういう事だ?」




